自由民主党・公明党・日本維新の会が児童ポルノ規制法の改正案を今国会中に提出する方向、と報じられている。
「自公が児童ポルノ禁止法改正案 わいせつ画像「所持」禁止」(産経新聞2013年5月21日)
自民、公明両党は21日、子供のわいせつな画像や写真の「所持」を禁止するための児童ポルノ禁止法改正案を議員立法として来週中に提出することを決めた。日本維新の会を含む3党の共同提案となる見通しで、今国会中の成立を目指す。
この件についてメディアの扱いは総じて小さく、あまり関心を持たれていないようだ。しかし、この改正案には憲法にも関わる重大な問題があり、憲法改正が選挙の争点となりつつある現時点で、決して軽視すべき問題ではない。
子どもを守るという目的自体には何の異存もないが、この改正案は、その目的を達するには不十分であるばかりでなく、深刻な権利侵害のおそれを含むという弊害があり、反対せざるを得ない。
児童ポルノ禁止法改正に反対というと、すぐに「お前は子どもを守りたくないのか」とか「エロ教授め」みたいなことをいう人が出てくるわけだが、もちろんそういう話ではない。そういうレッテル貼りこそが最も危険な発想だ。
この法案の内容については、みんなの党の山田太郎議員が自民党の高市早苗政調会長から説明を受けた際の資料を公開している(参考)。自民党・公明党が2009年時点に出したものとほぼ同様と思われる。その際は廃案となったわけだが、つまりこれは、彼らがもともと持っている考えということだろう。
もともと現行法は、規制の対象となる「児童ポルノ」の定義自体に問題があるとかねてより指摘されていた。特に法第2条第3項第3号に規定されるいわゆる「3号ポルノ」は、「衣服の全部又は一部を着けない児童の姿態であって性欲を興奮させ又は刺激するもの」というきわめて曖昧な定義となっている。自分の子どもや自分自身の写真も場合によっては児童ポルノとされかねないという意味で多くの人々を法的に不安定な状態にさらすだけでなく、いわゆる着エロ(着衣状態だが「性欲を興奮させ又は刺激する」とされる写真等)が対象となりにくいため、子どもの保護という観点でも不十分だ。
本来、子どもの権利保護は、この法律が第一に重視すべき目的であるはずだ。にもかかわらず、保護強化に直接関係する上記部分を放置して持ち出されているのが、単純所持禁止である。これまでは児童ポルノを作ったり販売・提供したりした者に規制範囲を限っていたから目立たなかったあいまいな定義の弊害が、実際に改正されれば多くの人々(女性も老人も子どもももちろん例外ではない)を脅威にさらすこととなる。この法案を作った人たちが、子どもの保護とは異なる意図をもっているのではないかと疑いたくなる。
その「意図」がよりはっきりと見えるのが附則だ。ここには、子どもの保護とは無関係な、マンガ等の表現物への規制につながる内容が含まれている。
附則第2条(検討)
政府は、漫画、アニメーション、コンピュータを利用して作成された映像、外見上児童の姿態であると認められる児童以外の者の姿態を描写した写真等であって児童ポルノに類するもの(次項において「児童ポルノに類する漫画等」という。)と児童の権利を侵害する行為との関連性に関する調査研究を推進するとともに、インターネットを利用した児童ポルノに係る情報の閲覧等を制限するための措置(次項において「インターネットによる閲覧の制限」という。)に関する技術の開発の促進について十分な配慮をするものとする。
2 児童ポルノに類する漫画等の規制及びインターネットによる閲覧の制限については、この法律の施行後三年を目途として、前項に規定する調査研究及び技術の開発の状況等を勘案しつつ検討が加えられ、その結果に基づいて必要な措置が講ぜられるものとする。
この条項で取り上げているマンガやアニメ等は作者による創作物であって、その制作にあたって子どもの性的搾取も性的虐待も行われていない。市場で売られても権利を侵害される子どもは存在しない。
子どもの保護と無関係なマンガ等の規制(の可能性)が持ちだされていることを、先の着エロの問題と重ねて考えてみると想像がつく。この法律案を作った人たちの関心は、子どもの保護そのものよりも、表現行為の規制にあるということだろう。
「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」という有名なことばがある(18世紀フランスの哲学者ヴォルテールのことばとよくいわれるが実際にはちがうらしい)が、私たちはもう一度、民主主義の原点に立ち返るべきだ。表現の自由とは、自分がよいと思う表現だけ保護すればいいというような考え方ではない。人間の考え方は多様であり、その多様性こそが民主主義の価値を担保する。自らにとって都合の悪い表現、自分が嫌いな表現の存在を認めて初めて表現の自由と呼べるのだ。
