京都の国立京都国際会館で開催された第49回日本移植学会総会で「我が国の移植医療に思うこと」という表題で、「特別講演 4」を行う。
他の特別講演は、大阪大学WPI免疫学フロンティア研究センター自然免疫学の審良静男氏「自然免疫による炎症反応」、大阪大学医療経済産業政策学の田倉智之氏「移植の社会経済的価値を論じる」、作家の久坂部羊氏「医学の進歩と人の心」。
移植関係の学会で講演を依頼されることはよくあるが、やはり恩返しと思って極力、お受けすることにしている。
ふつうは、一般の方々を対象とする移植についての公開講座が多いのだが、今回はほとんどが移植の専門家で、ちょっと勝手が違う。
まず申し上げたのは、最近、患者本人が、自らの移植、とくに生体移植について話を聞きたいといってきたり、相談したいと言ってくることが増えたこと。
C型肝炎で肝硬変になった患者が多いのだが、本人が「移植をやりたいのだが、話を聞かせてほしい」あるいは「相談に乗ってくれ」と言ってくる。
まったくふざけた話である。
生体移植は、あくまでもドナーになる側が、自らが臓器を提供して家族の命を助けたいと思って言い出すものである。患者本人が、生体移植をやりたい(つまり、健康な家族の誰かが腹を切って、臓器を切り取ってくれ)などと言い出すのは言語道断だ。
以前からも、勘違いした患者が、息子が生体肝移植のドナーになってくれるので、息子に色紙を書いてくれなどと言ってきたことがあった。
ドナーになるかどうかは、本人が決めることで、それも最後の瞬間にでも決意を翻すことができる。そのドナーに、どんな色紙を書けというのか。「そんなことやめろ」とでも書けばいいのか。
だいたい、患者が外に向かって、息子がドナーになってくれるなどと言って歩くことが、家族に対してプレッシャーをかけることになる。
ドナーに本当にその意思があるかどうかを確かめることは、どの医療機関もしっかりやっている。場合によっては、精神科医が来て、確かめる。
しかし、やりたくないという家族の意思をどう患者に伝えるかということに関して、医療機関は、もっと気を使うべきだ。
患者やほかの家族が強く生体移植をやりたいと思っていると、ドナー候補は家族の中で難しい立場になる。
かつては、やりたくないという家族の意思を確認すると、医師が患者に対して「肝臓が適合しない」と言って、ドナー候補はやりたがっているのだが、医学的な理由でできないと説明をしたりしたことがある。
しかし、患者が他の病院にセカンドオピニオンを聞きに行ったりするとそうではないことがわかってしまったり、嘘をつくことが倫理的に許されるのかといった問題提起があったりして、なかなか、そうしにくくなったようだ。
もう一つの論点は、やはり、脳死を人の死だとはっきりと医学界、医療関係者が意思統一をすること。
これだけ社会保障費が急増する中で、無駄を削るならば、脳死後の医療行為には保険適用をしないというところから始めるべきだ。
脳死になれば、2度と回復することはない。その状況で、医療行為を続けるならば、そこは公的な医療保険が負担するべきではない。
医学界からそこをきちんと問題提起すべきだ、と申し上げる。
隣の韓国では、毎年、脳死からの肝臓移植が400件、生体肝移植が1000件にのぼるそうだ。
日本では、脳死からの移植が年間約60件、生体肝移植が400件程度。人口を考えれば、5倍以上の差があることになる。
生体移植がそれだけ多いのが良いとは言えないが、脳死移植の数がそれだけ違うのはなぜなのだろうか。
医の分野がやらねばならないことは、まだまだたくさんある。
(2013年9月8日の「河野太郎公式ブログ ごまめの歯ぎしり」から転載しました)