アートとカルチャー
2020年09月22日 17時00分 JST

神秘の泉を追った「セノーテ」が誘う幻想的な映画体験

メキシコの地下奥深くに広がる泉、セノーテ。かつては生贄が捧げられ、死にまつわる伝説に包まれた未知の泉を追ったドキュメンタリーは、見る者を別世界に誘う。

©︎ Oda kaori
映画『セノーテ』

坂本龍一氏や黒沢清監督らの審査によって、世界へ羽ばたく新しい才能に贈られる大島渚賞。その第1回目の受賞者となった新鋭、小田香監督の長編ドキュメンタリー映画『セノーテ』が公開中だ。    

本作は、メキシコのユカタン半島にある泉、セノーテについてのドキュメンタリー作品だ。地下の奥深くに広がるこの泉はいまだ全容が解明されていない未知の泉だ。

小田監督はその大自然の神秘に身を任せ、たゆたう様をカメラに収め、観客を別世界にいざなう。鑑賞中は、自分が人であることを忘れる瞬間さえある。

このような映画をつくった小田監督とはどんな人物で、この不思議な作品は何を目指してつくられたのか、話を聞いた。 

©︎ Miura Hiroyuki
小田香監督

かつては生贄が捧げられた泉

セノーテのあるユカタン半島には川がなく、かつてはこの泉が人々の暮らしを支える唯一の水源だった。大小様々なセノーテがあり、現在では観光地化されているものも多いが、家庭の裏庭にひっそりと存在するものもあるそうだ。

セノーテは、恐竜を絶滅させた隕石が原因でできたと言われており、衝突穴の上に幾重にも層が重なり、地下に入り組んだ水路が形成されており、今でもその全貌が掴めておらず、人が入り込めない未知の世界が広がっているという。

かつては、雨乞いのために生贄が捧げられたこともあり、暮らしを支える水源であると同時に死の匂いもする場所であるようだ。

小田監督は、メキシコの友人からセノーテについて聞き興味を持ったそうだ。その地にあったとされるマヤ文明をリサーチし、セノーテが生贄をささげる場所だったことを知り、現地の人々からその地に言い残されている神話や民話を聞いた。

「セノーテでは雨乞いのために人が泉に投げ入れられていたと聞いて、すごく興味がわきました。そこは神聖な場所でもあり、生活を支える水源であり、黄泉の国への入り口のような場所なんです。

いろいろな村から村へ移動しながら、海とつながる大きなものから、井戸くらいのものまでいろいろな大きさのセノーテがあることを知りました。そして、村の人からは、セノーテにまつわるたくさんの民話を聞かせてもらいました」

©︎ Oda kaori
映画『セノーテ』

生贄の話は古代のものだが、現代でも泉に誘われて飛び込んでしまう人がいる、という話をする現地の人が作中に登場する。セノーテには死に関する不思議な逸話が今でもあるようだ。

「これは私の予想ですが、セノーテには海とつながっているものもあるので、潮の満ち引きで水位が高くなり、人がさらわれてしまう現象を、雨の神が生贄を欲して引き込んでいるんだと神話を絡めて話しているんだと思います。その水位が上がってくる様子を、雨の神の仕業と言っているんでしょうね」

このような、摩訶不思議な言い伝えが、映画の中ではまことしやかなものとして観客に迫ってくるのは、本作が夢か現実かわからない体験をさせてくれるからだ。

泉の中の不透明な視界に差し込む光の神秘的な光景、天地が逆転したかのような優雅なカメラワークにたゆたう魚など、観客を幻想的な世界に誘う映像に溢れている。 

©︎ Oda kaori
映画『セノーテ』

メキシコでは死は「穢れ」ではない 

小田監督自身も撮影中、何度か幻想的な体験をしたそうだ。

「時々、『あ、今しっかり撮れたな』っていう瞬間があったんです。その時は意識が研ぎ澄まされて、目もばっちり開いて、耳もよく聞こえて、場所とシンクロしたような気になれるんです。

魚が泉を二周ぐらいするのを追いかけた映像があるんですけど、私はカナヅチで普段はあんなに泳げるはずないのに、なぜかずっとついていけたんです。かなり近距離で魚を追っていたんですけど、魚もなぜか逃げずにいてくれて、本当に気持ちよかったですね」

