「○○断食」をきっかけにして、"人生"を自らの手に取り戻そう

昨今、「断食」という言葉が、割と日常的なものとして用いられるようになってきている。
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昨今、「断食」という言葉が、割と日常的なものとして用いられるようになってきている。「食を断つ」という本来の意味のほかにも、たとえば「インターネット断食」だったり、「スキンケア断食(肌断食)」だったり、なにか......とくに「いままで普通にやってきたこと」を(一定期間)あえて「しない」ことを選んでみる、という行為に、「断食」という言葉があてがわれているようだ。決して正しい日本語ではないとは思うが、その少しばかり衝撃的なネーミングも相まってか、ありとあらゆる「断食」が、大流行の兆しを見せているように思う。

実は、著者自身、ブームに乗って......というわけでもないのだが、さまざまな「断食」にトライ中だ。

まずは、文字通りの「断食」。「プチ断食」と呼ばれるジャンルになるのであろうか。「半日断食」といって、朝食を摂らないことで消化器官を積極的に休めるという健康法は、もう2年以上続けている。最近では、ほぼ毎日、一日一食、夕食のみをいただく、という生活を送っている。言ってみれば、常に一日断食を行っている状態だ。(もちろん、水分は適宜摂取している。)それで十分に頭も体も動くし、むしろ心身ともに軽快で、以前よりもフットワークが軽くなった。この生活を始める前に抱えていたさまざまな心身の不調もかなりの割合で軽減した。

そして、「インターネット断食」。2013年2月の引っ越しを機に、一年以上、私は自宅にネットを繋いでいなかった。意識的にその生活を選んだのだ。今年の春に再び契約したが、この期間を持ったことによって、ネットというものに対する自分のスタンスを定められたように思う。ちなみに私はスマホも所有していない。今もってガラケーユーザーだが、とくに不便は感じていない。

また、ここ最近では「肌断食」といって、化粧水や乳液などのスキンケア用品を用いないで生活をするというメソッドにも手を(顔を?)出している。最初こそ肌はバリバリに乾燥したものの、3か月ほども経過した今では、むしろ肌になにかを「つけていない」ことを忘れてしまっているほどに、すっかりこの生活に馴染んでしまっている。肌の状態を褒められることはむしろ多くなった。なにしろ楽だし、ズボラな私にはぴったりな方法であった。

いくつかの「○○断食」を試してみて気づいたのが、これらのメソッドは、すべて、「自らの足で」自分の人生を歩んでいくことを選択するための、大きな助けになるということだった。

一日三回の食事や、インターネットや、スキンケア用品など、一般的に「なくてはならない」と信じられているものを、(一定期間)自分で意図して「断つ」という行為は、自分自身に大きな気づきをもたらしてくれる。

「○○断食」の「○○」に入るものは、実はそのほとんどが、かなりの数の人にとって、「ないならないで、なんとかなる」ものだったりするのだ。その発見は、自分自身を強めるきっかけを与えてくれる。いままで当たり前だと思いこんで(もしくは思いこまされて)いたものたちを、すべて「自覚的」に、そして「積極的」に、自らの手で選び直すことができるようになるからだ。

「○○断食」を体験したからと言って、その後もずっと、その○○を「しない」ことを選択し続けなくてはいけないということではない。私の場合、朝食(または昼食)やスキンケア用品に関しては、「ないならないで生活できるなら、そのままやってみよう」という道を選んだが、インターネットに関しては、「うまく使えば、ものすごく便利なツールになり得る」ということで、時間や場所など、自分なりのルールをざっくり定めた上で利用し続けている。

「自覚」をもって選んだ、という経緯があるのなら、「する」にしろ、「しない」にしろ、どちらでも問題はないのだ。それはすでに、「誰か」ではなく、「自分自身の」行動となっているはずだからだ。

未来がどうなるかを知ることはできない。しかし、結果がどうあれ、少なくとも、そこに、「自分で選んだ」という自覚があるのなら、その人は、経験のすべてを、今後の糧に変えていくことができるだろう。なににおいても、人生の結果をひとつも他人のせいにしないで、いつだって自らの足で立ち、前を向いていられるのは、この上なく清々しく、心地の良いことだと思う。

この世の中には、とかく「いつの間にか選ばされていた」ような物事が多すぎるように感じる。それらの積み重ねの中で、いつしか人々は、本来選べるはずの部分すら、自分で選ぶことを放棄してしまうのだろう。

すべてを誰かや何かのせいにして流されるようにして生きていくことは、一見楽ちんだが、実はものすごくむなしく、さみしい道なのではないか。その途中で味わうべき感情を、自分のものとして味わえなくなるからだ。そんなのって、あまりにもつまらな過ぎる。肉体をもって生きている意味がないのと同じではないか、などと思ってしまう。

正解がわからないなりにも、迷いながらも「自分で選んだ」と言い切れる道を歩んだ方が、きっと、ずっとずっと、生きていることの素晴らしさを感じられる人生になることだろう。

私は、そちらを選びたい。

"人生"を自らの手に取り戻すための一助として、あまたある「○○断食」と呼ばれるメソッドのうちのいくつかは、実際、ものすごく有効なものだと思う。ただし、やるなら徹底的に。少なくとも「禁断症状」を抜けるところまでやらないと意味がないどころか、逆に対象への依存心を強めてしまう危険性がある。

そのために、きちんと自分の頭と体を使って、正しい方法をしっかりと叩き込んだ上で行うこと。信頼のおける専門書を、一冊はきっちりと読みこむこと。必要があれば専門家の助けも借りること。また、あまりに不安感が強い場合は、まだ時期ではないということで、次の機会を待つこと。これらの注意点さえ守れば、「断食」の体験は素晴らしい結果をもたらしてくれるだろう。

すべての人に勧められる方法ではないことは承知の上ではあるが、興味と機会とご縁さえあれば、是非一度「○○断食」をどうぞ。その後の人生が、きっと、思った以上に楽しくなりますよ。