アメリカが日本の「センカク」を見捨てた!
何者かが巡視船「うおつり」への攻撃を開始する。
憲法9条の下にあるこの国はどう対処するべきか?
近未来の危機を描く迫真のシミュレーションノベル!
1
首相は一瞬、耳を疑った。
「アメリカが日本を見捨てる?」
「そうです。正確に言えば、日本のセンカクをアメリカは見捨てたのです」
深夜に叩き起こされたことも、理不尽としか言いようのない話の中身も、神経を逆なでするに十分だったが、何より国家の大事をまるで他人事のように話す、駐米大使のいかにも外交官らしい取り澄ました語り口に、首相はいらだちを爆発させた。
「それはどういうことなんだ!」
「ですから、ホワイトハウスは我が国との間で取り決めた、センカクに関する合意を破棄して、日米安全保障条約の適用範囲に尖閣諸島を含めるかどうか、その判断を保留する、と内々の決定を下したのです。表向きは白紙に戻しただけで結論はまだ出ていないとのことですが、大統領首席補佐官は私に向かってはっきり言われました。センカク防衛について今後アメリカからの助けは期待しないでほしいと。それも、expectとかhopeといった単語を用いず、外交の場では私自身かつて聞いたことのない、〈Don't hold your Breath!〉という、あけすけな表現を口にされました。直訳すれば、息を殺してじっと待つこともない、要するに、待っても無駄。ウォール街出身の補佐官らしい、身もふたもない、何ともビジネスライクな言いまわしです」
「きみはわたしに英会話を教えているつもりかね」
首相の皮肉に、さすがの大使も自らの失態に気づいたようだった。かしこまったように口調をあらため、話をつづけた。
「アメリカ政府はこれまでセンカクの帰属について、2国間の領土問題には立ち入らないとして、日本領なのか中国領なのか、いっさいの明言を避けてきました。どうやらその方針を安保条約の適用範囲にもスライドさせることにした模様です。以下補佐官の発言です。自衛隊が駐留する硫黄島と違って、管理人のいない無人島のセンカクに日本の施政権が及んでいるとは常識的に考えにくい。したがってセンカクで何が起ころうと、米国が防衛の義務を負ういわれはない、と」
一見唐突に見えるホワイトハウスの変心。だが、予兆がないわけではなかった。
センカクに不穏な動きがあったらアメリカはためらわず第7艦隊の空母を派遣すると、事あるごとに中国を牽制し、日本寄りの旗幟を鮮明にしてきた軍人あがりの国防長官が、先週いきなり辞表を提出したのだ。このため政権内部の権力バランスに大きな地殻変動が起こっているという観測が広がっていた。そこにきて、この180度の方針転換である。
駐米大使からの電話の内容は最高レベルの機密とされ、知り得たのは緒方(おがた)総理の他、腹心の官房長官、外相らごくひと握りの首脳に限られたが、戦後一貫して固い絆で結ばれてきた日米関係がこの先どうなるのか、揺るぎない同盟といえども、はじまったものにはすべて終わりがあり、その終わりがいまはじまったのか、受け止め方はさまざまだった。
逆に大使との話の中で補佐官がかつての日米激戦の地、硫黄島を引き合いに出したことから、これは日本に対して、センカクに自衛隊を駐留させるなど積極的にコミットさせるための、大統領ならではの、ブラフをきかせたメッセージなのではとする意見もあった。いささか深読みすぎるきらいもあるが、自らの島と主張したいのならまずは自分の血で贖えというわけである。
文字通り侃々諤々な中、ただ1点に関しては、総理以下全員の見方が一致していた。
「アメリカはセンカクを守らない」というこの極秘決定が、もし外部に漏れ、全世界に発信されたら......。
まちがいなく中国はセンカクを獲りにくる。
「パンドラの匣」は開けられてしまった。
2
「管理官っ、あいつら乗りこんできます!」
1等海上保安士の切迫した声が、スピーカーを通して巡視船「うおつり」のブリッジ内に響き渡る。
船長や業務管理官らが食い入るようにみつめる正面パネル壁のスクリーンには、監視カメラが捉えた映像が大写しになっている。