もちろん一定のケースで制約すべき必要があることは否定しないが、それはきわめて重大な、いわば「明白かつ現在の危険」がある場合に限られるべきであり、したがって最小限でなければならない。いろいろ理屈をつけているが、この附則第2条は、子どもへの権利侵害がない以上、表現の自由への重大な侵害を正当化するほどの根拠があるとは思えない。
もちろんここに書いてあるのは「検討」であって規制そのものではない。しかしこれは、将来の規制を念頭に置いた動きだ。このように書かれた場合、規制を次の段階に控えていると考えるのが常識だ。政府が規制の方向で検討しているというだけで、表現行為への萎縮効果は格段に大きくなるだろう。研究を行うべきであることは同意するが、それはこのような政治的に方向づけられたものではなく、あくまで学術的な見地から行うべきである。
このような、検討と規制を段階的に行おうとするやり方は、今、憲法改正問題で、与党が持ち出している第96条、つまり憲法改正手続きに関する規定の改正案、いわゆる「二段階改憲」を思い出させる。つまり、より抵抗感が少ないと思われる策で「既成事実」を作り、目的を達成する足がかりにしようというアプローチだ。
第96条改正の後で何をやりたいかは、公開されている自民党の改正憲法草案に表れている。マスメディアやオールド論壇の皆様の関心は第9条に集中しがちのようだが、むしろ焦点は国民の権利に関する部分のように思う。表現の自由を定めた第21条では、
前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。
と規定する第2項が追加されている。オウム真理教のような団体を念頭に置いたもの、という意図はわからないでもないが、「公益及び公の秩序を害する」かどうかを判断するのは政府だ。国民の権利を制限する方向に舵を切ったものであることは否定できない。私には、これは児童ポルノ禁止法における表現の自由への規制強化と同じ方向性のものであるように思われる。これが現在の自民党の方向性ということなのだろう。
児童ポルノ禁止法改正案は、今国会にも提出されるといわれている。上記の通り、総じて関心は低いようだ。児童ポルノはどんどん規制されるべきと考える人が多いのはもちろんわかる。私も、子どもの権利を保護することにつながる規制強化なら基本的に賛成だ。しかし、憲法改正が取りざたされる現在の流れの中で考えると、この改正案、中でも表現の自由を制限するマンガ等の規制につながる附則第2条は少なからず危険である。
法案は(現行法もそうだが)、「国際的動向」を理由に挙げている。しかし法や制度のあり方はその社会や人々の状況に沿ったものであり、状況の違う社会の法や制度をそのまま持ってくればいいというわけではない。子どもの権利保護に直結する、実在の子どもを使った児童ポルノの規制についてならともかく、被害者が存在しないマンガ等については、日本と海外との文化や社会的状況の違いも踏まえて、私たちが独自に考えるべきだと思う。
最低限、附則第2条は削除すべきだ。併せて、子どもの権利保護にきちんとつながるよう、単純所持規制を含む改正案全体についても抜本的な見直しを求めたい。
最後に、有名な詩を1つ引用しておく。ドイツのルター派牧師であり反ナチス行動で知られるマルティン・ニーメラーによる詩、とWikipediaには書かれている。自民党がナチスだと言いたいわけではもちろんない。しかし、現在与党が行おうとしていることは、ここに描写されたこととその手法においてあまり変わらないように思われる。与野党の政治家の方々の良識ある判断を求めたい。マスメディアの方々にも、そして他の一般の方々にも、この問題を一般的な人権の問題として真剣に考えていただきたい。
彼らが最初共産主義者を攻撃したとき
ナチ党が共産主義を攻撃したとき、私は自分が多少不安だったが、共産主義者でなかったから何もしなかった。
ついでナチ党は社会主義者を攻撃した。私は前よりも不安だったが、社会主義者ではなかったから何もしなかった。
ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。
ナチ党はついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動した―しかし、それは遅すぎた。
(この記事は2013年5月24日の「H-Yamaguchi.net」より転載しました)