連合は「誰もが参加可能な共生社会の実現」に向けて2020東京パラリンピック開催を全力で応援中。パラスポーツへの理解と共感を広げる「ものがたり」を連載でお届けする。
スポーツには、人を前向きにする力がある
2008年の北京パラリンピックで銀メダル(走り幅跳び)を獲得し、日本人初の義足のメダリストとなった山本篤選手。以来、パラ陸上のトップアスリートとして世界を舞台に活躍し、2016年夏のリオ大会では2つのメダルを獲得。昨秋、プロ転向を表明し、今年3月の平昌冬季パラリンピックではスノーボード競技に出場して注目を集めた。義肢装具士の国家資格を持ち、スポーツ科学の研究者でもある。まさに型破りの進化を続ける、その素顔に迫った。
山本 篤選手陸上競技プロアスリート
再びスノーボードをやりたい一心で
─スポーツ少年だったと...。
子どもの頃からスポーツは大好きでした。小学校では野球チーム、中学・高校ではバレーボール部に所属し、冬は家族旅行で年に2回くらいゲレンデへ。特に中学に入ってからはスノーボードに夢中でした。
バイクの事故で左足を粉砕骨折したのは、高校2年の春休みです。最初は膝を残して切断したんですが、高熱が続いて再度大腿部で切断する手術を受けました。
─多感な年頃で足を失うことの抵抗も大きかったのでは?
血管が詰まってしまい、足先の変色が進んで何日も熱が下がらず、最終的に「足を失うか、死ぬか」という選択でした。生きるのに必死であまり深く考える余裕はなかった。それに、事故は完全に単独の自損事故だったので、誰かのせいにするわけにもいかなかった。「なんで自分がこんな目にあうのか」とは思いましたが、起きてしまったことは変えられない。それよりも、これから先、どうしたいのかを考えてみようと思ったんです。考えて、考えて、湧き上がってきたのは、「スポーツがしたい、もう一度スノーボードがしたい」という思い。手術の直前、医師に「切断してもスポーツはできますか、スノボはできますか」と聞いたら、「スノボはわからないけど、スキーならできる。車の運転もできるし、頑張れば走れるようにもなる」という。手術後には、友人から聞き、義足のプロスノーボーダーが掲載された雑誌を見つけました。
全身状態が回復すると、リハビリが始まりました。学校が終わってからの週5日のリハビリはハードでトレーニングに近いプログラム。理学療法士の先生が、僕の希望を受け止めて、スポーツができる身体の基礎をつくってくれたんです。リハビリ開始から1カ月が過ぎた頃、義足ができてきました。最初は痛みや違和感があって立つことも難しかったんですが、なんとか1週間ほどで歩けるようになりました。左足を失って日常生活でのさまざまな変化はありましたが、気持ちの上では、スポーツをやりたいという一心で切り替えができたんだと思います。事故から約8カ月後、僕はまたゲレンデに立ってスノーボードにチャレンジできました。
義足のアスリートとして初のメダル獲得
─パラ陸上との出会いは?