2隻の50トンに満たない漁船が左右両脇から「うおつり」の船尾に急接近してきて、すさまじい衝撃と動揺とともに体当たりをかますや、間髪いれず薄汚れた菜っ葉服姿の男たちが乗り移ろうとしているのだ。
総排水量1500トン、最新鋭巡視船「うおつり」の売りは、中国の海上保安庁にあたる海警局の哨戒船がおおむね最高時速40キロ前後なのに対して、毎時50キロを超す速さである。いまも強力なエンジンを全開させ、「全速前進」で漁船を振り切ればいいのだが、追突されたとき漁船が落とした漁網がスクリュープロペラにからみついたらしく、船足は一気に落ちて、船尾に喰らいついた漁船を引き離すことができなくなってしまった。
漁船の舳先に群がる男たちは、手にした鉤縄を「うおつり」の船尾に向かって投げ、先端の鉤状に鋭くとがったフックを手すりに引っかけると、それをたぐるようにしながら飛び移るタイミングを見計らっている。
波立つ海面にあおられて、漁船の舳先は大きく上下を繰り返している。だが、男たちは少しもひるむ様子をみせていない。それどころか、そのうちのひとりはロープを手がかりに、舳先がもっとも「うおつり」の船尾に近づいた瞬間、勢いよく踏み切って、軽々と宙を舞った。機敏で的確なその動きは、高度な訓練を積んできた者のようにまったく無駄がなかった。引きつづき同じロープを伝ってもうひとりが、さらに別の漁船からも男が飛び移ろうとしている。
「放水、用意!」
業務管理官の小野寺(おのでら)が鋭く指示を飛ばす。
「うおつり」のブリッジは、左右に広く240度の視界が確保された防弾仕様の窓に沿って、正面には操舵用のハンドルやレーダーといった巡視船の運航に欠かせない機器類が、向かって右側、面舵の方にはエンジン関係の出力コントロールパネルや計器盤が、さらに反対のとり舵、左手には搭載されている30ミリ機関砲やそれと連動して夜間、荒天でも目標を見失わず、追尾して照準を合わせられる赤外線捜索システムなど武器管制のコンソールがずらりと1列にならんでいる。
武器管制装置の前に座る2等保安士の中西(なかにし)は管理官の指示で自動車のサイドブレーキに似たスティックレバーをグリップした。
「目標、侵入者1名、圧は最大にしろ」
中西が思わず管理官を振り返る。
「そこまで強くすると、吹き飛ばされて海に落ちる恐れがあります」
「うおつり」の遠隔放水銃は最大出力で毎分2万リットルの水を高圧で発射する。その水量はふつうの消防艇が装備している放水砲の実に4倍、デモ隊を蹴散らす機動隊の放水車をはるかに上回る威力だ。
「非致死性武器」ではあっても、間近で直撃を受けたら眼球が破裂したり、肋骨や手足の骨が折れる危険は十分あった。そのまま海面に落ちれば、溺れてしまう。
「構わない。もう警告の段階は越えている」
中西は、小野寺管理官の傍らに立つ船長の葉山(はやま)の表情をちらっとうかがった。
船長はいつも通りの船長だった。たとえ船体が45度傾くような時化の海を乗り切るときでも、凪の海を行くときとブリッジに立つ船長がまったく変わらずにいることを中西は知っている。いまも一見掴みどころのない、この大海原を思わせる茫洋とした態度で、葉山は監視カメラが大型スクリーンに映し出す、船尾の状況に見入っていた。
船長も、管理官の小野寺も、紺色の作業服の胸もとには、ともに太い金筋が4本入った階級章をつけている。2等海上保安監、警察なら大き目の警察署長をつとめる警視正、自衛隊では連隊長クラスの1佐というところである。階級は同じでも、2人が海上保安庁で歩んできたコースはまるで違っていた。
船長の葉山が言わば船乗りとして港内を監視する小さな巡視艇から東南アジアなど海外にも派遣される世界最大級7000トン超えの大型巡視船までさまざまなタイプの船を、1度もオカに上がることなく30年あまり渡り歩いてきたのに対し、小野寺のキャリアの半分近くは地上の海上保安署で密輸や薬物犯罪の捜査や取り調べ、不法入国者の摘発といった海のデカ役に徹してきた。
修羅場をくぐってきた分、犯罪などの現場対処力で右に出る者はいない。とは言え、いったん船に乗りこめば、「うおつり」の最高責任者すなわち指揮官が船長の葉山であることは変わらない。
