【合わせて読みたい】『ウルトラセブン』第12話は、封印すべき作品だったのか? “アンヌ隊員”に聞いた
2022年末、ある小説が書店から回収された。
ハードボイルドな著作で知られる樋口毅宏さんが書いた『中野正彦の昭和九十二年』だ。本来であれば12月19日に発売予定だったが、3日前の16日に版元のイースト・プレスが「社内承認プロセスに不備がありました」として、各書店に回収通知を出した。SNSでは差別的な描写や、実在する人物をめぐる不適切な表現があったことが原因ではないかと囁かれている。
『中野正彦の昭和九十二年』は、世の中に出してはいけない作品だったのか。回収を免れた本を入手して全編を読んだ上で「この作品を封印するべきではない」と主張する弁護士がいる。法教育をライフワークとする飯田亮真弁護士だ。ハフポスト日本版はオンラインで詳しい話を聞いた。
■「会社からヘイト本が出される」と匿名の訴えがSNSで拡散
『中野正彦の昭和九十二年』をめぐっては、書店に商品が搬入された12月15日時点で、大きな騒動が起きていた。
イースト・プレスの編集者とみられる匿名のTwitterアカウント(現在は削除)が、出版に反対する連続ツイートをしていたからだ。
「会社からヘイト本が出されようとしており、複数編集部員が問題点を指摘して抗議をしても、聞く耳を持ちません。助けてください」と訴える内容だった。「明らかに実名での侮辱的な記述」があるとも説明していた。この訴えが、回収に影響した可能性がある。
作者の樋口さんは回収通知が出た翌日、公式Twitterで声明を出した。「差別用語」が作品内に登場することを認めた上で、普段のツイートなどを見てもらえれば自身が「差別を憎んでいることがお分かり頂けるでしょう」と訴えた。
また、「通読して頂ければわかりますが、本書はあからさまなヘイト本、歴史捏造本とは程遠いものです」とした上で、「著書として望まないのは、『これは差別している本だ』という気持ちで読めば、バイアスが掛かってしまうことです」と危惧していた。
ハフポスト日本版では、イースト・プレスに詳しい回収理由を尋ねたが「作者側と話し合いも既に終了しておりますことから、回答を控えさせていただきます」としてノーコメントだった。
作者の樋口さんにも取材を申し込んだが、条件が合わずインタビューは実現しなかった。
■筆者も実際に全編読んでみた。吐き気を催しそうな内容で苦痛だった
ともあれ、作品を読んでみないことには記事を書けない。『中野正彦の昭和九十二年』は回収前に、各書店に搬入されていたこともあり、今も少部数が流通。定価2200円(税込)の数倍ものプレミア価格で取引されている。筆者も、こうして流通しているバージョンを入手した。336ページで、ソフトカバーとはいえ、かなりの厚みを感じる書籍だ。1週間かけて読み切った。
この小説は、中野正彦という架空の人物が2017年2月から12月にかけて書いた日記という体裁を取っている。デリバリーピザ店でアルバイトをしている中野が、実際のニュース記事を引用しながら、世の中に毒づく日々が前半は延々と続く。中野は安倍晋三首相(当時)を「お父様」と呼んで盲信する一方、在日朝鮮・韓国人への敵意を隠さない。民族・国籍差別的な表現、女性蔑視、実在する芸能人やジャーナリストらに対する罵詈雑言のオンパレードだ。
吐き気を催すような文章が延々と続く一方で、本筋のストーリーは遅々として進まない。読んでいて非常に苦痛だった。仕事でなければ途中で断念していたのは間違いないだろう。帯には「安倍晋三元首相暗殺を予言した小説」と書かれているのだが、実際にそうした話が出てくるのは終盤になってから。全体の3分の2が過ぎた辺りからだった。
