長年の念願が叶い、京都・太秦の広隆寺に安置されている聖徳太子像を年に一度だけ拝観できる、聖徳太子御火焚祭(おひたきさい)を訪れることができました。
この太子像には、歴代天皇がご即位の大礼に着用された黄櫨染御袍(こうろぜんごほう)の御束帯が即位後に贈られ、各天皇の御一代を通じて御召しになるならわしになっています。ということで現在、太子像が御召しになっている御束帯は現天皇陛下(今上天皇)から贈られたものです。
広隆寺と言えば国宝「弥勒菩薩半跏思惟像」で有名ですが、日本書紀によるとこの像を聖徳太子より秦河勝(はたのかわかつ)が賜り、ご本尊として推古天皇11年(603年)に建立したのが始まりとされています。山城最古の寺院であり、聖徳太子建立の日本七大寺の一つでもある由緒あるお寺です。
聖徳太子は、私にとって永遠のスーパーヒーローであり、歴史上最も敬愛する憧れの人物であります。半島や大陸などとの国際緊張が高まる中、遣隋使を派遣し渡来系氏族を重用するなどして大陸の進んだ文化や制度をとり入れ、「十七条の憲法」の制定により文明国家としてのガバナンスやモラルを確立し、「冠位十二階」の制定により世襲や出自ではなく人物本位・実力主義による登用や出世を可能にし、仏教をとり入れ神道とともに厚く信仰し興隆につとめた聖徳太子。
最近は「聖徳太子」という呼称が教科書から消え厩戸王と表記され、「十七条の憲法」や「冠位十二階」の制定、遣隋使の派遣などといった実績をすべて聖徳太子という一人の人物が実行したことを疑問視する学説が主流ですが、私自身は"聖徳太子は不滅"だと今も変わらず信じています。
たとえば「十七条の憲法」に記されている、ある意味とても人間臭く血の通った人間観や組織論、あるいは広く開かれた視野に基づいた俯瞰的な世界戦略や国家ビジョンなどは、やはり誰か特定の人物が発想・構想し指揮をとって進めない限り、それぞれの知恵の寄せ集めで構築・展開できるものではないと思うのです。
用明天皇の皇子であり、母は欽明天皇の皇女でありながら、天皇になることなく命を絶たれた聖徳太子。その死因は今も諸説ありますが、時代や洋の東西を問わず、理を尊び慈悲に厚く高潔で開明的な改革者の末路は悲劇的なものと決まっています。ただそれでもなお、聖徳太子は時空を超越して生き続ける、日本の歴史上最も重要であり確かな存在であったことを証明するのが、後奈良天皇以来、歴代天皇が即位式で着用された上で広隆寺に営々と贈り続けられているその御束帯ではないでしょうか。
聖徳太子に腹心として仕えた秦氏は、中国から朝鮮半島を経由して渡来した帰化人で、大勢で日本に渡って来たのは応神天皇16年と日本書紀に記されています。主に養蚕・機織を業としながら大陸や半島の先進文化を我が国に輸入することに努め、農耕や醸造、治水など、当時の地方産業発展や国土開発に貢献しました。
祭事は毎年11月22日。この日は夫の誕生日にあたることもあり、久しぶりに揃って京都を訪れることとなりました。日頃は締め切られひっそりとした入母屋造りの上宮王院太子殿にもこの日は五色幕が掛り、中央には菊の御紋も掲げられて華やいだ雰囲気です。
初めてご尊顔を拝することが叶った太子像、その高貴さ、神々しさたるや格別でありました。通常、聖徳太子像というと幼少期か少年期のお姿を映したものが多いのですが、こちらの像は成人された立像(秦河勝に仏像を賜った33歳とされています)で想像していたよりもずっと大きく(148cm)、御召の御束帯のせいもあってか威風堂々とした中にも生き身の人のようなぬくもりとオーラをひしひしと感じました。
上宮王院太子殿を後にし、太子像の参拝中ずっと聞こえていた読経に導かれるようにして境内奥に向かうと、そこでは御火焚祭のメインイベントであるお焚き上げがクライマックスを迎えていました。
山伏の方々が、願い事が書かれた護摩木を勇壮に中央に築かれた護摩壇に投げ入れて行きます。
燃え上がる炎、焚き上る白煙、パチパチとはじける音、そして炎からの熱気とその迫力は圧巻。お焚き上げの最終盤には、山伏のお一人が護摩焚の煙でお祓いをした笹飾りを持ち、取り巻いている参加者たちの頭を拭いながら一巡されるのですが、私たちも丁度そのご利益に預かることができました。
念願の太子像を拝観した後は、秋も深まる嵯峨野へ移動。と言ってもお目当ては紅葉ではありません。
実は6、7年前に夫と京都を散策中、偶然、あるお寺で夫の御先祖と思しき方の墓所に巡り合ったのです。夫の祖先は新田義貞の家臣で、その墓は義貞候の首塚にありました。
たまたま訪れたお寺の脇にあった細い参道をなぜか登ったら、そこに新田義貞の墓所が現れ、しかも「船田何某」と書かれた墓石が並んでいた。そんな不思議過ぎる出来事を前に、その時は二人とも狐につままれたような気分でリアリティーがなく、その後もあれは夢幻だったのかもしれないという感覚だったのですが、なぜか今回、聖徳太子像の参拝に出発する前日になってこの事を思い出したのです。
当時はお寺の名前さえ記憶していなかったので調べようもなかったのですが、あれから時は流れ今やネット検索でなんでも調べられる時代。「京都」「新田義貞」「墓所」とキーワードを入力すると、見事に嵯峨野の「滝口寺」がヒットしました。
しかも、そこに掲載されていた墓所の写真は、確かに二人が目にしたあの光景! なんとも便利な時代になったものです。
滝口寺は紅葉で有名な祇王寺と地続きに位置しますが、滝口入道と横笛の悲恋の逸話にふさわしくひっそりとした小ぶりな佇まいで、なんとも風情のあるお寺です。
墓所を訪れると新たに柵が設けられていましたが、係りの方に事情を話すと快く開錠して下さいました。
まずは中央の義貞候の墓石に手を合わせてから家臣団の墓石に目を遣ると、左列3番目に確かに船田の文字が...。よく見ると、船田藤左衛門と書かれていました。
お供えも携えずに来てしまったので、境内で赤や黄色に色づいた紅葉を狩り、新田候には二枚、その他の墓石には一枚ずつ供えさせていただき手を合わせました。
家臣団の墓所の左脇には、スラッとした姿の美しい多層塔が。義貞候の奥方の墓所とのことですが、この方が三条河原に晒された義貞候の首を密かに奪還し、この地に埋葬したと伝えられています。
奥方様には、参道で目にした薄紅色の山茶花を手向け手を合わせました。
深まる秋、時空を超えて歴史上の人物と親しく交わらせていただいた、京の都の昼下がりでありました。