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2018年09月14日 11時12分 JST | 更新 2018年09月14日 11時23分 JST

「夢は叶う」と思わせてくれた人たち MALICE MIZER 25周年

誰かがたまたま与えた「チャンス」が、その人の人生を変えることがあるのだと。

Aaron Foster via Getty Images

 9月9日、MALICE MIZER 25周年のライブに行ってきた。

 MALICE MIZERとは、1997年にメジャーデビューし、怒涛の快進撃で横浜アリーナ公演などを成功させるものの、01年に活動休止した伝説のバンドである。

 そんなMALICE MIZERがインディーズで活動していた頃、私はバックダンサーをさせて頂いたことが何度かある。96年頃の話だ。

 きっかけは、当時、私が球体関節人形を作っていたこと。自分の人形が出品される展覧会の案内を、MALICE MIZERの事務所に送ったのだ。当時の私は「耽美」系の人形を作っていた。もしかしたら関心を持ってくれるのでは、と思いながらも、当人に渡ることなどないだろうと駄目元で、軽い気持ちで送った案内だった。そうしたら、来てくれたのである。展覧会に。メンバーが。

 そうして知り合い、ある時、ライブのバックダンサーの依頼を受けた。もちろん私にダンス経験などない。皆無である。それどころか運動神経もリズム感も何もかもが激しく欠落している。しかし、私はふたつ返事で引き受けた。そんな貴重なチャンス、逃すわけがなかった。もともとMALICE MIZERの世界が好きで展覧会の案内を送ったのだ。その世界に自分がダンサーとして入れるなんて、これ以上光栄なことがあるだろうか? 

 ライブに備えた「特訓」が始まり、迎えた本番。

 96年、渋谷ON AIR WESTの袖から『麗しき仮面の招待状』のイントロに合わせてステージに飛び出したのが、私の「初ステージ」だった。直前の楽屋での練習で、緊張で頭が真っ白になって振り付けを全部忘れるという大失態をおかしていた。しかし、本番では、羽根のたくさんついた黒いドレスで踊り、なんとか生きて楽屋に戻ることができた。そうしてそれから何度か、彼らのステージにダンサーや「SMショー的な演出の際に手錠をかけられ張り付けられたりする役」として出演させて頂いた。

 その経験は、あまりにも光栄で刺激的で、なんだか「情熱大陸」のMALICE MIZERバージョンを最前列で見ているような、恐ろしく貴重な日々だった(「情熱大陸」はまだ始まってなかったけど)。そして何より、私にこれ以上ないほどの「学び」を与えてくれた。一言で言うと、私の人生を変えるほどのものだった。

 印象に残っていることは多くあるが、何よりも驚いたのは、彼らの表現に対するストイックさだ。常に「完璧なステージ」を追い求め、そのためにはあらゆる努力を惜しまない。たった数時間のライブのために、膨大な時間と労力をかけて準備をしているということに、そしてそれに多くの人がかかわっていることに、私はいつも驚いていた。だからこそ、MALICE MIZERのライブはライブというより「ショー」で、他のどんなバンドとも違った。

 当時の私はヴィジュアル系バンドのライブを多く観ていたけれど、MALICE MIZERは他のどのバンドの追随も許さない徹底した演出で、絶大な人気を誇っていた。そうして彼らは、それまで誰もやらなかったことをやっていた。ステージで演奏をせずに踊り出す。ライブの途中に演劇が始まる。「ヴィジュアル系」の域を軽く超えた「やりすぎ」な衣装とメイク。そうして中世ヨーロッパのようなドレス姿なのに、時に自転車でステージに登場し、時にローラースルーゴーゴーで舞台を駆け巡る。そのすべてが観客たちを喜ばせ、熱狂させた。

 本番がどれほど「怖い」ものかも初めて知った。特にMALICE MIZERの世界は完璧さが求められるので失敗は許されない。ステージに出る前、私はいつも緊張で逃げ出したくなっていた。バックダンサーの私など誰も見ていないのにもかかわらず。メンバーの名前を絶叫する、超満員の観客の前に悠然と出ていくメンバーたちの後ろ姿が、ただただいつも眩しかった。なんかもう、自分の目線が「情熱大陸」のカメラじゃないことが申し訳なかった。

 ステージでは、いろんな「想定外」が起きることも知った。一度、目の前に「死?」という言葉がよぎったこともある。棺桶に入ってメンバーが登場するという演出の際、棺桶を運ぶ人が誤って落としてしまったのだ。ステージ上でのことだった。私もステージにいたもののどうしていいかわからず、しかし、何事もなかったかのように棺桶から出てきて演技を始めるメンバーを見た瞬間、「この人たち、やっぱりすごい...」とつくづく思った。そんなメンバーは、全員がびっくりするほどジェントルマンで、芸術家のような佇まいだった。

