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2018年07月03日 14時33分 JST | 更新 2018年07月03日 14時33分 JST

日本から「外国人」がいなくなる日

国旗をつけることなく、外国出身者が元からの日本人と同列に並んで日本のことを考える時代が来ているような気がする。

KYOTO, JAPAN - JULY 17, 2017: Gion Matsuri Floats are wheeled through the city in Japans most famous festival.
Alexander Vow via Getty Images
KYOTO, JAPAN - JULY 17, 2017: Gion Matsuri Floats are wheeled through the city in Japans most famous festival.

 今になっては懐かしい思い出である。日本に来た30年前はちょうど「世界まるごとHow much」という番組がやっていた。そこには、日本のタレントと並んで外国出身タレントも登場していた。私のような一文無しで来日し、学費を稼ぐためのアルバイトに追われている身にとって輝く「外国出身タレント」らはいつの間にかロールモデルとなった。日本はバブル時代にあってあの番組は、日本人の国際的視野を広げる役目を果たしていたと振り返る。

 メディアはいつも時代を反映させる鏡である。いつもの時代もメディアに「外国人」が登場し、そして「外国人」の役目も時代に応じて移り変わっているように見える。

 外国人がまとまって登場した番組として印象に残っているのは、「ここが変だよ日本人」である。日本や日本人は変ではないかと各国出身者が持論を展開する番組である。あの番組は、時代が前後しては成り立たず、バブル崩壊していたものの日本人の心のゆとりがあった時代だからこそ成り立った番組だったと振り返る。

 今、流行っているのは「日本は変」などと真逆の「日本はすごい!」という類の番組である。どこか自信を失いかけている日本人を元気付ける役目もまた、時代に応じて外国人が担っているようである。

 これからも「外国出身タレント」は日本のメディアに登場するに違いない。そして彼らが担っている役目を通して、その時の「日本」の姿も垣間見ることが出来るに違いない。

 メディアの特性の一つに判りやすさやコントラストを追求するということがある。「賛成」と「反対」などの対立軸はその代表的なところであろう。外国出身タレントを使った番組にも近い景色がある。胸元に出身国の国旗をつけられているのである。日本と外国とのコントラストを引き立たせている。

 素朴な疑問を抱く。国境を跨いだ外国出身がどれぐらい長く母国の代表者であり続けられるであろうかと、そしてどれぐらい長く胸元に国旗をつけて役目を果たせるのだろうかということである。

 アイデンティティとは固定されたのもではなくむしろプロセスである。

 日本に来てしばらく経った頃の一つの思い出がある。10年近く続けた山鉾曳手のボランティアとして参加した京都祇園祭の日。仕事が終わり帰路に着く頃たまたま出くわした新聞記者の友人と雑談した。友人も取材するつもりではなかったと思うが、雑談が記事の一部になっていることが、関わりあった組織の上の方の者から怒って電話が掛かってくるという意外な形で知ることとなった。

 「君は、自分だけが目立とうとしてはいないか。もっと国際比較や外国人としての日本の祭の素晴らしさを讃えるようなコメントはないか」という内容のものであった。新聞を手に入れ、記事を読んでやっと状況が把握できた。うろ覚えだが、そこには「祇園祭は、自分の誕生日などとも重なる時期でもあるので、一年が終わり、次年をどのようにしたいかなどを考えながら祭りに参加していた」。「草鞋で足が少し痛かった」などとも書いてあったに覚えている。

 中には例外はあるだろうが、日本に来ている外国出身者は、いつまでも母国を引きずっているとは限らない。私なども祭りに参加した1,2年目は、母国との比較も出来たにせよ、回数を重ねると参加する意味や感想はおそらく元からの日本人とほぼ変わらなくなる。

 国旗をつけられ国の立場を代表できることにも限界がある。胸の国旗に比例した発言を求められるとなると、タレントの在日歴が自ずと短くなる。エンターテインメントとしてはそれで良いのかもしれないが、表面的な話でしかなくなってしまうということでもある。

 在日の外国出身者も増え、長期滞在化し、ダブルも増えている。コントラストを求めるメディアにとっては痛手なのかもしれないが、国旗をつけることなく、外国出身者が元からの日本人と同列に並んで日本のことを考える時代が来ているような気がする。外国出身者が胸元に国旗をつけて登場する姿の見納めのある意味貴重な過渡期に我々が生きているような気がする。