ミャンマーの街づくりが私の使命!日系大手不動産からヤンゴンの現地企業に転職するまで

東京の街づくりの仕事とは別に、もうひとつのドラマが私の中で同時進行していました。それがミャンマー。初めてミャンマーを訪れたのは大学4年生でした。

はじめまして、ミャンマーの不動産開発会社で働く大澤四季です。

大学卒業からミャンマーに来るまでの7年半、日本の大手デベロッパーで東京の街づくりにまい進してきました。

それが、今ではミャンマーの街づくりで頭がいっぱいな日々を過ごしています。

私がなぜ東京を離れてミャンマーで働くことにしたのか、経緯をご紹介します。

東京の街が、人が、大好きな日本時代

街はどのようにして形成されていくのか。

街はどのように人を惹きつけ、魅力的なものになっていくのか。

私の前職は、東京でそれを徹底的に考えて形にする仕事でした。

新卒入社してはじめに配属された住宅事業部では、運営する賃貸マンションの管理運営が主な仕事でした。が、それだけにとどまらず、地域のごみ拾いや町会のお神輿、盆踊り、それに東日本大震災が起きた時には居住者の方々への対応等、街のための活動なら何でもしました。

街を想う心に都会も田舎も企業も個人も、関係ない」。そう思うようになったのはこの頃からです。

▶管理運営するビルの町会行事での一枚

念願の再開発に従事する

次に配属されたのは、ずっと夢に見ていた再開発の部署。

当時急ピッチで進んでいた虎ノ門の複合再開発、そして周辺エリアの街づくりを数人のメンバーと担当することになりました。

▶当時担当していた再開発エリア

東京での再開発の仕事は規模が大きく、それに比例して法制度や規制も煩雑です。また、再開発は、そこに住む方々と一緒に作り上げていくものでもあります。会合の数も半端ではありません。こんなに高度でやりがいのある仕事はありませんでした。

地域住人のおばあさんの相談に乗っていたかと思えば、行政の方々と膝をつき合わせて何時間も議論したり、土地購入のために他県へ通ったり。どの仕事も楽しくて、自分の担当エリアが大好きでした。

時として、想いを実現するにはある程度の知識と実務能力が必要になります。日本での7年半の経験があるからこそ、今私はミャンマーで働けているのかもしれません

毎年訪れていたミャンマー

東京の街づくりの仕事とは別に、もうひとつのドラマが私の中で同時進行していました。それがミャンマーです。

初めてミャンマーを訪れたのは2007年。私は大学4年生でした。

バイト先の同僚だったミャンマー人の話を聞いて興味を抱き、ミャンマーに単身で足を踏み入れました。

初めての旅行のことは今でも忘れられません。

ヤンゴンでは中心部の1泊6ドルのゲストハウスに泊まり、他都市へは長距離バスを使って移動したのですが、とにかく、人が優しすぎる!

「インド人街では安いレートで両替をもちかけてくるから話を聞かないように」とアドバイスをくれたタクシーの運転手さん。

バスに乗る時、ミャンマー語の分からない私をバス乗り場へ連れて行き、バスの運転手に「この子は○○に行くから、そこで降ろしてあげてね」と伝え、笑顔で「じゃ」と去って行ったゲストハウスの少年。

乗り物酔いした私のために、バスの乗客たちに酔い止めを持っていないか聞いて回ってくれた女性。

赤の他人の私にかけてくれる親切に、思わずほろっときたことも。たった2週間の滞在でしたが、ミャンマーが大好きになりました。

▶毎年訪れていたミャンマー

ところが帰国してたったの2週間後、僧侶を筆頭とする民主化デモがミャンマーで起こり、鎮圧のために多くの方が殺害され、デモ参加者も大勢逮捕されました。

あんなに穏やかで優しい人たちが、デモを起こさなければいけないなんて!

同じ地球に生きているのに、生まれた国によっては教育や就労の機会もない。将来に希望さえ見いだせないのは、あまりに不合理。

これを機に私は毎年のミャンマー訪問を決め、「ミャンマーのことをもっと知りたい」「社会の変化を自分の目で捉えたい」と考えるようになりました。

募るミャンマーへの想い、そして決意

▶ヤンゴンの街並み

東京での仕事が益々やりがいのあるものになっていくにつれ、ミャンマーに対する想いもどんどんふくらんでいきました。

私がミャンマーのために何かできるとしたら、それはデベロッパーで働くこと。それはずっと確信していました。

途上国と先進国では、開発にも大きな違いがあります。でも、作る用途は同じです。

どこの国でも人はオフィスで働くし、住宅に住みます。また、環境問題、交通、文化保護や景観保全など、重複する課題も多くあります。東京での経験が役に立たないわけがありません。

大げさな言い方ですが、「東京で仕入れた私の知識や経験を、私ごとミャンマーに輸出する!」をスローガンに、2015年秋、30歳を迎えて間もなくミャンマー移住することになったのです。

▶ヤンゴンにはスーツケースふたつで来ました

なぜ!?海外赴任ではなく「現地就職」にした理由

ミャンマー移住に際して、もちろん、ミャンマーに進出している日系企業に転職するという選択肢もありました。

でも私には毛頭その考えはありませんでした。

私にとっては「現地企業で働かないと意味がない」のです。

主な理由は、国の情勢です。途上国であるミャンマーにつきもののリスクとして、経済成長の鈍化、政変、その他様々な不安定要素があります。

もしアジア経済危機がもう一度起こったら......? あの時、ほとんどの外国企業はミャンマーをはじめとするアジア諸国から撤退しました。それは合理的ではありますが、現地企業にはそれができません。

彼らにとってはミャンマーが生活の場であり、ホームなのです。だから苦しい時も耐え忍ぶし、次のチャンスに向けて水面下で準備をします。

私が重視するのはここでした。

▶ヤンゴン到着初日、マンションのバルコニーからの風景

心からミャンマーのために働きたい。

自分の時間を100%、ミャンマーのために使いたい。

ミャンマーの街の歩みを、私の人生と一体化させたい。

そんなちょっとアツすぎるかもしれない想いをもって、私はミャンマーにやってきました。

ライター

大澤 四季/Shiki Osawa

一橋大学卒業後、森ビル株式会社に入社。住宅事業部や開発統括部で不動産管理運営、再開発、エリアマネジメント立ち上げの経験等を経た後、2015年11月、大学時代より毎年通い続けたミャンマーに移住。不動産開発プランナーとして、Yoma Strategic Holdings Ltd.(ミャンマーの複合企業SPAグループのSGX上場グループ会社)に勤務。

2015-05-16-1431738338-789227-abroaders2015051609.41.07.png

週刊ABROADERSは、アジアで働きたい日本人のためのリアル情報サイトです。海外でいつか働いてみたいけど、現地の暮らしは一体どうなるのだろう?」という疑問に対し、現地情報や住んでいる人の声を発信します。そのことによって、アジアで働きたい日本人の背中を押し、「アジアで働く」という生き方の選択肢を増やすことを目指しています。

HP: 週刊ABROADERS

Facebook:ABROADERS

注目記事