診療所に居酒屋!? 一市民として地域に溶け込む医師の目指すこと

住んだことも働いたこともない延岡市で開業したわけは?

信念は「地域医療はまちづくりの一環」

8年前に大学病院の外科医から、働いたこともない宮崎県延岡市での開業医に転身した榎本雄介先生。榎本先生は診療所で居酒屋や朝市を開くほど、地域住民の中に溶け込んでいます。どのようにして住民との関係を築いていったのか、地域での医療を通して何を実現したいのかお話しいただきました。

住んだことも働いたこともない延岡市で開業したわけ

―延岡市は、榎本先生の出身地である宮崎市と同じ県内とはいえ、100㎞程離れていて生活や文化をはじめさまざまな違いもあるかと思います。なぜ、大学病院の勤務医を辞めて延岡市で開業することにしたのですか?

確かに延岡市は、妻の出身地ではあるものの、私は住んだことも働いたこともありませんでした。現在診療所のある大貫町の住民の方々から、看護師でもある妻に「地域のお医者さんがいなくて探している。あなたの旦那さんの知り合いを誰か紹介してもらえないか」と依頼があったんです。他の人を紹介する前に、まず自分が話を聞こうと思ったのがきっかけです。

それまでの約10年間は大学病院の外科医として勤務してきました。病院では医師やスタッフのみならず、ご家族や患者さん自身も疲弊しながら濃厚な医療を続けるものの、治療の甲斐なく亡くなってしまう患者さんが大勢いました。その現実を見るにつけ、「この先何十年も今と変わらない医療制度が続くのだろうか?」と疑問を感じていました。

その思いから日本とは全く違う文化圏に行ってみたいと考え、AMDAを通じてネパールに派遣される予定だったのですが、派遣直前にネパールの治安悪化で派遣延期に―。その後、プライベートの変化もあり、途上国へ行くことは難しいと思ったものの、この先ずっと同じ環境で疑問を感じながら医療を提供し続けることにも違和感があり、悶々としていました。

そんな時に住民の方の話を聞いてみることになったのです。診察室の中という小さなフィールドだけではなく、地域という大きなフィールドで活動できることに強い興味が湧いて、すぐに「私が行きます」と返答。10カ月で準備し、2009年6月に開業しました。

―これまで働いたことのない土地での開業ですし、大学病院の外科医から町の開業医では大きな変化があると思いますが、不安はありませんでしたか?

外科医とはいえ心臓血管から呼吸器、内分泌など全般的に診ていましたし、地方の診療所の当直勤務もしていたので、診療技術に関しては、あまり大きな不安はありませんでしたね。延岡市医師会も、毎週のように大きな病院から医師を呼んで開業医向けの勉強会を開いてくれていて、学びの機会がたくさんありました。

―地域住民の方の反応はどうでしたか?

住民の方々や行政の方々の間に、「医師を大切にしよう」という雰囲気が強く感じられました。延岡市では私が開業する前に、県立延岡病院の医師が大量退職し、閉鎖された診療科もあったんですね。だから「宮崎県北の地域医療を守る会」という市民団体も立ち上がっていました。また行政も、「相談があればいつでもどんなことでもどうぞ」と言ってくれるだけでなく、新規開業助成金という目に見える形でのバックアップもあったので、新規開業する医師にとっては非常に恵まれた環境だったと思います。

そうは言っても、やはり延岡市で全く働いたことがない医師の元に、そんなにすぐに患者さんは来ず、開業当初は1日の患者数が1ケタという日も多かったです。しかしその分、一人ひとりの話を多くの時間を割いて丁寧に聞くことができて、それが次の患者さんにつながり、徐々に患者数が増えていったように思います。

診療所で開かれる居酒屋と朝市

―開業して8年。今は、診療所に居酒屋や朝市を開いていると伺いました。

居酒屋とは「ふらっととまり木会」のことですね。毎月第3水曜日に診療所の2階を利用して、フラットな立場で、ふらっと立ち寄れることがコンセプトの「居酒屋」と称する交流会を開いています。きっかけは開業直後、自殺対策フォーラムの実行委員を務めた時に、「一番自殺率が高い中高年男性は相談センターには行かずに、一人でため込むのではないか。そんな人たちがふっと自分の気持ちを吐露し、再び少し前向きになれる『居場所』を作ることが大事ではないか」という話が出たことでした。ちょうど診療所の入っていたテナントが元居酒屋で、椅子やテーブルなどがそのまま2階に置いてあったので、診療所で始めることになりました。

