新国立競技場のもう1つの可能性。ケンチクボカン伊東豊雄(5)

妹島和世さんの登場も衝撃的で、特にPLATFORMⅠ・Ⅱで見せた自由で軽やかな波形の屋根や、断片化した建築の部位を三次元空間の中で開放的に気ままに取り合わせていく手法は、建築でありながらジャズやダンスのインプロビゼーションのような即興性を感じさせる新鮮なものでした。

ここまでの流れ

「アルミの家(1971)」---異形、未来デバイス、居住ユニット、反射、ゆらぎ

「中野本町の家(1976)」---都市と個・自然・人工の対峙、永遠時間、抽象空間

「PMTビル(1978)」---街並、ファサード、記号的操作、薄軽金属被覆、膨らみ

「小金井の家(1979)」---工業製品、レディ・メイド、チープインダストリアル

「笠間の家(1981)」---分節、分散配置、ランドスケープ、迷宮、家型

「シルバーハット(1984)」---天幕、小屋掛、工業化、トラス、パティオ、洛中洛外図

と並べてみました。

ここから80年代後半までは、当時の最先端のファッショナブルで都市的な様相の中での活躍が始まります。

レストランバー・ノマドや風の塔は時代の最先端をいく空間やランドマークとして位置づけられていましたね。

この時代のDNAは妹島和世さんに受け継がれました。

妹島和世さんの登場も衝撃的で、特にPLATFORMⅠ・Ⅱで見せた自由で軽やかな波形の屋根や、断片化した建築の部位を三次元空間の中で開放的に気ままに取り合わせていく手法は、建築でありながらジャズやダンスのインプロビゼーションのような即興性を感じさせる新鮮なものでした。

妹島さんも日本建築学会賞、プリツッカー賞をお取りになっており、建築家の師匠と弟子、いってみれば親子で世界的な建築家となっておられます。

さらには、伊東先生の元スタッフの方の元スタッフ、いわば孫世代に当たる建築家も輩出されており、伊東先生に育てられた建築家も人を育てる力があるという素晴らしい流れをつくられています。

たとえば、石田敏明さんのところからは石黒由紀さん、妹島さんのところからは、西澤立衛さん、石上純也さんなど輩出されていますね。

これはまさに「俺屍」の思想だと思うんですよね。

そして!「俺の屍を越えてゆけ」が15年振りに新作が出るそうなんです。

制作の桝田さんのインタビューやニューキャラクターなども紹介されている

「俺屍2」のポータルサイトがありました。

なんと、先週から体験版の配布も始まっているようです。

この「俺の屍を越えてゆけ」になぞらえるように

妹島さん家の系譜だけ見ても

伊東豊雄

   →妹島和世

      →西澤立衛・長尾亜子・細谷仁・大成優子・福屋粧子・菊地宏・石上純也・近藤哲雄

         →次世代待機中

という流れですからね。

実は伊東先生も菊竹清訓先生のところご出身ということですので、

菊竹先生が、元祖「俺の屍を越えてゆけ」だったのかもしれません。

菊竹先生も多くの建築家を輩出した方なんです。

これについてはまたやりましょう。

1990年代に入ると、伊東先生は公共建築にも進出され、大型の案件でもその姿勢は変わらず、それ以前の手法は繰り返すことなく封印されている。

それでも決定的なデザインメソッドを毎回のごとく提出され続けています。

これらをも詳細に論じてもいきたいのですが、たぶん連載を50回以上続けなければならなくなりそうですので、今回はいったんここで止めときます。

と思いましたが、もっと書けとお叱りを受けましたので、この時代でやはりその後の日本の建築デザインに影響を及ぼしたと思われる90年代初期でもっとも重要な作品、「中目黒Tビル(1990)」について加筆しておきます。

この建築はですね。昼と夜でその表情をまったく変えるんです。

写真上左が昼間の姿ですが、ぱっと見道路側をガラス張にした極普通のオフィスビルに見えますが、この建築が発表された20数年前にはこのようなガラス面の使い方は非常に斬新だったのです。