この安倍首相暗殺計画が浮上してからは、それまでとは異なり、怒濤のストーリー展開と凄惨な描写が続く。ただ、安倍首相を盲信していた主人公がなぜいとも簡単に暗殺に乗り出すのか、心の動きは全く描かれない。そのまま小説は終わり、作品の世界から放り出されたような気分になった。
読み終わってみると、この本の評価はなかなか難しいと感じた。主人公の中野正彦による、ありとあらゆる差別的な描写が満載されているのは事実だ。しかし、彼の言動は支離滅裂な上に、あまりにも自己中心的。読者が感情移入しにくいように描かれていると感じた。
とはいえ、実在する著名人を揶揄するシーンや、実在のジャーナリストを連想させる人物が殺害されるシーンもある。名誉毀損で訴訟を起こされるリスクはないのか気になった。
小説のモデルとなった人物が作家を名誉毀損で訴えて勝訴したケースは複数ある。柳美里さんが『新潮』1994年9月号に掲載した『石に泳ぐ魚』(1994年)をめぐっては、顔に障害をもつ友人女性が「無断で小説のモデルとされ、プライバシーや名誉を傷つけられた」として訴訟を起こした。柳さん側の敗訴が2002年に確定した。
また、中村うさぎさんが2010年に出版した小説『狂人失格』の登場人物のモデルになった女性が「小説で名誉を傷つけられた」として中村さんと出版元の太田出版に損害賠償を求めた。この訴訟では、2014年に中村さん側の敗訴が確定している。
■「この小説は、差別を肯定したり、ヘイトクライムを扇動したりする内容のものでは断じてない」そう主張する弁護士に取材
法律の専門家は、この本をどう評価するのだろうか。そう思ってTwitterを検索していると、ある弁護士のツイートが目に入った。
作品を読破した上で、「この小説は、差別を肯定したり、ヘイトクライムを扇動したりする内容のものでは断じてない。当然、出版を差し控えるべき内容とも言えない」と書いていた。
法教育を専門とする飯田亮真 (いいだ・りょうま)弁護士だった。
ハフポスト日本版では飯田弁護士に『中野正彦の昭和九十二年』をどう読んだかを2月初旬、オンラインでインタビューした。
飯田弁護士は、「作中の人物が差別的な言動をしている」ということと「この作品自体が差別的であるかどうか」は分けて考える必要があると主張。作者は明らかに、差別的な言動をする登場人物を「否定的に描いている」として、作品全体の文脈から考えたときに「この作品が差別的な内容である」とは言えないという見解を示した。
また、作中の描写が名誉毀損に当たるかどうかは「現実の社会においてその人の社会的評価を下げる表現」かどうかが重要となると指摘。この小説の場合には個人的な見解と断った上で、「現実の社会においても、そのモデルになった人の名誉が毀損されるということにはならないと私は思います」と話している。
■飯田弁護士との一問一答
―― 『中野正彦の昭和九十二年』は、どうやって入手しましたか?
版元のイースト・プレスの編集部員とみられるアカウントが「この本の内容には問題がある」という趣旨のツイートをしているのを見たのがきっかけです。著者の樋口毅宏さんは直接の面識はありませんが、お名前は知っていましたので、「まずは読んでみようか」と思い、12月15日にAmazonで予約しました。翌16日に「回収します」というアナウンスが出て、「これは無事に届くのかな?」と思っていたら、本来の発売予定日だった19日にAmazonから本が届いたんです。
――実際に作品を読んでみた感想は?
純粋な小説としての感想は「小説として特に優れているとまでは感じないな」というものでした。前半は主人公の日記が続き、やや間延びした印象でしたが、後半に天変地異が起こってからは、物語のテンポが速まって、いろいろな事件が起きて興味深い展開となり、ディストピア感も出ていましたね。
―― 飯田さんご自身は「この小説は差別をしたり、ヘイトクライムを扇動したりする内容ではない」という評価でしょうか?
