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2019年10月18日 12時32分 JST | 更新 2019年10月18日 12時32分 JST

映画『楽園』原作者・吉田修一と瀬々敬久監督が犯罪を描く理由「人は善人じゃないと知ることで寛容になれる」

映画に登場するのは、どこにでもいる市井の人々。そんな人々が犯罪者になり得る、あるいは犯罪者のレッテルを貼られてしまう様を見て、これは明日の自分の姿かもしれないと感じずにはいられない。

©2019「楽園」製作委員会
映画『楽園』

綾野剛、杉咲花、佐藤浩市らが出演する映画『楽園』が10月18日より公開される。

本作は、『悪人』や『怒り』などで知られる吉田修一氏の短編小説集『犯罪小説集』(KADOKAWA)の中の2篇、「青田Y字路」と「万屋善次郎」をアレンジし、一本の物語に再構成して映画化したものだ。

日本の限界集落に近い地方を舞台に、2つの事件を巡り、移民との共生、老々介護、限界集落など、現代社会の抱える諸問題を背景にしつつ、人々の思いが交錯する様を重厚なタッチで描いている。

青田の広がる地方都市、とあるY字路で一人の少女がこつ然と姿を消す。Y字路で別れる直前まで一緒だった紡(杉咲花)は、罪悪感を抱えながら生きることになる。事件は未解決のまま12年が過ぎ、再び同じ場所で少女の失踪事件が起きると、人々は東南アジアからやってきた親子に疑惑の目を向け始める。

そのY字路の先には村民のほとんどが高齢者という限界集落がある。妻を亡くして村に戻ってきた善次郎(佐藤浩市)は、養蜂による村おこしを提案するが、予算問題で話がこじれ、村人から拒絶され、孤立を深めてしまう。その後、想像を絶する事件が起きる。

監督は『菊とギロチン』や『64(ロクヨン)』で知られる瀬々敬久(ぜぜ・たかひさ)氏。吉田氏と瀬々監督はともに犯罪を題材にした作品をよく制作しているが、なぜ2人は地方を舞台に犯罪を描き、事件の加害者にも目を向けるのか。吉田氏と瀬々監督に話を聞いた。 

YOSHIKA SUZUKI/鈴木芳果
左から、瀬々敬久(ぜぜ・たかひさ)監督と原作者の吉田修一さん

忘れられた場所で忘れられた人々が生きる物語

本作の原作『犯罪小説集』は日本社会にある問題が数多く内包されているが、吉田氏はそれを大きく意識しているわけではないと言う。

吉田「いつも社会問題ありきで書いてはいません。小説を書く時は常に人間を書きたいと思ってやっています。気になる人、気になる事件について調べて書いていくと、結果的に社会問題にぶつかるんです」

人間誰しも生きていれば、社会問題と無関係であるはずがない。人間をしっかりと見つめるからこそ、その物語の背景には社会の抱える問題が当然のように入り込んでくる。瀬々監督も吉田氏の作品の魅力を「読者の地続きにいる人物として描く目線が的確で、現代の日本に生きる人々の世界をしっかりと掴んでいる」(プレスシートより)と評する。

そのような姿勢で書かれた5つの物語から、瀬々監督は映画化にあたり「青田Y字路」と「万屋善次郎」の2本を選んだ(企画段階では「曼珠姫午睡(まんじゅひめのごすい)」をあわせた3本を取り上げる案もあったそうだ)。ともに地方を舞台にした物語だが、この2本を選んだ理由について瀬々監督は以下のように語る。

瀬々「この2つの物語は寂しげな佇まいをしていると思ったんです。忘れられた場所が舞台になっていると言いますか、そこで忘れられた人たちが生きている。でも、本当は日本の大半はそういう場所であって、都市部の面積なんて日本のわずかなものでしかないわけです。そういう意味では、こういう忘れられた人たちこそ、日本の大部分の人々なんだと思うんです」

メディアの本社はたいてい東京に集中している。それゆえ、地方の情報も「東京の視点からみた地方」になりがちで、それは事件報道でも同様だろう。しかし、東京が日本の全てでもなければ、標準でもない。吉田氏も瀬々監督の意見に同意する。