それは道路側、ガラス張側のスペースに執務室がないことです。

普通に計画したオフィスビルでは、おそらくクライアントは道路側に執務室をもってきてなおかつ窓をつけるように要望し、設計者もそれにあっさり従います。

そうすると何が起きるかというと、ガラス面はビルの階ごとに床で切られます。

一見、全面ガラスに見えても床厚の部分は仕上げだけのダミーガラスになっているケースがほとんどでしょう?夜になれば分かります。そこだけ黒いから。

この「中目黒Tビル」では、確かに道路側にガラス面はありますが、、そこに執務スペースはありません。吹き抜けです。

そのため、建物の最下部から最頂部までガラスを透明にすることができているんですね。

同時に外観からはこの建物の階数がわかりません。さらに、ガラスとガラスの間に流れる横枠のラインを詰めてあり、ガラスの一部をタペストリー(すりガラス)状の横ストライプにしてあります。

結果として、実際は比較的小規模のオフィスビルですが、この階数を分からなくさせる効果は絶大で、物理的観測値より人の視線からは大きく見えます。

「~に見える」という表現から明白なのですが、このガラス面はこの建築物の現実を伝えるのではなく、イリュージョンを映し出すメディアなんです。

これは、どういうことかというと、建築物の表面、ファサードといいますが、これ放っておくと、意外なことに建築物の実態をダダ漏れにしがちなのです。

床の数で何階建てであるとか、窓の付き方でここがトイレだとか、オフィスの部屋の仕切りとかいった、建築物の機能的現実は、ファサードに情報として反映されてしまうんですよ。

この「中目黒Tビル」において伊東先生は、そういったファサードに無意識に出てくる建築的情報を遮断するだけでなく、さらにはそのファサードの内部を映し出す機能を積極的に活用しているのです。

オフィスビルにおいて不必要に大きな吹き抜けでは、気積を無駄喰いして空調の負荷を増大させてしまいますから、なるべく避けるところなのですが、この「目黒Tビル」では、うまく階段と廊下とつながるスペースとして活用し、上下動の動きや執務上の移動も、何かひとつの大きな領域の中を空中移動する楽しさに変えてあります。同時に、それらの動きと導線のための部位、廊下や階段ですね、そこにカラーリングを施し、独立したオブジェクトとして、この薄長の吹き抜け空間に彩りを添えてあります。

つまり、この外壁のガラス面の処理は、単に明かりを採るとか外を眺めるとかいった透明素材としての単機能から進化し、クライアントのビジネスの動きをうまくフィルタリングしたうえで外部にプレゼンテーションするという、ガラスカーテンウォールという素材に、オフィスビルを表現する新たなメディアとしての機能を付加し再定義してあるわけですね。

結果として、その後の小規模オフィスビルのデザイン手法を刷新しました。

同時に大規模オフィスやタワーにおいても、人の視線をキャッチする低層部ではかなりの頻度でこの「中目黒Tビル」は参照され、今では普通のことに思えるほどです。でも、このデザインメソッドは伊東DNAなのです。

1990年以降の伊東先生のデザインはカンブリア爆発のごとく多様になっていきますよね。また時々解説してみたいと思います。

2000年代には海外でのご活躍も増えて、年を経るごとにどんどん新しくなっていく感じです。

に訪問されれば、それらの全作品が時系列にご覧になれると思います。

ここまで見て来ましたように、伊東豊雄先生は絶対に立ち止まらない。

それまでの自分の評価された手法にも頓着なく、ぶっ壊していきます。

今ある評価にとどまることなどありません、

まだ見ぬ可能性にいつだって跳びだしていく。

そのような先生ですから、

今回の新国立競技場のコンペを巡る諸問題についても、

自己保身を求めるはずもなく、

何か大きな問題意識をもって臨まれているに違いないんです。

生きる、死ぬ、託す。

伊東先生は次はどんな「俺の屍を越えてゆけ。」を見せてくれるのか、

「俺屍2」の始まりです。

とりあえず「建築家母艦伊東豊雄論」の序章としまして、

いったんこの連載おわりです。

(2014年5月6日「建築エコノミスト 森山のブログ」より転載)

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