世紀の大誤報「光文事件」とは? 大正、昭和、平成の元号スクープ合戦を追った

100年以上にわたり、マスコミ各社が元号のスクープ合戦を繰り広げてきました。
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平成が終わる。4月1日に発表される新元号をめぐって注目が集まっている。これまで大正、昭和、平成と元号が変わる節目では、マスコミ各社がスクープ合戦を繰り広げてきた歴史がある。その歩みを辿ってみた。

■「大正」は緒方竹虎のスクープ

1911年8月30日の号外で「大正」への改元をスクープしたのは、大阪朝日新聞の号外だった。入社1年目の新人記者、緒方竹虎(おがた・たけとら)が手がけたものだった。

政界に影響力を持っていた枢密顧問官の三浦梧楼の自宅に自動車で向かい、情報を得たという。『緒方竹虎』(朝日新聞社)には次のように書かれている。

<<当時政界の大御所として隠然たる勢力のあった三浦の家には、多くの新聞記者が平常から出入りしていたが、緒方の出入りは学生時代からであり、かつ信用も厚かったので、三浦は帰宅するや、「大正」と元号が決ったこと、その発音は「タイショウ」であることを教えた。緒方は直ぐさま社に飛帰って号外を出したが、朝日新聞が一番早かったため、特別に賞与を得た>>

■昭和改元時の大誤報「光文事件」とは?

大正から昭和への改元では、世紀の大誤報として知られる「光文事件」が起きた。1926年12月25日、毎日新聞の前身である東京日日新聞は、他紙に先駆けて「新元号は光文」と号外で報じた

報知新聞、都新聞も「光文」の号外を出し、読売新聞と萬朝報も朝刊で「光文」と報じた。しかし、25日昼ごろに政府が発表した新元号は「昭和」だった。スクープが一転して、歴史的な大誤報になった。

東京日日新聞の本山彦一社長が辞意を表明する事態にまで発展。最終的に編集主幹だった城戸元亮(きど・もとすけ)が、一切の役職から退くことで決着したという。

新元号が政府の公式発表より前に報道されたため、「光文」が「昭和」に差し替えられたという説がある一方で、単なる誤報という説もある。

当時、枢密院で秘密裏に元号案の選定に加わっていたという中島利一郎は、1956年にNHKの番組「私の秘密」に出演。「大正天皇崩御の際、次代の年号は私の選んだ『光文』と決まりましたが、事前に新聞に発表されたため、『昭和』になりました」と告白していた。

一方で「元号」(文春新書)を書いた所功・モラロジー研究所教授は「最終段階で元号が差し替えられるようなことはあり得ない」として、光文が昭和に差し替えられたという説に否定的な見解を取っている。

■毎日新聞の「平成の号外」は幻に

新元号「平成」を発表する小渕恵三官房長官(当時)
新元号「平成」を発表する小渕恵三官房長官(当時)
時事通信社

1989年1月7日、小渕恵三官房長官(当時)が新元号を「平成」と発表した。毎日新聞はその35分前に情報を掴んでいたが、号外は発行されなかったという。

同社の政治部長は「平成で間違いない、という確固たる自信があります。すぐに号外を出してください」と編集局長に何度も迫り、激論になったという。同社の官邸キャップだった仮野忠男(かの・ただお)氏は、後に編集局長が次のように言っていたと振り返っている

「光文事件があったうえに、昭和天皇が吐血した後の1988年9月26日に『マイニチ・デイリーニューズ』が昭和天皇逝去を悼む社説を誤って掲載し、回収する騒ぎを起こした。そのうえ新元号に関して誤報を犯せば、3度目のミスということになる。そうなれば毎日新聞に対する攻撃が起きかねない。だから非常に慎重になった」

2019年4月1日に発表される新元号をめぐっても、かつてのように新聞各社が一分一秒を争うスクープ合戦が繰り広げられるのだろうか。

【参考図書】

・朝日新聞社史 明治編(朝日新聞社)
・朝日新聞社史 大正・昭和戦前編(朝日新聞社)
・「毎日」の3世紀―新聞が見つめた激流130年 上巻(毎日新聞社)

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