その通りです。主人公・中野正彦による外国人差別や女性蔑視などのヘイトスピーチが、この小説の中では、たくさん出てきます。後半には、ヘイトクライムに手を染めるシーンすら出てきます。ただ、私がこれを読んで「作者は明らかに否定的に描いているな」と思いました。
作者はこの中野正彦という人物を、端的にいえば愚かな、滑稽さすら感じる、あるいは哀れな人物として描いています。国粋主義的な主張をする一方で、確たる信念があるわけではなく、ご都合主義的に、それまでの自分自身の言動と全く矛盾した発言や行動をする描写もたくさん出てくるんです。ちょうど、排外的で陰謀論的な言説が書かれたインターネット掲示板を盲信しているような、揶揄的な意味でのステレオタイプな「ネトウヨ」を想起させます。
――確かに安倍首相のことを「安倍お父様」と呼んで崇拝していながら、右翼的な組織を束ねる「会長」と呼ばれる人物から殺害を命令された途端、迷うことなく殺害に向けて動きだすなど、僕も読んでいて混乱した部分がありました。
これは中野正彦は「別に思想があってテロ行為をしているわけではない」という描き方なのだと感じました。揶揄的な文脈で「ネトウヨ」と言われる人の多くがそうであるように、確固たる信念があるわけではないんです。結局、「左翼が嫌いだから」とか「左翼を批判してる俺かっこいい」みたいな自己陶酔が多分に含まれている。だから自分の行動に論理一貫性がなく、ご都合主義的です。だから、過去の主張と矛盾する行動をする。
彼の国粋主義的な、外国人差別的な思想も、彼が自分で獲得したものではなく、他人から与えられたもの。盲目的にそうだと思い込んでいるに過ぎないということを、暗に描いてるのだと僕は感じました。中野正彦という人間を信念のない「滑稽な存在」として描いている。決して称賛していないんです。
――私も読んでいて、作者が主人公を突き放して描いてるような印象を受けました。
主人公の描き方を見ていると、明らかに作者は主人公を批判的に見ていることが伝わってきます。彼の思想・行動・発言を作者が正当なものと評価しているとは、はっきり言って全く読めない。
通常の読解力がある人だったら、みんなそう思うでしょう。なので、この本が「差別を肯定的に描いている」とか「ヘイトクライムを扇動している」とか、そのような評価は間違っていると思っています。
――ただ、ちょっと気になったのは作品中の文言を抜き出すと、かなり危険な差別的な文章も見受けられます。抜き出した場合には、ヘイトスピーチと捉えかねられない表現がたくさん出てきます。そういった言葉が拡散してしまう恐れはどうでしょうか?
作中で登場人物が言っていることがヘイトスピーチに当たるかどうかと、この作品自体がヘイトスピーチなのかは別の問題だと思います。たとえばディストピアを描く映画や漫画などの作品では、世の中がものすごい階層社会になっていて、上の階層の人間が下の階層の人間を露骨に差別してるという世界も描かれますよね。上の階層の人間が下の階層に向けて、「汚いから近寄るな」と述べたり、「石を投げる」といった描写だってあるはずです。
そうした作品中の登場人物は明確に差別をしているし、ヘイトスピーチやヘイトクライムの描写もあります。でも「作品自体が差別的である」とか、「ヘイトスピーチや、ヘイトクライムを扇動する」とは評価されない。
それと同じだと思うんです。ましてやこの作品は、主人公の中野正彦の主張が、非常に幼稚で、全く正当性のないものとして描かれている。そうなると「作中の人物が差別的な言動をしている」ということと「この作品自体が差別的であるかどうか」は分けて考える必要があります。
法律論で言っても、ある発言が差別に当たるのかは、発言単体で見るのではなくて、それがどういう文脈でなされたものなのかによって決まります。コンテキスト(文脈)と切り離して考えることはできないんです。
そう考えると、この小説での「中野正彦の発言」の数々は単体で取り上げると確かに差別的な表現が含まれています。しかし、作品全体の文脈から考えたときに「この作品が差別的な内容である」とは言えないと思っています。
―― なるほど。ただ、この本にはヘイトスピーチの問題だけでなく「名誉毀損のリスクがあるのでは?」という声も出ています。実在の政治家のほか、ジャーナリストや国際政治学者、タレントなど、実在の人物がたくさん出てきます。「回収した真相は、実在の人物から名誉毀損で訴えてくるリスクを出版社が恐れたのでは?」という声もネット上では出ています。実際にそうしたリスクはあるのでしょうか?