 そんなMALICE MIZERの人気はどんどん凄まじいものになっていき、97年にはメジャーデビュー。前述したように横浜アリーナでライブをするほどの巨大なバンドになっていた。ダンサーは当然プロがやるようになって私がステージに出ることはなくなったものの、彼らの快進撃を、私はいつも鳥肌が立つような思いで見ていた。「夢」って、ほんとに叶うんだな、と思いながら。

 90年代後半。当時はヴィジュアル系の全盛期と言われた時代で、MALICE MIZER、SHAZNA、FANATIC◇CRISIS、La'cryma Christiの4バンドが「ヴィジュアル系四天王」と呼ばれていた。

 それ以外にも多くのヴィジュアル系バンドがブレイクし、その中には、小さなライブハウスでやっている頃から観ていたバンドも多くあった。自分が好きでよく知るヴィジュアル系の世界に、「一夜にしてスター」みたいな出来事が、本当にゴロゴロ転がっていたのだ。

 このことは、20歳そこそこだった私の人生観に大きな影響を与えたと、今になって改めて思う。MALICE MIZERというよく知る人々や、知り合いではないけれど「無名の頃からライブに行っていたバンド」が急に売れ出してテレビをはじめとするメディアに登場しまくるという現実。私はとても素朴に、夢は叶うし、努力は報われるし、やりたいことで食べていくことはまったくの夢物語ではない、と信じられたのだ。

 時は90年代後半。バブル崩壊の余波がいよいよ人々の生活を本格的に圧迫し、リストラの嵐が吹き荒れ、年間自殺者が3万人を突破し、山一證券や拓銀が破綻するなど世の中は暗いニュースにあふれていた。だけど、オリコンチャート上位にはいつも多くのヴィジュアル系バンドの名前があって、私は「彼らのように、自分のやりたいことを思い切りやって生きていきたい」と心の底から思った。当時はそれがなんなのか、そこからわからなくて人形を作ったりバンドを組んだり、果てはその後右翼団体に入ったりと迷走を繰り返したものの、身近な「成功モデル」を目撃したことは、どれほど私に勇気を与えてくれただろう。MALICE MIZERのバックダンサーという経験がなければ、彼らのストイックすぎるプロ意識に触れていなければ、私はそもそも「物書きとして食べていく」人生など、目指していないと思うのだ。

 2000年、私は1冊目の本を出してデビューとなった。それから18年が経つ。出版した本は、50冊を超えた頃からわからなくなったので誰か教えてくれないだろうか?

 そして9月9日、MALICE MIZERのステージに初めて立ってから20年以上。MALICE MIZER結成25周年のライブが豊洲PITで開催された。当時の関係者からお誘い頂き、実に二十数年ぶりに彼らのステージを観た。

 そのステージは荘厳で幻想的で美しくて、何もかもが夢みたいで、一瞬で「あの頃」に引き戻された。そうして、当時の気持ちを強烈に思い出した。「夢は叶う」と無邪気に思わせてくれたからこそ、自分が何かを目指そうと思ったこと。

 だけど、今の時代はどうだろう。20年前の私のように、「夢は叶う」なんて素朴に思える若者は恐ろしく少数派だろう。「やりたいことをする」「好きなことで生きていく」と言ったところでリスクばかりが強調され、「失敗したらどうするんだ」という脅迫が待っている。そんな「失敗が許されない社会」では、そもそも何かに挑戦しようという気自体が起きないはずだ。

 今、貧困問題を取材し、書いている自分も、そんな空気を作ることに加担しているのかもしれない、なんて思いもある。現実を知ることはもちろん必要だけど、「挑戦して失敗する」ことは若者に許された特権だったはずなのだ。

 そうして私が若者だった頃から20年以上の時間が経った。

 43歳の私は、MALICE MIZER 25周年のライブを観ながら、思った。

 誰かがたまたま与えた「チャンス」が、その人の人生を変えることがあるのだと。その経験がその人の大きな自信につながることがあるのだと。恥多き人生の中、MALICE MIZERのバックダンサーをしたという事実は、私の人生において唯一くらいの自慢である。あの短い日々から学んだことは、今の自分の中に確実に生きている。何よりも、ダンス経験皆無の私をあの「完璧」が必要とされるステージに出してくれたことに感謝している。「こいつはできるだろう」と「信じて」くれたからだ。人は信頼されると、力を発揮することができる。逆に信頼してもらえないと、力など発揮できない。そのことを、私はステージから学んだ。

 あの時、声をかけてくださってありがとうございますと、あの経験は私の宝物だと、大好きな曲に包まれながら、心の中で何度も何度も呟いたのだった。あれから20年以上経っても、みんな最高にカッコよかった。