吉田「僕は意図的に地方の視点から見つめようという意識はありませんが、東京がスタンダードじゃない、むしろ特殊な場所なんだと思っていて、いつもそれを前提に小説を書いています」

YOSHIKA SUZUKI/鈴木芳果
『悪人』や『怒り』など、多くの作品が映画化されている作家・吉田修一さん

寛容になるためには悪を知ること

映画で描かれる2つの事件は、「村八分」というキーワードでつなげられる。1つ目の事件では、明白な根拠がないにもかかわらず外国からやってきた母子家庭の息子、豪士(綾野剛)が少女失踪の原因だと決めつけられてしまう。豪士を追い詰める人々を、原作の小説はこのように描写する。

「まだ犯人と決まったわけでもない男を、誰もが追いかけていく。隣の者が追いかけるから自分も追いかけるという以外に理由もない。」(P.74)

そして、善次郎は、村おこしの予算についての話の誤解により、高齢者たちのコミュニティからつまはじきにされ孤立を深めていく。村八分という、日本社会を語る上でよく語られる問題に、外国からの移民と、高齢化した限界集落へのUターン組という「異物」が交わることで事件が生まれるという構造が描かれている。

瀬々「自分もそういう場所の出身だから他人事じゃないんです。日本の田舎は今ほとんど限界集落みたいになってしまっています。こういう場所はネット社会とは違う意味で、人々の生活の近さがすごいので、噂なんかすぐ広まります。

父は兼業農家だったので、山が荒れ地になるのを防ぐために木を植えたりしていたんですが、そんなことも作品に反映させています。私の地元にも中国人労働者がたくさん来ています。人口2万人くらいの土地に多い時では300人くらいいたみたいですけど、かなりの数ですよね。そこでもやっぱりいろんな問題が起きているようです」

人口減少傾向が続き、高齢者も増え続ける日本では外国人の受け入れは必須と言えるかもしれない。しかし、本作で描かれたような村八分という不寛容な現象は、移民の受け入れとはすこぶる相性が悪いように思える。このジレンマは解消できるのだろうか。吉田氏は、だからこそ人間の悪性を見つめることが大切だと言う。

吉田「人は決して善人じゃないという前提でいると、相手に100%を求めなくなります。そうなった時、人は少し寛容になれると思うんです。何か問題が起きると、すごく怒る人たちがいますよね。ああいう人たちは『正しい』人たちだと思います。自分自身が考える正義を信じてらっしゃるのでしょうから。でも、それが人の本質ではないと思うんです」

YOSHIKA SUZUKI/鈴木芳果
『64(ロクヨン)』で日本アカデミー賞優秀監督賞を受賞した瀬々敬久監督

本作に登場する人々はどこにでもいる市井の人々だ。そんな人々が犯罪者になり得る、あるいは犯罪者のレッテルを貼られてしまう様を見て、これは明日の自分の姿かもしれないと感じずにはいられなかった。自分も同じような状況に追い詰められたら、誰かを犯人扱いするかもしれないし、もしかしたら自分が加害者になる可能性があるかもしれないと考えさせられる。瀬々監督は当事者性をキーワードとして上げる。

瀬々「昨今、SNS時代になって、何か事件が起きる度に『あんな奴は絶対許せん』と簡単に自分と切り離してしまう傾向になっている気がします。少し前の日本では、例えば少年犯罪が起きた時に自分の息子が加害者になったらどうしよう、と不安に感じる人がもう少し多くいたと思うんですけど、ある意味それは当事者性がまだ残っていたということですよね。そういう当事者性の危機意識が失われているのは世界的な傾向だと思いますが、非常に残念なことだと思います」

小説や映画で犯罪者を描くことは、犯罪者を許すわけでも、肯定するということでもない。「君がやったことは取り返しがつかない。でも君が伝えようとしたメッセージを俺は受け止める」ということだと瀬々監督は語る。

許さないことと、受け止めることは両立する。社会の犯罪と向き合う時にはそんな姿勢が大切なのだと本作は教えてくれた。

©2019「楽園」製作委員会
映画『楽園』

(編集:毛谷村真木 @sou0126