「ネットがつまらない」=「自分がつまらない」は言い過ぎとしても、「ネットがつまらない」=「自分のネットユースがつまらない」「自分の眺めているネットがつまらない」なので、ネットそのものが問題というより、その人自身の所業によるところ大な問題だと思う。
ネットがつまらないなら、どうして観測範囲を変えないのか
テレビ番組がつまらなければ、チャンネルを回せばいい。それと同じように、ネットがつまらなければ観測範囲を変えればいい。マスメディアと違ってインターネットには無限に近い選択肢があり、多種多様なネットサービス上に、これまた多種多様な表現、プレイヤーがひしめき合っている。だから、「ネット、つまらないな」と思ったら、自分から面白いものを探しに行けば、たいていどこかに面白い表現、面白いプレイヤーが隠れている。
例えば、twitterを眺めていて物足りなければ、followしている人間を1割ほど入れ替えてみればいい。twitterのタイムラインがつまらないということは、自分自身のタイムラインの作り方に問題があるか、自分自身の嗜好の変化にあわせてタイムラインを修正するのを怠ってきたせいか、とにかく、twitterの観測範囲とはどこまでも自己選択が利く=自己責任なのだから、それがつまらないのは自分のせいでしかない。もし、twitterがつまらなくなってきたら、twitterが悪いのではなく、自分のタイムラインが腐ってきたと考え、耕しにかかるのが穏当だろう。いつものタイムラインに新風を入れてくれるような、つまらなくない人物を10人ほど探し出してくるだけでも、つまらなさは大幅に軽減する。twitterのユーザー数は莫大なので、思わぬところに思わぬ面白いやつが潜んでいることがある。諦めるには勿体ないし、なにもしないで「twitterツマンネ」と言い放つのは怠惰の責任転嫁でしかない。
twitterが嫌なら、ニコニコ動画に行ったって、pixivに行ったって、はてなでブログを開設したって構わない。アーキテクチャが違えば出し物も違い、そこに棲まうネットユーザーの質感も違う。批判や賞賛がゴチャマゼになった環境を面白いと感じる人は、そういう場所に馴染めばいいし、その場の同調性の高さ、クローズでカルトな"熱量"に惹かれる人は、そのようなニッチな蛸壺のなかで茹で蛸パーティーでもやればいい。
インターネットはどこまでも自己選択なメディアであり、自己責任なメディアでもある。「面白いものが観たければ自分で面白いものを探せ。面白くないインターネットなら、面白い場所やアカウントがみつかるまでネットサーフィンしてみろ」――遠い昔のネットユーザー、それこそネットスケープナビゲーターが幅を利かせていた時代を知っている人にとって、それがネットの常識だったと思う。リンク先の文章を書いた人も、過去のインターネットを知っているならその事を知らぬわけでもあるまい。
そしてインターネットの自由度が高いからこそ、その人のインターネットの楽しさや豊かさは、その人自身を反映したものになる。自分が何を観るのか?どのように観るのか?そして誰と言葉を交わすのか?すべてが自分の意志に委ねられ、一人でディスプレイと向き合っている時に何者にも干渉されないからこそ、インターネットはその人自身を映す鏡となる。だから、インターネットがつまらないと言って憚らない人は、鏡にうつった自画像に向かってつまらないと言って憚らないのも同義だと思う。
マスメディアから発信される情報をパッシブに消費するだけの立場なら、自分のことを棚に上げて「テレビ局つまんね」「○○新聞つまんね」と毒づく余地はあったと思う。テレビにしても新聞にしても、自己選択の余地はあまり無いのだから。けれども、インターネットの視界や観測範囲が限りなく自己選択の所産である以上、マスメディア批判と同じアングルで毒づいてしまうと、インターネット批判というより、自分自身批判というか、その人自身のつまらなさや受動的なネットユースを告白するような状態になってしまって、あまり見てくれの良いものにはならない。
(※この記事は、2013年7月24日の「シロクマの屑籠」から転載しました)