木から落ちたことがある。
小学一年生にとって唯一絶対の正義は足の速さであり、運動神経の良し悪しがクラス内でのヒエラルキーを決していた。絶望的なまでに足の遅かった私は、しかし木登りだけは誰にも負けなかった。誰もが怖がるような細い枝の先へ、大人たちが青ざめるほど高い場所へ、無謀にもスルスルと登っていた。
バカと煙はなんとやら。ある日、見事に足を踏み外し、校舎の三階とほぼ同じ高さから墜落した。骨太に産んでくれた母には感謝せねばなるまい。骨折をせずにすんだけれど、すねを落下中に枝や幹に打ち付けて、ぱっくりと割れてしまった。ピンク色の肉がむき出しになった。ヒリヒリと痛む傷口を見つめながら、なぜ人は空を飛べないのだろうと思った。
運動神経の悪い私は、自転車に乗れるようになったのも遅かった。小学二年生の夏休みで、私たちの学年では最後から二番目だった。
それまでは自転車に乗れるようになった友人たちの後ろを、ペタペタと走って追いかけていた。空を飛べないことに胸を痛めたことはない。けれど、自転車に乗れないのは屈辱だった。同じ教室で机を並べている人のできることが、自分にはできない。言いようのない欠落感につき動かされ、私は自転車をマスターした。
インターネットが普及する前は、私たちと"すごい人"との間には天と地ほどの溝があった。スポーツ選手、芸能人、映画監督、漫画家......。"すごい人"たちがどのような生活をしているのか想像の域を出なかったし、彼らの"すごさ"に嫉妬することもなかった。ひばりが何を食べて暮らしているのか、ほとんどの人は気に留めない。何を食べようと、私たちはひばりのように空を飛ぶことはできないからだ。
けれど、インターネットはその溝を無くした。
世間の"すごい人"たちとの距離は一気に縮まった。
いつの間にか、私たちは彼らの"すごさ"に魅せられるのではなく、彼らの人間臭さ、身近さを喜ぶようになってしまった。"すごい人"に自己を投影することで、すごくない自分を慰めるために。
「偉人たちも庶民」なんて当たり前だろう?
山の高さは、少し離れた場所から眺めたほうがよく分かる。斜面を登っているときは、自分の高度か判らなくなりがちだ。同じように、たぶんインターネットは"すごい人"と私たちの距離を縮めすぎたのだ。
彼らの庶民的な生活がよく分かるようになった反面、彼らの積み重ねてきたモノが見えづらくなった。どんな人でも、それこそ小学校の同じ教室で机を並べているような"対等な相手"だと感じるようになってしまった。
たとえば「アイドルを目指しています!」という少女のブログに、「オーディションに合格しました!」と書き込まれたときの、あの感情。たとえば十代で作家デビューした少年のホームページを見つけたときの、あの感覚。息が苦しくなり、胸の奥が燃えるように熱くなって、次の瞬間には彼らの"ダメな部分"を探してしまう。あの衝動は、間違いなく嫉妬だ。純度100%の水銀のような嫉妬だ。
だって、そうだろ?
同じインターネットという名の教室で、同じように楽しくやってきたのに、あいつらだけ"いい思い"をするなんて許せない。同級生の自転車を追いすがったときの屈辱感が、ふつふつと湧いてくる。ほんとうは積み重ねてきたモノの越えがたい差があって、それが彼らと私の違いになっている。にもかかわらず、その違いは画面越しには見えないのだ。
だから、"すごい人"たちに嫉妬する。
だから、ネットごしの嫉妬は根深い。
ネットには"すごい人"がたくさんいる。ごく平凡だと思っていた人が、ある日とつぜん頭角を現すことも少なくない。自分と対等のように見える相手が、自由に空を飛び回っている。その姿を目したときこそ、"見えない部分"に想いを馳せたい。
アイドルを目指していた少女は、カフェやケーキ屋の記事を書く裏側で、血のにじむようなダイエットをしていたはずだ。十代で作家デビューした少年は、きっと同じころの私の何十倍もたくさんの本を読み、文章を書いていたはずだ。努力は誇るものではない。努力はいつだって見えない場所に隠される。彼らを対等な相手だと考えるのは、言うまでもなく私の勘違いだ。
彼らの積み重ねてきたモノに想像をめぐらせたあと、自分の手のひらをじっと見つめてみる。自分が経験してきたことを、積み重ねてきたモノを考えてみる。そこには、たぶん彼らの無視してきたものがある。すると、嫉妬心はウソのように消えていく。
ネット上の"すごい人"に嫉妬を覚えるのは無駄だ。彼らの努力は表には見えないし、私は彼らのようにはなれない。絶対になれない。でも、それでいいのだ。
私は空を飛べないけれど、今はもう自転車に乗れるのだから。
(2012年10月16日「デマこい!」より転載)