あえて物申す! 喫煙(者)を「差別」すべきである。

一般的に言われている差別と喫煙に対して求められる差別には大きな違いがある。
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ここ一週間で、タバコに関するニュースがいくつか報道された。「喫煙可の大臣室、とうとう禁煙に 受動喫煙対策法成立で」や「喫煙を目撃したら実名で報告を 堺市教委の教職員調査」などもあったが、最も反響が大きかったのが「がん患者へのヤジ」であった。

受動喫煙対策を強化する健康増進法改正案を審議する衆院厚生労働委員会に参考人として出席した肺がん患者の長谷川一男氏の意見に耳を傾けるべき時間に、「いい加減にしろ」とヤジ飛ばすという人間としての品格のなさ、国民の代表である国会議員として自覚のなさを露呈した。何よりも目の前の者はもちろんその後ろにいる受動喫煙による無数の被害者を無視した発言であった。むろん「いい加減にしろ」は、おそらくヘビースモーカー穴見陽一議員に限らず、その内の割合は別として喫煙者の弁でもあろうと察する。

本人もここまで事が大き気なるとは思っていなかったに違いない。失言が指摘されると、自己のホームページでコメントを発表した。そこには「喫煙者を必要以上に差別すべきではないという想いで呟いた...」と書いてあった。それを受けて、長谷川氏は「喫煙者を差別する意図は全くない。...」と弁明。いつの間には、このニュースが喫煙者に対する差別か否かの話になっている。

これは差別的な発言か否かの話ではない。あえて言うなら喫煙(者)を差別すべきである。逆にいうと未だ差別していないことが問題である。

「差別」の意味を字面を読むと、差をつけて別けるという意味だと読み取れるが、ネット上で検索すると1. 差をつけて扱うこと。わけへだて。2. 区別すること。けじめ。と出てくる。

人権分野に関わっている者の端くれとして「差別」は最も「差別」する言葉はであるが、喫煙は差別したい。逆にいうと非喫煙者と喫煙しながら同じ空間を共にすることを認められないことに対して差別や人権などの概念を後ろ盾として持ち出すには大きな無理がある。何よりも受動喫煙により死に至らしめられているという大きな人権侵害の事実を避けて通れない。

世の中、共に生きるに当たって、考慮すべく、あってはならない違い(差別)と、なくてなならない違い(差別)がある。出生、国籍、人種、民族、性別、人種など生まれもった個性や宗教などの信条などに対する違いは前者に該当し、喫煙と非喫煙の関係は後者に当たる。

一般的に言われている差別と喫煙に対して求められる差別には大きな違いがある。一般的な差別は「者」や「人格全般」が対象になっているのに対して、喫煙に関して「者」ではなく「受動喫煙と伴う喫煙」という限定的な行為に対して差別を求めているのである。

人に煙害を及ぶところで吸わせないのが差別で、吸う事が権利というなら、望まない者に煙を吸わせるという差別以下に当たる人格無視の現状をまず解消しなければならない。

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