出版社が、訴訟リスクをどう評価したのかまでは、私には分かりません。ただ、名誉毀損に当たるかどうかも、やはり文脈での判断になります。たしかに『中野正彦の昭和九十二年』の中では、実在の人物と同じ名前の人が登場して殺されたり、あるいは罵声を浴びせられたりする描写があります。しかし、特定の描写が「名誉毀損に当たる」とするには、「現実の社会においてその人の社会的評価を下げる表現」であることが前提なんです。
作品の中での描かれ方によって、現実社会でモデルとなった人の名誉が本当に毀損されるのかは、また別の問題です。作中では、ある著名人が「朝鮮人に違いない」として群衆に殺害されるシーンがあります。しかし、これを読んで、当該著名人が「朝鮮人」であるとか、あるいは殺されてもやむを得ないような不当な人物であるなどと認識する人はほぼいないでしょう。作者が、特定の人物に国籍に関するレッテルを貼って、それを理由に殺すという行為を、正当なものとは全く描いてないことは、一読すればわかる話だからです。
むしろ作者は関東大震災のときに朝鮮人が殺害されたことのような、集団ヒステリーの状況を描くことによって、不適切なレッテルを人に張って、理由がなく殺害してしまうことの不当さを描いていることは明らかです。
そうすると作中の描写が、モデルになった人物の名誉を毀損しているという話にはならないと思います。確かに作中で、中野雅彦はいろいろ人に対して罵詈雑言を浴びせ、「こいつは売国奴だ」みたいなことを主張しています。しかし、そうした発言について「この中野正彦はおかしなことを言っています」という作者の意図がすごく伝わる書かれ方をしているので、モデルとなった実在の人物に「問題がある」とは読者は思わないはずです。
すなわち「あの作中で登場人物の名誉を毀損するような発言をなされていたからといって、現実の社会においても、そのモデルになった人の名誉が毀損されるということにはならない」と私は思います。
―― 先ほど読解力があれば作品の真意に気づくはずだという話がありました。ただ、読解力がない人が民族差別や誹謗中傷のくだりを表層的に読んで、「これは素晴らしい」と礼賛したり、部分的に抜き出してヘイトスピーチに利用したりする懸念はないでしょうか?
それは、この本の問題ではないと思います。飽くまでそういう読み方をしてしまう人の問題であって、通常の読解力を持ってすれば、この本が「ヘイトスピーチや差別を肯定しているわけではない」と、おそらく9割以上の人が読み取ると思います。
そうなると、この本自体が悪いわけではない。今、安藤さんが指摘したように、「これは素晴らしい」「自分が普段から言ってることを正当化してくれた」「素晴らしい本に出会った」と感じた人がいたとしましょう。「『中野正彦の昭和九十二年』にはこう書いてある!」と、ヘイトスピーチの根拠にする人が出てくる可能性がゼロとは言えません。ただ、それはその人個人の問題です。ヘイトスピーチや差別的な言動をした場合、その行動に対する責任は、その人に発生するわけです。この本に問題があるということには繋がりません。
―― 問題は作品ではなく、実際に行動を起こした人にあると、飯田さんは考えているということですね。
はい。もしこの作品が「文脈としても差別を肯定している本」だった場合を仮定しましょう。さらに実際にヘイトスピーチやヘイトクライムをする人が「『中野正彦の昭和九十二年』の影響でやりました」と主張したとしましょう。そのケースであっても、「犯罪の責任は作品にある」とは必ずしもいえないと思うんです。
作品はあくまで作品。たとえば、「ヤクザ映画」では、暴行や脅迫、殺人などの犯罪行為が描かれますが、ヤクザに憧れて実際にヤクザとなり、犯罪行為に手を染めた人がいるとして、「ヤクザ映画は犯罪を誘発するから禁止すべきだ」とはならないでしょう。ヤクザ映画が犯罪行為をある種「かっこよく」描いており、それに憧れのようなものを抱く人がいたとしても、実際の犯罪は、その犯罪をした人の責任であり、ヤクザ映画の責任ではないはずです。
作品を見るという行為と、実際に犯罪や問題行動を起こすというのは別次元の話です。個別具体的な事例で、作品を見たことが犯罪の契機となった人がいたとしても、「この作品は害悪だから、この世からなくせ」という議論は、私は違うと思っています。