アートとカルチャー
2019年11月01日 13時12分 JST | 更新 2019年11月01日 16時55分 JST

ジョーカーへの「共感」の嵐に抱く違和感

アーサーに共感し、その境遇に同化する人が多数いる一方で、なぜこんなにも社会的弱者が批判され、自己責任論が盛んに展開されるのだろうか。

(C)2019 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved TM & (C) DC Comics

10月4日に公開され、4週連続でランキングの1位を記録している映画『ジョーカー』。この作品を見て「共感する」と語る人は多い。劇団ひとりは、本作の映画CMの中で、「共感してしまってる自分が怖くなるんですよね」と語っていて、それはある意味、端的にこの映画の本質を表すものであると感じた。

しかし一方で、今の日本の社会に目を移すと、果たしてジョーカーに本当の意味で共感している人はどれだけいるのだろうか、という疑問もわいた。

なぜ人はジョーカーに共感し、ある部分では恐怖を感じるのか。さらには、「本当には共感してはいないのではないか?」というところにまで踏み込んで、考えてみたい。

※本稿は、ストーリーのネタバレ要素を含んでいます。

Kevin Winter via Getty Images
アーサー/ジョーカー役を演じたホアキン・フェニックス

なぜアーサーに「共感」できるのか

本作では、貧しい生活を送るコメディアンのアーサーが、殺人者「ジョーカー」に変貌するストーリーが描かれる。単純にアーサーに共感できる部分はというと、アーサーの価値基準が意外にも「真っ当」だということだろう。 

彼は妄想癖と、無意識のうちに笑い出し、止まらなくなってしまうという病を持っている。とはいえ、彼が狂っているかというと、単純にはそうは言えないグレーな部分があるように描かれている。

それは、アーサーが相談所で語る「狂っているのは自分か、それとも世界か」というセリフからも見てとれ、本作の問いであるようにも思える。

彼はさまざまな人から迫害されている。ピエロの格好をして路上でサンドイッチマンをしていたら、町の不良少年たちに商売道具の看板を奪われ、殴る蹴るの暴行を受けることになる。仕事場の管理者からはその事情を聞いてももらえず、同僚からも不気味だと思われている。しかも、その同僚は彼を貶めるためか、彼に拳銃を渡すのだ。またある日には、その拳銃を所持していることがきっかけで仕事を失い、社会保障からも見放され、破れかぶれの時に、最悪の事態に出くわしてしまう。

ここまでの描写はスムーズであった。

さまざまな人から蔑まれ、自尊心をとことんまで失ったとき、ほんの些細なことが「発火剤」になってしまう。本作では、その過程が克明に描かれる。

前述の劇団ひとりは、自身の小説の映画化であり、監督も務めた『青天の霹靂(へきれき)』でも、大泉洋演じるしがないマジシャンが心理的に堕ちていく過程を丁寧に描いていた。

『青天の霹靂』の主人公はアーサーを彷彿とさせる。

後輩のマジシャンはテレビで売れっ子になるが、一方の自分はボロアパートでレトルトカレーを食べ、挙げ句の果て、バイト先のマジックバーにその後輩が現れてバカにされる。そして、彼が連れてきた業界人の吐いた(と思われる)吐しゃ物の処理を後輩とともにさせられる。翌日、スーパーで半額になったばかりのホットドッグを買って帰宅すると、アパートは水漏れでびしょ濡れに。ゴミが散乱した部屋の電球も雨のために切れ、外でホットドッグを食べようとしたところに電話がかかってきて、そのせいでソーセージが砂の上に落ちてしまう。そのソーセージを公園の水道で洗って食べようとしていたときに、電話から行方不明の父親がホームレスになり、荒川で亡くなっていたと聞くのだから、彼がジョーカーになっても仕方がないくらい、踏んだり蹴ったりの展開だ。

なんともいえないみじめさが、これでもかと描かれていた。

劇中の大泉は、そこで怒るのではなく、泣いて嘆き、そして青天の霹靂ともいえる様々な出会いがあり、救われる結末を迎える。こんな風に、一つ一つはなんでもないような不遇な出来事でも、重なってしまうと、怒るか絶望するかどちらかの感情を抱くと思わせる展開だった。

