焦げた遺品に見た父の優しさ「伝えたいこと、いっぱいあったはず」【日航ジャンボ機墜落事故36年】

5歳の頃、出張帰りだった父謙二さんを墜落事故で亡くした山本昌由さん。ある出来事がきっかけで、事故を次の世代へと伝える活動を始めた。
(右から)山本昌由さん、父謙二さん、弟康正さん
(右から)山本昌由さん、父謙二さん、弟康正さん
山本昌由さん提供

36年前、父との「お別れ会」の会場。当時5歳の山本昌由(まさよし)さんは、父の遺品のカバンを見つけた。状態は悪かった。

カバンには、焼け焦げた餅菓子のようなものがこびりついていた。

「あの日も、いつものように家族にお土産を買って帰ってきてくれていました」

520人が犠牲になり、単独機としては航空史上最悪の事故となった「日本航空ジャンボ機墜落事故」から、8月12日で36年になる。遺族たちの高齢化が進み、若い世代では事故そのものを知らないことも珍しくない。

事故で父謙二さんを亡くした昌由さん=東京都=は、10年ほど前のある出来事をきっかけに、墜落現場周辺の様子を撮影し、次の世代に伝える活動を続けている。

(※この記事には、墜落現場の写真が含まれます)

優しい表情、記憶に

大阪の化学会社の役員だった謙二さん。出張が多かったこともあり、昌由さんには父と過ごした記憶が少ない。

ただ、週末になると昌由さんと姉、弟のきょうだい3人を職場に連れて行っては、ジュースを飲ませてくれた。

「声は覚えていませんが、後ろ姿と優しい表情は記憶に残っています」

謙二さんは出張のたびに、土産の菓子を持ち帰ってくれたという。

墜落事故の3カ月前に撮影した家族写真。右が昌由さん、右から2番目が父謙二さん
墜落事故の3カ月前に撮影した家族写真。右が昌由さん、右から2番目が父謙二さん
山本昌由さん提供

1985年8月12日午後6時56分。

東京・羽田空港から大阪・伊丹空港に向かっていた日本航空123便が、群馬県多野郡上野村の山中(通称・御巣鷹の尾根)に墜落した。

幼児12人を含む乗客乗員520人が犠牲になり、謙二さんも命を落とした。49歳だった。

幼かった昌由さんには、父が突然いなくなったことも、母が葬式で涙を流す理由も、飲み込めなかった。

家族で毎年、墜落地点への慰霊登山をするうちに、父が墜落事故の犠牲になった現実を少しずつ理解するようになる。

母は山に登るとき、「お父さん、ここに眠ってるんだよ」と昌由さんたちに語りかけた。

就職で上京してからもほぼ毎年、母たち家族と一緒に御巣鷹を訪れた。昌由さんにとって、「父に会いに行く」感覚だったという。

墜落事故はなぜ起きたのか。

日本航空ジャンボ機の御巣鷹山墜落事故現場(群馬・多野郡上野村御巣鷹山)=1985年8月15日撮影
日本航空ジャンボ機の御巣鷹山墜落事故現場(群馬・多野郡上野村御巣鷹山)=1985年8月15日撮影
時事通信社

墜落した機体は、事故の7年前の1978年6月2日、伊丹空港に着陸する際に胴体尾部を滑走路に打ち付ける「尻もち事故」を起こしていた。

当時の運輸省航空事故調査委員会は、調査報告書の中で、1978年の事故後に不適切な修理が行われたこと、疲労亀裂が点検整備でも発見されなかったことが1985年の事故原因に関与しているとみられると結論づけた。

「なんで登るのか」 募った危機感

遺族たちでつくる団体「8・12連絡会」があることを知っていたが、昌由さんは長い間活動に関わってこなかった。

「母に事故を思い出させ、悲しませてしまうのではないか」という迷いがあったからだ。

転機は10年ほど前。職場の若い後輩が口にしたひと言だった。

日航ジャンボ機墜落事故を振り返るニュースが流れたとき、山本さんも慰霊登山を続けていることを伝えると、その後輩はこう返した。

「なんで登るのか、よく分からない」

事故によって520人の命が突然奪われ、家族を失った多くの人たちが苦しんだこと。事故を伝えていかなければ、いつか同じ被害が繰り返されてしまうのではないか――。

慰霊登山をする山本昌由さん
慰霊登山をする山本昌由さん
本人提供

危機感を抱いた昌由さんは、連絡会に参加し、会のホームページ作成を担当するようになった。

その後、Googleの社員だった弟康正さんの提案で、昌由さんは墜落現場までの登山道を撮影してストリートビューとして公開した

撮影は2013年と19年の2回行い、再生回数は30万回を超える。

「こんなにたくさんの墓標があることにびっくりしたという声や、二度と同じ事故が起きないことを願っているという感想ももらいました。事故を知らない若い世代の気づきになり、風化を防ぐことになればと願っています」

高齢になり、慰霊登山がかなわなくなった遺族たちに現地の様子を見てもらいたいとの思いもあるという。

ストリートビューのほか、昌由さんは連絡会の活動として事故を伝えるため、大切な人を墜落事故で失った家族らを描いた漫画も公開している

日航機墜落事故の後の家族たちを描いた漫画の一場面
日航機墜落事故の後の家族たちを描いた漫画の一場面
8・12連絡会

親になって湧いた思い

4年前、昌由さんに、かつての謙二さんともう一度「出会う」出来事があった。

謙二さんの部下だった人が、結婚式で祝いの言葉を述べる謙二さんの映像を見つけたと連絡をくれた。謙二さんの動画は、実家など手元に一つも残っていなかった。

1分ほどの映像から流れた父の声。家族からは、昌由さんの声にそっくりだと言われたという。

昌由さんの長女は6歳になり、謙二さんが亡くなった当時の昌由さんの年齢を超えた。長男は今年2歳になる。

「子どもの勉強を見て、アドバイスするようになって気づきました。子どもたちに教えたいこと、伝えたいことが、きっと父にもいっぱいあったんだろうなと」

群馬県上野村の施設「慰霊の園」で毎年行われる追悼慰霊式は、新型コロナウイルスの感染拡大の影響で、2020年と同様に規模を縮小して行われる

新型コロナの影響が収まったら、昌由さんは成長した子どもたちと一緒に御巣鷹を訪ね、家族で謙二さんに再び会いに行くつもりだ。

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