義足を付けて歩く訓練をしていた頃、義肢装具会社主催のイベント「ランニングクリニック」のビデオを見せてもらったんです。ゲストのパラリンピックメダリストが義足で疾走する姿に感動し、自分も思いきり走ってみたいと思いました。
高校卒業後の進路には悩みましたが、義肢装具士になろうと専門学校に進学したんです。そこで、パラ陸上の記録会に誘われて、初めて競技用の義足を装着しました。一般の義足とは全然違って流線型でカッコいい。これを付けたら速く走れそうだなと陸上を始めたんです。最初は趣味の域を出なかったんですが、パラリンピックの存在を知って、それをめざそうと思いました。2004年のアテネ大会への出場は逃しましたが、そのことで逆に本気スイッチが入りました。
3年間の専門学校を終えて義肢装具士の国家資格を取得したら義肢装具会社で働くことが決まっていたんですが、本格的に陸上競技に打ち込みたいという気持ちがおさえきれず、大阪体育大学に進学し陸上部に入りました。大学では、練習メニューが豊富で仲間もいるので、記録が伸び始めました。学部での研究テーマは、もっと速く走るには、義足の動きを健足に近づけたほうがいいのか、義足の特性を生かしたほうがいいのか。
大学での日々は充実していて、大学院への進学を考えていたのですが、出身の静岡県に本社のあるスズキに、地元の自動車会社の社長さんが話をしてくれました。「地元の選手が地元の企業で頑張る姿を地元の人たちに見てもらいたい」という言葉を聞いて心を動かされたんです。
14時まで営業所に勤務し、練習に向かう日々。最初は、僕が何をしているかわからなくて「あいつは何だ」と職場でギクシャクすることもありましたが、ちょうど入社した2008年に北京パラリンピック出場を果たし、走り幅跳びで銀メダルをとりました。義足のアスリートとして、日本初のメダルを獲得したことで、職場の人たちも僕を認めて応援してくれるようになりました。
─昨年、プロアスリートの道を選ばれました。
スズキの陸上部では、本当に恵まれた環境で競技に打ち込むことができて、心から感謝しています。でも、あえてプロの道を選んだのには、2つの理由があります。
一つは、リオオリンピックの後、陸上でもプロになる選手が出てきましたが、パラ陸上でもプロアスリートになれることを次世代の選手たちに示したかった。パラスポーツの選手も、いろいろな競技スタイルがあっていい。実業団に所属するほか、会社勤めをしながら個人でクラブに所属している選手もいるんですが、選択肢の一つとしてプロという道もあることを示したかった。そして、僕がプロとして活躍する姿を見せることで、パラリンピックをめざす若者が増えるきっかけになればと思ったんです。
もう一つは、2018平昌冬季パラリンピックで初めて、スノーボードが競技種目に入ったことです。スノボがやりたくて厳しいリハビリも頑張れたという、愛してやまないスポーツ。パラリンピックの種目に入ったのなら、ぜひ挑戦してみたい。でも、スズキでの所属は陸上部だから制約が出てくる。ならば、プロになって平昌をめざそうと...。そういうことがタイミングとして重なって、リスクも責任もあるけど自由に挑戦できるプロの道を選びました。
反響は大きかったですね。平昌にチャレンジしたことで、もっと上をめざしたいという新しい欲求も出てきました。もっと多くの人に山本篤というアスリートを知ってもらいたい、パラスポーツの魅力を伝えたいと、活動の幅も広がっています。
観ても楽しい、やっても楽しい
─パラスポーツの魅力とは?
スポーツが持つ力って大きいと思うんです。一つは、やって楽しい。トレーニングは苦しい時もあるけど、成果が実感できるとうれしいし、達成感が得られて、笑顔になれる。もう一つは、観ても楽しい。例えば、陸上競技の100m走、わずか十数秒のレースだけど、観ていて興奮するでしょう。
スポーツは、人を明るくしてくれる。人を前向きにする力がある。パラリンピックの起源は、傷痍軍人のリハビリのためのスポーツ大会。彼らは、スポーツを通して身体機能が改善し、生きる希望を取り戻し、社会に復帰していった。僕自身もスポーツに救われました。左足を失ったけれども、もう一度スポーツがやりたいと前を向き、スポーツを通じて多くの人と出会い、今、プロアスリートの道を歩んでいます。
義足でも走れるという体験が「原点」
─課題は?