アーサーにとっては、それが電車の中での証券マン達との事件であった。

彼に共感してしまうのは、そんな風に小さな事件が積み重なっていったこともあるが、それ以上に、彼が怒りを感じる相手が、そう感じても仕方がないと思ってしまうような人物や物事ばかりだからではないだろうか。

看板を奪う少年、聞く耳を持たない上司、腐った気持ちに火をつけさせようとする同僚、そして社会的なケアの打ちきり(これに関しては本人不在のため、怒りが相談員には向けられることはないが)、電車でからかってくるホワイトカラーのマッチョで有害な男らしさの持ち主。そして、自分を虐待した母親のパートナーとそれを見て見ぬ振りをした母親(ここに関してはアーサーがその当時の真実を知ることは難しく、母親もある種の被害者であるともとれたが)、彼をテレビに引っ張り出してまで嘲笑してくるコメディアン…。

怒りを感じて当然と思わせる人物ばかりなのだから、彼に共感してしまうのは至極真っ当な感覚なのかもしれない。

では、「アーサーに共感することが恐ろしい」と感じる理由はなにか。

それは、どんなに怒りの理由が真っ当であっても、そこから殺人に繋げてはいけないという気持ちが見ている側にあるからだろう。それも真っ当な感覚である。

DON EMMERT via Getty Images
作中の象徴的な場面で登場する「ジョーカーの階段」。ニューヨーク・ブロンクス地区にあり、"聖地巡礼"に訪れる人が続出しているという。

「共感」の嵐に抱く違和感

本作には、前述以外にも、別の種類の共感も存在している。それは、「自分の状況もアーサーのようにつらい」と同化して考えるというものだ。しかし、この種類の共感には疑問を感じる部分がある。

映画の冒頭では、ゴッサムシティはストライキによりゴミの処理が滞っていることが描かれる。その根っこには、市民の行政、政治への不満があることが伺える。そんな状況にも共感を煽る効果があるのだろう。日本でも、度重なる災害に対しての政府の対応に不満を持っているものも多いはずだ。

しかし、そんな状況に対して、日本では異を唱えるどころか、受け入れ、あきらめている人も多い。 

それどころか、自然災害で被害を受けた人に自己責任論を突きつけるものもいる上に、10月の台風19号上陸時には、路上生活者が「区民ではない」という理由で避難所から受け入れを拒否された。それについて、テレビで「(避難所に)来ている方たちは嫌ですよ」と語る芸人がいるばかりか、それが賛否両論の形で報じられている。ある意味、今の日本社会がゴッサムシティと同じか、それよりも最悪な状況にあるのではないか。 

アーサーに共感し、その境遇に同化する人が多数いる一方で、なぜこんなにも社会的弱者が批判され、「自己責任論」が盛んに展開されるのだろうか、と思うのだ。

映画の中では、アーサーは社会から見放された人であるとはっきり描かれており、そういう意味では避難所を追い出された路上生活者と非常に近しい立場にある。しかも、アーサーは社会に対して怒りを感じ抵抗しようとしていて、物語の中でジョーカーを讃える人たちも同じように社会に抵抗している。

もしも避難所受け入れ拒否に「NO」と言わない人がアーサーに共感するなどと言っているとしたら、明らかに理論が破綻しているのではないか。

アーサーの不遇さに共感したい気持ちはわかる。だとすれば、現実の世界で弱者を切り捨てたり、自己責任論を振りかざしたりしないでほしいと、切に願う。

悪に強さを感じて憧れ、同化してみたいという欲望は、あるものかもしれない。この映画には、そんな悪が昇華していく刹那の美しさが描かれているように見える映像もある。なかには、その部分だけを切り取って、都合よく解釈する人もいるだろう。この映画がそのような共感のされ方をするものだとしたら、危険視する人がいるのも当然だろう。

しかし、アーサー、そしてジョーカーは、現実の世界において弱い立場にある人間に目を向けることのできない人に共感されるようなキャラクターではないし、この映画は人の露悪的な感情を煽ったり引き出したりするために作られているものではないと思う。

「自分もまた弱者である」と感じながら、自分よりも弱いものは切り捨て、嗤うものがもしもアーサーやジョーカーに共感しているとしたら、何をもってそう思えるのか、という怒りの感情を持ってしまうのだ。

 

(執筆:西森路代 @mijiyooon / 編集:生田綾 @ayikuta ・毛谷村真木 @sou0126

◇西森路代さんの連載「フィクションは語りかける