「アンディ・ウォーホル展:永遠の15分」常識を覆し続けたアーティストの素顔とは

「将来、誰でも15分は世界的な有名人になれるだろう」20世紀後半、アメリカのポップ・アートの旗手として活躍したアンディ・ウォーホル(1928-1987)の言葉である。その言葉通り、ウォーホルは拡大するアメリカの消費社会と大衆文化を背景に、さまざまな表現手法を駆使した作品で美術界に大きな衝撃を与えた。

《自画像》1978年(左)、《自画像》1986年(右)

「アンディ・ウォーホル展:永遠の15分」展示風景、森美術館

「将来、誰でも15分は世界的な有名人になれるだろう」

20世紀後半、アメリカのポップ・アートの旗手として活躍したアンディ・ウォーホル(1928-1987)の言葉である。

その言葉通り、ウォーホルは拡大するアメリカの消費社会と大衆文化を背景に、さまざまな表現手法を駆使した作品で美術界に大きな衝撃を与えた。

絵画などの平面作品にとどまらないアーティストの全貌を紹介する国内最大規模の回顧展「アンディ・ウォーホル展:永遠の15分」が東京・六本木の森美術館で開かれている(2014年5月6日まで)。

ウォーホルは、絵画の世界にアーティストとして転身する以前、商業イラストレーターとして広告用のイラストを手がけていた。1960年代には映画の制作にのめり込んだこともあった。また、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドというロックバンドをプロデュースしたり、雑誌『インタビュー』を発行したり。晩年の1980年代にはテレビ番組をプロデュースするなど、一言で言い表すことができない多様な側面を持ったアーティストだった。

「アンディ・ウォーホル展:永遠の15分」

ウォーホルのアトリエ「シルバー・ファクトリー」を再現した展示風景、森美術館

展覧会では、シルクスクリーンを用いて大量に複製できる絵画として発表された「マリリン」や「キャンベル・スープ缶」などの代表作はもちろん、映画作品も含めたウォーホルの初期から晩年までの作品約400点と、私的な資料約300点が出展されている。

ウォーホルの生まれ故郷であるアメリカのピッツバーグにあるアンディ・ウォーホル美術館の協力で実現した回顧展で、シンガポールを皮切りに香港、上海、北京で開催されたアジア巡回展の最後を飾るものだ。

森美術館はこれまでの巡回展の内容を再構成しつつ、1963年から1968年までウォーホルがアトリエとしていた、内装が全て銀色の「シルバー・ファクトリー」をほぼ原寸大で再現。さらに、《二つのマリリン》など、日本初公開の作品も見ることができる独自の展示となっている。

膨大な作品を残したウォーホルとは一体どんな人物だったのか。森美術館のキュレーターである近藤健一さんに展覧会のみどころを聞いた。

《マリリン・モンロー(マリリン)》1967年

「アンディ・ウォーホル展:永遠の15分」展示風景、森美術館

■時代の反逆児、アンディ・ウォーホル

「多面的な顔を持っていたアーティストであるウォーホルを紹介するという趣旨でこの展覧会は構成されています」

既成概念やルールをひたすら破り続けたウォーホル。それは、彼の代表作である「マリリン」のシリーズにも表れているという。

「マリリンの絵画作品は、シルクスクリーンという本来は版画に使う技法を使って、紙にではなく、キャンバスに刷られています。絵画を制作するのにシルクスクリーンを使うというのは美術の世界ではルール違反だったんです」

「1960年代当時、絵画というのはまだ、非常に高尚なものでした。そのルールを破り、キャンベルスープ缶であるとか、マリリン・モンローの肖像であるとか、大衆文化から出てきた、低俗とも思える主題を絵画の主題にした。それが革新的だったわけです」

破ったのは美術のルールだけではない。ウォーホルは映画というジャンルの掟も守らなかった。

「映画作品にしても、エンパイア・ステート・ビルを夕方から深夜までずっと定点観測して、それを約8時間で再生するという《エンパイア》という映画を作っている。映画というのは大体ストーリーがあって、最初から最後まで見るものじゃないですか。それを8時間も、エンパイア・ステート・ビルをずっと見続ける人はほとんどいないと思います。特にストーリーがあるわけでもないので、映画というジャンルの約束をそういうふうに破っていた」

ウォーホルは1965年に「画業廃業宣言」を行うほど、映像制作にのめり込んだ。展覧会では《エンパイア》(1964年)の他に、作家のロバート・インディアナがマッシュルームをひとつ食べる様子を約40分かけて映しだす《イート》(1964年)などの映像作品も見ることができる。

