ハワイの空の下、夫婦で造り上げた珠玉の芋焼酎「波花」ー「ハワイと日本、人々の歴史」第5回

アロハ、Myハワイ編集長明子です。「ハワイと日本、人々の歴史」シリーズでは、観光地としてのハワイから一歩踏み込み、ハワイと日本をつなぐ人々に焦点をあて、その歴史を掘り下げて紹介しています。今回は、今新たに歴史のページを開いたばかりの日本人夫婦をご紹介しましょう。

アロハ、Myハワイ編集長明子です。「ハワイと日本、人々の歴史」シリーズでは、観光地としてのハワイから一歩踏み込み、ハワイと日本をつなぐ人々に焦点をあて、その歴史を掘り下げて紹介しています。今回は、今新たに歴史のページを開いたばかりの日本人夫婦をご紹介しましょう。「ハワイの空の下、美味しい焼酎が造りたい!」その一心で、苦節9年の末、ハワイで初めてのハワイ産芋焼酎「波花(なみはな)」を造り上げた、平田憲さんと由味子さんご夫妻を訪ね、ノースショア(オアフ島北海岸)のハレイワにやってきました。

平田夫妻の焼酎について初めて知ったのは、ハワイ出雲大社でのことでした。3年ほど前、出雲大社でのお正月のお手伝いをしているときにご夫妻に知り合い、焼酎造りのお話を聞きました。そのときはまだ焼酎造りの予定は未知数の状態でしたが、数ヶ月前に出雲大社から、「ついに平田さんの芋焼酎が完成した」との知らせを受け、さっそく蔵をたずねることに。

世界中からの観光客でにぎわう、オアフ島ハレイワの町ですが、中心部をはずれるとそこにはのどかな、昔ながらのハワイが広がっています。ハレイワ小学校のすぐ近くに、平田夫妻が営む、「Hawaiian Shochu Company(ハワイアン焼酎カンパニー)」の蔵はひっそりと佇んでいます。建物に近づいていくと、飼い犬IMO(イモ)が尻尾を振りながら出迎えてくれました。

まずは内部を案内してもらいます。半分地面に埋まるように、ずらりと並べられた甕と大きな木の樽にびっくり。なんと日本で150年前に作られたものだそうです。ここでは、鹿児島に伝わる黒瀬杜氏(くろせとうじ)の伝統手作り技法に則った、焼酎作りが行われています。

平田憲さんが焼酎造りを志したのは9年前のこと。ハワイに住んでいた両親を度々訪ねていた平田さん、ある日ポイ(タロイモを突き混ぜ発酵させたハワイアンの主食)を食べて、「ポイも発酵食品だから美味しい焼酎が作れるのではないか?」と、思い立ったそうです。その後リサーチを重ね、ハワイには良いサツマイモがたくさんあるので、タロよりもサツマイモを使うことにしました。37才のときに仕事をやめ、鹿児島の「万膳酒造」に弟子入り。3年間の修行中に米の蒸し方から手もみによる麹造り、もろみの熟成、木樽蒸留器での蒸留をみっちり学びました。その後、師匠も毎年ハワイを訪ね、2人を応援。努力の結晶「波花」は、師匠から「美味しい。これなら売ってよし!」とのお墨付きをもらったそうです。

波花の主原料はハワイ産のオキナワン・スイートポテト(紫イモ)。年間を通じて爽やかで、サツマイモの最盛期である鹿児島の秋のような気候のハワイは、芋焼酎造りに最適の場所なんだそうです。火山の影響受けた土壌は良質のサツマイモを育み、さらに素晴らしい水質の水とあいまって、ハワイでしかできない、ハワイならではの焼酎「波花」が生まれたのです。波花という名前は、まずハワイのローカルの人々から日本語の名前をつけて欲しいといわれたこと、ノースショアのシンボルの波、ハワイのシンボル花を合わせて付けられました。

波花ができるまでに、一番苦労したことは蔵を建て仕事を軌道にのせることだったそうです。免許やビザ取得などのペーパーワークが大変で、時間も資金も当初計画していた倍ほどかかりました。また、ハワイは全てにおいてのんびりペースで、蔵にはまだ電気がきていません。仕込みの時だけジェネレーターを借りて、普段は電気のない生活だそうです。以前はトレーラー住まいで、ビーチにシャワーを浴びに行くこともあったとか。

それでも、嬉しいこともたくさんありました。食べ物や飲み物をもってきてくれたり、ブルドーザーを貸してくれたりと、地元の人々による損得勘定のないサポートは、本当に心強かったそうです。ハワイの地で、地元の人々にしっかり受け入れられた、平田夫妻の芋焼酎。口に含むと、フワッと上品な甘みが広がり、すっきりしたのど越しとともに爽やかな余韻が感じられます。現在波花の小売はハレイワの蔵のみで行われていますが、ホノルル市内のレストラン(和田、ジャペンゴ、ロイズ、アラン・ウォンズ、とっくり亭など)でも楽しむことができます。ハレイワの蔵で購入する場合は、事前にハワイアン焼酎カンパニーまでメールで連絡するようにしてください。

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(※この記事は2013年11月7日の「Myハワイ」より転載しました)

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