しかし葉山は、巡視船が海の警察として犯罪の取り締まりや遭難者の救助にあたる場面では、その指揮は管理官にゆだねるという、巡視船ならではの掟を守って、小野寺の指示に異を唱えることはしなかった。いまも黙っていることで、部下の乗組員に、指示に従えと命じている。
警官で言えばさしずめ巡査長の2等保安士中西は、放水銃の横についたガンカメラが送ってくる画像を先ほどからコンソールのモニター画面で確認している。そしてスティックレバーを動かし、銃の照準を船尾左側デッキにいる侵入者に合わせた。男はデッキの手すりから半身を乗り出して、漁船から飛び移ろうとしている仲間に手をさし伸べている。
「放水、はじめっ!」
管理官の号令と同時に中西はガンスイッチをONにした。
パネル壁のスクリーンにも、放水銃から猛烈な勢いで噴射する水に直撃され、侵入者が足もとから掬われたようにデッキにもんどり打ったあげく、手すりに押しつけられている様子が映っている。手足を懸命にもがいて、切れ目のない水の噴射から逃れようとしているものの、猛烈な水圧に封じこめられて、自力で立ち上がることさえできない状態だった。
漁船からの新たな侵入は高圧放水で食い止められる。あとは、後部甲板にいる1等保安士の工藤(くどう)らが5人がかりで侵入者を取り押さえて漁船に戻し、領海からのすみやかな退去をうながせばよい。そうしている間にも、応援を要請した僚船の巡視船「りゅうきゅう」から搭載ヘリが上空に飛来してくるだろう。10分と言わずほんの5、6分、時間を稼げれば、事態は収束する。
公海上をバラバラに航行していた2隻の漁船がいつのまにか「うおつり」の後方に回って、ぴったり張りつくという不審な動きをみせたあたりから、「うおつり」船内には船長の号令一下、「総員配置」がかかり、乗組員は通常のシフト勤務をはずれ、自分のベッドで休んでいた非番の者も駆り出されてそれぞれの持ち場についていた。
巡視船「うおつり」の乗組員30人はもちろん全員が海の警察官として時に銃器の携行を許され、さまざまな法執行の権限を持つ海上保安官である。このうち後部甲板で侵入者の身柄を確保しようとしている工藤ら5人は、不審船取り締まりや密輸摘発の場面で必要に応じて編成される特別警備隊、通称、特警に属している。「うおつり」の特警は総勢10名、工藤ともうひとりが30代で、あとはいずれも身体能力がひときわ高く、逮捕術や射撃の技倆に秀でた20代の若手ばかりが選抜されている。
ブリッジから侵入者制圧の指揮をとっている管理官の小野寺はいざという場合に備えて、この特警の残るメンバー5人にも召集をかけ、後部甲板にいる工藤ら先遣メンバーの応援に差し向けることにした。非常時の実動部隊、特警も、船長ではなく管理官の指揮下に入るのである。
工藤たちは丸腰で現場に臨んでいたが、小野寺は新たに現場に投入する5人に、鉄(テッ)パチとも鉄帽とも呼ばれるヘルメットをかぶらせ、さらに海保らしく救命胴衣の機能を併せ持つ防弾耐刃ベストを装着させた上、自動小銃や短機関銃で完全武装させるつもりだった。
何か特別な理由があったわけではない。ただ、モニターに映る漁民風の男たちをみつめるうちに、長年捜査の現場にいた経験が、そうせよ、と内なる指示をつぶやいたのだ。(『新潮45』2017年4月号より転載・つづく)
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杉山隆男
1952年、東京生れ。一橋大学社会学部卒業後、読売新聞記者を経て執筆活動に入る。1986年に新聞社の舞台裏を克明に描いた『メディアの興亡』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。1996年『兵士に聞け』で新潮学芸賞受賞、以後『兵士を見よ』『兵士を追え』とつづく「兵士シリーズ」は7作目の『兵士に聞け 最終章』で完結した。ノンフイクション、小説、エッセイなど精力的に執筆し、『汐留川』『昭和の特別な一日』『私と、妻と、妻の犬』など著書多数。
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(2017年4月22日「フォーサイト」より転載)