©︎ Oda kaori
映画『セノーテ』

メキシコは「死が身近だ」と小田監督は言う。死者の日という有名な祝祭日があるが、小田監督はユカタン半島で死者の日に遭遇し、その時の様子も映画に収めている。

「たまたま死者の日に通りがかった地域がまだ墓守がいるような土地で、身寄りのない骨を掃除していたんです。骨が辺りにポンと置いているような所で、そのままミイラになって置かれているものもありました。

メキシコの死生観は独特で、死が穢れではないんですよね。セノーテは冥界とつながっている場所だと信じられているので、こういうシーンも入れようと思いました。映画のナレーションも、生贄となった人の精霊という設定で、死者が生者に語りかけているということにしています」

 

わからないものを撮るから面白い

小田香監督は、大阪出身、アメリカの大学で映画を学んだ後、ハンガリーの巨匠タル・ベーラ監督の指揮するfilm.factory(3年間の映画制作博士課程)に入学。

その後、2015年にボスニアの炭鉱を主題にしたドキュメンタリー映画『鉱 ARAGANE』で鮮烈なデビューを飾り、本作で第一回大島渚賞を受賞するなど、今後の活躍が期待されている。

小田監督は、ボスニアの炭鉱にメキシコの泉と、立て続けにユニークな題材を選んでいるが、カメラを向ける基準は何なのだろうか。

「私自身の映画製作のモチベーションに、わかりやすいものを作ろうというのはないです。むしろ、自分がまだ知らないものを見つめること、耳を澄ませるということをやりたいんです」

わかりやすいものを求める傾向が日増しに強くなっている世の中だが、小田監督はそれとは真逆を向いているようだ。

「もし知っている事柄や人にカメラを向けたとしても、それでも『ああ、この人のこと知らなかったんだな』ということを自覚する作業になるんです。よく知っている人にカメラを向けたとしても、その人が知らない人になっていくと感じるんです」

©︎ Oda kaori
映画『セノーテ』

カメラが持つ暴力性

小田監督は、最も身近な存在と言える自身の家族にカメラを向けたことがある。アメリカの大学の卒業制作で自らの家族が出演した再現ドラマを作ったそうだ。

それは、小田監督が家族に同性愛者だとカミングアウトしたときの様子を家族本人が自ら演じるというものだった。

「アメリカの大学に在学中、夏休みに帰省して家族にゲイだとカミングアウトした時の反応が好ましくなかったんです。かなり傷つきましたし、家族も困ったと思います。

でも、これがなかったことにされてしまう予感があったので、本人たちが出演する形で、自分がゲイだとカミングアウトする映画を作ることにしたんです。

その話を家族に持ち掛けた時、向こうも気にしていたのか、受け入れてくれたんです。その再現シーンで、両親が私にそういうのは気持ち悪いだとか、受け入れられないとか言うシーンを何度かリテイクして言ってもらったんですけど、そのプロセスは家族を随分傷つけたと思います。

その時、私はカメラを武器として使ってしまっていたんです」

©︎ Oda kaori
映画『セノーテ』

この体験で小田監督はカメラの暴力性に気が付き、そのことが「自分の映画製作の核」になっていると言う。

「常に私もジャッジされているんだと思いました。他人にジャッジされるというより、自分の撮った映像にジャッジされるというか、ちょっとでも超えてはいけない一線を越えたら、それは映像にはっきり現れるんです。これはフィクションでもドキュメンタリーでも同じことだと思います。

ただ、その時以来何かが変わったのは事実で、カメラの持つコミュニケーションの力の大きさも実感しました。カメラに暴力性があるというよりも、それは自分自身の中にあってカメラがそれをさらけ出してしまうんだと思います。ですので、それをきちんとコントロールする意識を常に持ってカメラを回すようにしています」

そんな小田監督の「カメラを向けること」への真摯な姿勢は、情報発信・表現行為に携わるあらゆる人々にとって大切にすべきものではないだろうか。

そんな姿勢で作られたこの映画は、安易なわかりやすさを選ばずに世界の不思議さと複雑さを照らし出し、わからないものに触れる喜びを教えてくれるだろう。

(取材・文:杉本穂高/編集:毛谷村真木