20年間、義足を無償で届けつづける日本人女性に会いたくて、ルワンダに行ってみた。

20年間、義足を無償で届けつづける日本人女性に会いたくて、ルワンダに行ってみた。
乙武洋匡

東アフリカの小国・ルワンダ。日本人にとっては1994年に起こった大虐殺でよく知られる国だが、いまや政情も安定し、目覚ましい経済成長を遂げる新興国。「虐殺」というあまりに強烈なワードからは想像できないほど穏やかな国民性で、いまではアフリカで最も治安のいい国と言われるまでになった。

首都・キガリの空港を出ると、ひんやりとした風が頬をなでる。赤道がすぐそばを通る国だが、キガリは標高1500mほどの高さにあるため、年間を通して冷涼な気候なのだという。タクシーに乗って中心部へと向かう。海外有名ホテルに大型コンベンションセンター。もしかしたら間違えてヨーロッパの都市に来てしまったかのではないかと錯覚するような街並みが広がる。

首都・キガリは急速に発展中。
首都・キガリは急速に発展中。
乙武洋匡

ホテルに到着して荷物を置くと、私は再びタクシーに乗った。目的地は、キガリ中心部にある国内の大手車ディーラーであるビクトリア・モーターズ社。この日は、同社による車両の贈呈式が行われる予定だった。タクシーの中から、車を贈呈される"本日の主役"に電話をかけた。

——真美さん、無事にルワンダに到着しました。いま会場に向かっています。

「乙武さん、長旅お疲れ様でした。ところが、私たちが遅れてしまうかもしれなくて。というのも、昨日の大雨で家の前に架かる橋が壊れてしまって、車が敷地内から出られないんです......」

悲痛な叫びに、アフリカを感じる。

20分ほどして会場に着くと、真美さんも無事に到着していた。

——間に合ったんですね。

「崩落したのが橋の半分で、残った半分の上を強引に車で渡ってきたんです。私は危ないからやめろと言ったんですけど、この人が『おまえは俺のやることを妨げるのか』と言って聞かないんですよ」

贈呈式では、ルワンダの伝統的ダンスが披露された。
贈呈式では、ルワンダの伝統的ダンスが披露された。
乙武洋匡

そう口を尖らせながら、身長185cmはあろうかという長身の夫・ガテラさんに視線を送る。幼少期から右足が不自由で、日常生活では鉄パイプを加工した杖と装具を使用して歩行するガテラさんは、ブレーキを手で操作できるよう改造した車を運転してどこへでも出かけていくアクティブな63歳だ。

ルダシングワ・ガテラさん、真美さん夫妻は、1997年からルワンダの地で義足の製作を始め、障害者に無償での提供を続けている。数多くのルワンダ人に何物にも代えがたい"足"を届けてきた「Mulindi Japan One Love Project」(ムリンディ・ジャパン ワンラブ・プロジェクト)も、昨年で20周年。その長年の功績を称える形で、ビクトリア・モーターズ社が同プロジェクトに対して真新しい車両を寄付することを決めたのだ。

宮下孝之在ルワンダ大使も見守るなか、贈呈式は華々しく開催された。ルワンダに古くから伝わる太鼓の演奏やダンスといったパフォーマンスが披露され、コーヒーやジュース、軽食が振る舞われた。テレビ局のカメラクルーも来ていた。ルワンダ国内ではちょっとした有名人になりつつあるガテラさんは、ゆっくりと、しかし雄弁にこの取り組みに対する思いを語った。

メディアのインタビューに答えるガテラさん。
メディアのインタビューに答えるガテラさん。
乙武洋匡

贈呈式が終わると、私はビクトリア・モーターズの社長であるベン・キーザ氏にご挨拶をした。

——なぜ、この「One Love Project」に車両を寄付しようと思ったのですか?