僕は、ある時から、障がいを持つ人こそ半ば強制的にでもスポーツをするべきだと思うようになったんです。例えば、途中で障がいを持った場合、おそらく行動範囲は以前より狭くなる。でも、スポーツをやれば、体力や身体機能が向上し、行動範囲が広がり、人とのつながりもできる。スポーツによって生活のレベルが確実に上がる。ただ、問題は、日本には、それを可能にする環境がとても少ないことです。むしろ障がい者はスポーツから遠ざけられている。学校の体育の時間は見学させられることが多いし、公共のスポーツ施設も受け入れてくれるところは限られています。パラスポーツに必要な競技用の装具は高価だし、障がいの特性に応じて指導できる指導者も少ない。
今は、パラスポーツのレベルが飛躍的に上がって、競技としての面白さが注目されるようになっています。それは歓迎すべきことで、僕もつねにカッコいい跳躍や走りを追求しています。でも、パラスポーツをトップアスリートだけの世界にしてしまってはいけないとも思うんです。指導者の人材育成も含めて障がいを持つ人が誰でもスポーツを楽しめる環境をつくる。一定期間、スポーツを取り入れたリハビリを義務化するようなアプローチを考えてもいい。スポーツによって行動範囲が広がれば働くことも可能になる。社会の支え手、納税者になれる人を増やすことにつながる。つまり未来への社会投資なんです。そのことを全国をまわって多くの人に伝えたい。それも、今回、プロアスリートになった一つの理由なんです。
ランニングクリニックなどで、義足で走るためのノウハウを教えていますが、今まで走ることを諦めていた人たちが義足でも走れることがわかると、その成功体験をどんどん次のチャレンジにつなげていくようになる。まさに僕の原点も、義足で走るという体験でしたが、ここにパラスポーツの意味があるのだと再認識させられます。
─2020東京パラリンピックに向けては?
パラリンピックは、世界のトップアスリートが金メダルをめざして競い合う、最高にエキサイティングな大会です。ぜひ競技場で観戦して一緒に楽しんでほしいと思います。
今年7月には、国内最高峰の大会である「2018ジャパンパラ陸上競技大会」が群馬で開催されます。まずは「この競技のこの選手を見に行こう」という感じで来てもらえれば、その前後の競技も含めて楽しめると思います。
─労働組合に期待することは?
僕もスズキに所属していた時は、労働組合の組合員でした。労働組合がパラスポーツやパラリンピックを応援してくれるのはとてもうれしいです。ぜひ、パラリンピック、パラスポーツのことをたくさん知ってもらいたいですね。パラスポーツはクラス分けがわかりにくいとよく言われます。競技種目もオリンピックと共通のものもあれば、パラリンピック独自のものもある。もちろん、純粋に速いか遅いか、どれだけ跳んだかを楽しんでもらえばいいのですが、どういう種目があって、どういうルールになっているのかを知ると、さらに興味が持てるようになるのではと思います。多くの人に興味を持ってもらえるよう、パラスポーツの情報をたくさん発信していただきたいです。
─ありがとうございました。
●Profile
山本 篤 やまもと・あつし <陸上競技プロアスリート>
1982年静岡県掛川市に生まれる。高校2年生の時に事故で左足大腿部を切断。高校卒業後に進学した専門学校で競技用義足に出会う。2004年、大阪体育大学体育学部に入学、陸上部に所属して本格的に競技を始める。2008年スズキ株式会社に入社。実業団陸上部で活動し、北京パラリンピックに出場。走り幅跳びで銀メダル獲得。パラリンピックには3大会連続出場し、リオ大会では走り幅跳びで銀メダル、4×100mリレーで銅メダルを獲得。2017年9月スズキ浜松アスリートクラブを退部。2020東京パラリンピックに向けて、プロアスリートとして活動を開始し、新日本住設、アシックスなどとスポンサー契約を結ぶ。2018平昌冬季パラリンピックでは、スノーボード競技での出場を果たした。
パラリンピッククイズ
Q パラリンピックにあってオリンピックにない競技は?
A ボッチャとゴールボールの2競技です。
ボッチャは、比較的重い障がいのある人のために考案されたパラリンピック特有の球技。戦略性も高く、一発逆転もあり最後まで目が離せません。
ゴールボールは、視覚障がい者を対象にしたチーム球技。鈴の入ったボールを転がし、相手のゴールに入れて得点を競います。鈴の音や足音などからボールが転がってくるコースを察知するため、できるだけ音を消して投球するなどの駆け引きがあります。
※この記事は、連合が企画・編集する「月刊連合6月号」の記事をWEB用に再編集したものです。