ふらっととまり木会の時の私は、医師ではなく「居酒屋の大将」。医師と患者の関係を取り払い、作務衣を着てお酒を振る舞います。食事は持ち寄り制なので、すごく豪華なときもあれば、逆に少ないときもあります。

毎回20名程度が出入りしていますが、定時の乾杯もなければ、みんなでワイワイ楽しみましょうと強制もしていないです。話したければ話していいですし、黙々と飲みたいときは飲んでいていい。コンセプト通り、ふらっと立ち寄れる場になっています。

―朝市はどのような経緯で始めたのですか?

地域の女性たちと仲良くなり、どちらからともなく始まりました。毎週火曜日に採れたて野菜や手作りのいなりずし、赤飯、小物を女性たちが持ち寄り、診療所前のスペースで開催しています。運営は全て女性たちにお任せ。私は場所を貸しているだけで、場所代として野菜一袋とその日の昼食をいただいています。

運営している女性たちにとってはおこづかい稼ぎになりますし、診療所に来た高齢の患者さんたちは、そこで買い物もおしゃべりもできます。私も患者さんや地域住民の方が喜んでくれていることが嬉しいので、皆にとって良いことずくめです。

一市民として、誇りを持てる地域にする

―どのようにして地域住民の方との信頼関係を築いていったのですか?

やはり最初は患者さんが少なかったので、一人一人を丁寧に診て、ゆっくりお話を聴いていったことが今につながっていると思います。あとは、自分から地域の中に出ていくことですね。地域住民向けの勉強会や講演会の講師依頼はもちろん受けますし、それ以外にも地域のお祭りでお神輿を担いだり、清掃活動など町内会の行事にも積極的に参加したりしています。

医師としてただ話すのではなく、一人の住民として関わっていくことが大切です。行事に参加すると一緒になって汗を流さなければいけませんが、これが絆を深める一番の近道です。今年は延岡市最大のイベントである「まつりのべおか」の実行委員長を任されたので、せっかく実行委員長を務めるならと思い、盆踊り参加人数でギネス世界記録を狙って、準備を進めています(2017年7月23日ギネス記録更新「最大の盆踊り、宮崎県延岡市、市民が結束力で2748人! ギネス世界記録へ」)。

―最後に、榎本先生はこの地域がどうなっていくことを望んでいるのでしょうか?

私の信念は「地域医療はまちづくりの一環」ということ。これは、大学5年生の時に地域医療実習を受けた村立病院院長の言葉です。この言葉を聞いた時に、自分が目指しているのはこれかなと漠然と思い、外科医になってからもずっと頭の片隅にありました。

まちづくりは、その地域に暮らす人を幸せにすることが目標です。そして地域医療も、目指しているところは同じだと考えています。医療の最終目標は、病気やけがを治すことだけではありません。いくら治しても人は必ず亡くなるので、そこを最終目標にしていると、永遠に達成されないことになります。もちろんそれ自体も大事なことではありますが、例え病気やけががあっても、「この地域に生まれ、最期までこの地域で暮らせてよかった。幸せだった」と思ってもらえるように医療を提供していくことが、地域医療の目指すことです。

ですから私は、延岡市で生まれ育った人がこのまちを好きになって、可能な限りこの地で人生を全うできるようにしていきたいと思います。また、一度延岡市を離れた人も戻ってきたいと思うような、誇りを感じられる地域にしていきたいですね。

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医師プロフィール

榎本 雄介 大貫診療所所長 宮崎市出身。1999年に宮崎医科大学医学部(現・宮崎大学医学部)卒業、同大学第二外科に入局する。佐世保市立総合病院外科、医療法人耕和会迫田病院などで外科医としての研鑽を積む。2009年に延岡市で大貫診療所を開業、内科・外科・在宅診療を行っている。

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