「なぜかって。簡単なことですよ。彼らは長年にわたって障害のある人々に義足をつくり、与え続けてきた。それも無償で。彼らは本当に多くの人に無償で与えてきたんです。だから、今度は彼らがもらう番です。無償で与え続けてきた彼らに、今度は私たちが無償で与える。ただ、それだけのことです」

贈呈式を終えたご夫妻は、関係者への挨拶もそこそこに足早に車へと向かった。崩落した橋の復旧作業を急がないと、商売に影響が出るのだという。義足の製作・提供については無償で行なっている彼らだが、その活動資金を捻出するため、義足を製作する工房と同じ敷地内でゲストハウスとレストランも運営しているのだ。

「乙武さんもお腹が空いたでしょう。よかったら、うちのレストランでランチをしていきませんか?」

ありがたいお誘いに、私はガテラさんが運転する車の後部座席に乗り込んだ。ビクトリア・モーターズ社から数分で「One Love Project」の本拠地に到着。気持ちのいい中庭のあるレストランでヤギ肉の串肉や野菜の煮込み、焼きバナナをいただいた。これが、驚くほどの美味。

真美さん夫妻が運営するレストランでのランチ。
真美さん夫妻が運営するレストランでのランチ。
乙武洋匡

「当初はみなさんからの寄付だけでまかなっていたのですが、しばらくするうちに私たちの心がすり減ってきてしまったんですね。つねに『お金をください』と頭を下げ続けるのは思っていた以上にしんどいことだったし、何か新しいチャレンジをしようと思ったときに、『このお金を違う目的に使うわけにはいかないな』という躊躇も大きかった」

しかし、義足の製作・提供という"本業"以外に、ゲストハウスやレストランの運営も手がける生活は想像以上に負担が大きかったそうで、2年前からは両者の経営を外部委託。賃料という形での収入を得ているという。現在では活動資金の半分が寄付、半分がゲストハウスとレストランの利益によるもの。ようやく、心の安定が図られつつある。

ランチを終えると、レストランから目と鼻の先にある義足の工房を案内してくださった。玄関を入ってすぐ右側にある受付。義足を求めてやってきた人は、まずここで自身のプロフィールや障害の状況、なぜ義足が欲しいのかなど記入し、カルテを作成してもらう。受付を担当するテレーザという女性の背後に置かれた本棚には、おびただしい数のカルテが積まれていた。

前日の豪雨で崩壊した橋を修復中。
前日の豪雨で崩壊した橋を修復中。
乙武洋匡

奥へと進む。義肢装具士のエメリーが黙々と作業していた。彼は2012年からここで働き始め、翌2013年には神奈川県による海外研修員受け入れ制度で日本に渡り、日本の義足製作の技術を学んできた。以前は複数の義肢装具士を雇っていたが、資金と人件費のバランスを考え、雇用を制限。いまはエメリーが唯一の技術者として奮闘している。

「(1994年の)ジェノサイド(大虐殺)の直後だった当時は義足を求める人が本当に多く、私たちもその期待に応えようと必死でした。でも、それから20年が経って、いまはその人数もだいぶ落ち着いてきました。そうは言っても、ちょっとラジオで宣伝したりすると、一気に100人くらいが押し寄せて混乱したりするんですけどね(笑)」

いくら大人数に押しかけられても、技術者はエメリーのみ。提供できるのは、1ヵ月に7〜8本が限界だという。

「私もエメリーも日本で研修を受け、日本の技術を学んできました。でも、だからと言って日本と同様の義足が作れるかというと、そういうわけにもいかないんです」

ルワンダでの義足製作には、様々な困難が。
ルワンダでの義足製作には、様々な困難が。
乙武洋匡

まずは、材料の問題。たとえば、義足の内側にはシリコンでできた靴下のようなものが必要になるが、高品質のシリコンはルワンダではそう簡単に手に入るものではない。また入手できたとしてもかなりの高額となる。なるべく多くの人に義足を提供していこうと思えば、シリコンの代わりにもっと安価で入手しやすい材料で代替していくしかない。

材料だけではない。義足のメインとなる部分を作るには、その人の足の太さや長さに合わせて材料を加工する必要がある。その際、加工するために熱を加える専用のオーブンが必要になってくるが、もちろんルワンダにそのような機器はない。

「これがうちで使ってるオーブンなんですけど、これ、元々はチキンを焼く機械なんです」

——え、よく食堂の店頭でチキンの丸焼きを売ってますけど、あそこで使われてたりする?