《二つのマリリン》1962年

「アンディ・ウォーホル展:永遠の15分」展示風景、森美術館

■塗りつぶされたマリリン

日本初公開となる《二つのマリリン》(1962年)という作品は、一つのキャンバスの上にマリリンの顔が二つシルクスクリーンでプリントされているが、左側のマリリンの顔がピンクの絵の具で塗りつぶされている。あまり見られないパターンのマリリンだ。国際的に見てもほとんど公開されたことがない非常に貴重な作品だという。なぜ、このようなマリリンが描かれたのだろうか。

「なぜ顔を塗りつぶしたのかということは、実はわかっていないんです。ウォーホルの作品がどういうふうに塗られているとか、どういうふうに描かれているということに意味を読み解くとことは、実はあまり意味がないことなんですね。バリエーションを作るためにいろんな塗り方、いろんな色を使うということをやっている場合がほとんどですので」

「一つのモチーフで様々なバリエーションを作るということは、ウォーホルがデザイナー時代に身につけた癖だと思います。イラストレーターには、クライアントがいて、同じ主題でいくつかのバリエーションを作って最終的に一つを選択してもらうわけです。ウォーホルは50年代イラストレーターとして活動していた時期にそういうことを散々やってきていたので、その延長線上でいろいろな実験を繰り返していくうちに、あのマリリンが生まれたと言っていいと思います」

《自殺(シルバーの飛び降りる男)》1963年(左)、《病院》1963年(右)

「アンディ・ウォーホル展:永遠の15分」展示風景、森美術館

■ウォーホルは我々に何かを伝えているのだろうか

ウォーホルの作品には、両手を上げて身投げをする男性を描いた《自殺(シルバーの飛び降りる男)》(1963年)や、ジョン・F・ケネディ大統領暗殺を契機に制作された《ジャッキー》(1964年)、ニューヨーク州のシンシン刑務所の処刑椅子を描いた《小さな電気椅子》(1964年-1965年)など、通信社が配信する衝撃的な報道写真をもとに制作された《死と惨事》という有名なシリーズがある。

ウォーホルの作品の中でも美術的評価が高いシリーズだ。ショッキングなシーンも、日々テレビや雑誌を通じて目にすることでアメリカの人々にとっては日常の一部となってしまっていた。ウォーホルは、日常に潜む闇を作品に取り入れていったのである。

それらの作品に、我々は何かしらのメッセージ性を感じずにはいられない。

「死と惨事のシリーズというのは、特に美術の専門家から評価が高い作品なんですけど、真面目な作品だと受け取られたが故にすぐに彼は『メッセージ性は何もない』という話をしていますね。『陰鬱、陰惨な光景でも何度も見ていると何も感じなくなってくるんだよね』とも言っています」

「絵画には意味があって、その意味を読み取るという美術の約束事があって、私たちはそれに沿って見ようとするんですけど、それを煙に巻くということをずっと彼はやり続けています」

《電気椅子》1971年(左)、《小さな電気椅子》1964年-1965年(右)

「アンディ・ウォーホル展:永遠の15分」展示風景、森美術館

■ウォーホルに影響を与えた「メディアの力」

「将来、誰でも15分は世界的な有名人になれるだろう」という言葉をウォーホルは残している。今回の展覧会の副題「永遠の15分」の由来にもなった。まるでインターネット社会の現代を予測していたかのような言葉だが、ウォーホルは、インターネットが登場する以前から、すでに「情報の加速性」を感じていたのかもしれないという。

「彼自身も映画からテレビ、テレビからケーブルテレビというようにメディアの歴史を見てきているわけですね。それで、より大きい情報がより早く伝わるということを実感して来たはずですので、情報の加速性を理解していたと思います」

「その証拠に『将来、誰でも15分は世界的な有名人になれるだろう』ということを60年代に言っていて、80年代にはそれを言い直しているんですね。『誰でも15分以内に有名人になれる』と」

ウォーホルはメディアというものが時代の「イコン」を作り出すことに、大きな関心を抱いていた。1963年には当時としては珍しいビデオカメラを購入していたり、テレビを同時に4台見ていたというエピソードも伝えられる。ウォーホル作品の根底にはメディアの力が多大な影響を与えたのかもしれない。

ウォーホルの作品の裏には本当は何があったのかは、永遠の謎だ。ただ、私たちには膨大な作品群が残されている。

「アンディ・ウォーホルについてすべてを知りたいなら、ぼくの絵と映画、そしてぼくの表面を見るだけでいい。そこにぼくがいる。裏には何もない」

――アンディ・ウォーホル

《カモフラージュ》1986年(左、右)、《自画像》1986年(中央)

「アンディ・ウォーホル展:永遠の15分」展示風景、森美術館

発見されたデジタル作品

アンディ・ウォーホル 画像集

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