「そうなんです(笑)」

製作の過程では義足内の空気を抜くために吸引する工程がある。日本では真空ポンプを用いるが、これもルワンダ国内で調達することは容易ではない。その代わりに用いられているのは掃除機だ。もちろん真空ポンプに比べれば吸引力で劣るが、義足を完成させる上では掃除機でも支障がないのだという。

「私自身も研修を受けていますから、材料や機材が揃う日本でなら義足を作ることができると思います。でも、ルワンダではダメですね。すぐに、あれがない、これがないと思考が止まってしまうんです。だけど、エメリーや過去に働いてくれていた義肢装具士たちはすごいですね。こういうもので代替できるんじゃないかと彼らがあれこれ知恵を絞ってくれたんです」

義肢装具士のエメリー。作業台には掃除機が。
義肢装具士のエメリー。作業台には掃除機が。
乙武洋匡

真美さんたちの活動は、ただ義足を製作し、それを人々に提供するだけに留まらない。利用者に対してルワンダ政府から義足製作の補助金が交付されるように、申請・交渉をしていくことも活動の柱となっている。

「私たちが行っている義足の提供というのは、本来、政府が行うべきものだと思うんです。ただ、あれだけのこと(大虐殺)が起こった直後では、足を失った人々だけでなく、ほかにも苦しみを抱える人が多くいるわけです。だから、政府にもあちらも助けて、こちらも助けてというほどお金に余裕がないのはわかります。ただ、それでも『本来は政府が負担すべき予算なんだ』という主張は続けていくべきだと思うんですよね」

しかし、利用者の申請が通り、政府から補助金が交付されるケースはそう多くない。その場合は、「One Love Project」が全額を負担し、利用者に対して無償で提供してきた。この20年間、真美さんはつねに資金繰りに頭を悩ませてきたという。

「そんな思いでやってきてもね、ときには利用者さんに裏切られるような思いをすることもあるんですよ。たとえば、うちでは義足のほかに建築資材を加工して作った杖を提供したりもしているんですけど、あげたそばから、その杖が売られていたりしてね。こっちはいろんな人に頭を下げて、寄付をいただいて、そのお金で作って無償で提供しているのに、もう何なのよって」

せっかく義足を提供しても、それを使用することなく、ただ横に立てかけて物乞いに精を出す者も少なくないという。傍らに義足が立てかけてあるだけで、より"かわいそうな自分"というものを演出できるのだという。

活動への思いを語る真美さん。
活動への思いを語る真美さん。
乙武洋匡

「そういうのを見ると、もちろん悲しいし、怒りも湧くし......。でも、長い年月をかけて、ようやくそうした感情も消化できるようになってきたんです。そうだよね、彼らだって義足をもらって歩けるようになったところで、すぐさま食べていけるようになるわけじゃない。いちばん大事なことは、今日食べるご飯をどうやって確保するかということなんだって」

活動資金はつねに乏しく、真美さんの頭の中はいつも資金繰りのことでいっぱいだという。しかも彼らの活動がつねに報われるのかといえば、上述したような"裏切り"に遭うこともめずらしくはない。それでも活動を始めてから20年の歳月が流れた。なぜ、途中で投げ出したりしなかったのだろう。

「見栄、ですかね。『こんなことやっていきたい』なんて周囲にかっこいいこと言って、お金までいただいて、それなのに『やっぱりやめます』なんて言えないですよ。もう少しいい格好していたい、もう少しいい格好していたいと思って走り続けていたら、いつの間にか20年という感じですかね」

——今回、あんな立派な車を贈呈されてしまったら、まだ当分は見栄を張り続けなければいけませんね。

「そうなんですよ。正直、しんどいな、もうそろそろ潮時かなと思っていた部分もあったんですけど、あんなものをいただいてしまったら、まだ当分はやめられませんよね。ガテラとも『この車のおかげで地方の巡回相談ができるようになるね』なんて、結局は前向きな話をしているんです」

「One Love Project」に寄贈された三菱パジェロスポーツ。
「One Love Project」に寄贈された三菱パジェロスポーツ。
乙武洋匡

これまでは成長期に当たるため何度も作り直さなければいけなくなるという理由で見送ってきた子ども用の義足づくりだったが、ガテラさんの「未来をつくる子どもたちを見捨てるわけにはいかない」という強い思いで、最近になって小児用の義足製作もスタートさせた。大人用と違って1〜2年ほどで作り直しが必要になる可能性もあり、資金面ではさらに逼迫する可能性がある。

「これまでずっと、あの人(ガテラ)がアクセル、私がブレーキという役割でやってきた。あの人が夢を語り、私が『現実を見なさい』と言い続ける。それでも、彼は頑として譲らないんです。だから、結局は私が彼の思いを何とかして形にしていくしかないんですよね」

そう言って真美さんは口をへの字に曲げるが、しかしその視線はあくまで前を向いていた。5年後、10年後と、きっと真美さんはこの先も"見栄"を張り続けていくのだろう。

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