「どこ出身?」「地震、平気だった?」3.11で親を失った女性が抱えたのは「わかりやすい悲しみ」だけではない【東日本大震災12年】

東日本大震災から12年。父を津波にのまれた女性が抱えてきたのは、「家族を失ってつらい」といった「わかりやすい苦しみ」ばかりではありませんでした。
津波で流された乗用車やがれきが散乱する小学校校庭(宮城県・東松島市野蒜、2011年3月13日)
津波で流された乗用車やがれきが散乱する小学校校庭(宮城県・東松島市野蒜、2011年3月13日)
時事通信社

「私には苦手な言葉があるんです。それは学校や職場、取引先で新しい人と少し距離が縮まった時に必ずされる『どこ出身なの?』という質問。最終的に『福島県です』と答えると、だいたいは『地震、平気だった?』と聞かれます。津波に父親をのまれた私は、なんと答えれば良いのでしょうか」

東日本大震災から、3月11日で12年。あの日から父親が行方不明だという東京都の会社員・亜沙美さん=仮名=が抱えてきたのは、大切な人を失った悲しみだけではなかった。

「家族を失ってつらい」といった「わかりやすい苦しみ」ばかりが社会に周知されてきた中で、その他にも知ってほしいこととはーー。

※記事中には被害の描写が含まれています。フラッシュバックなどの心配がある方は注意してご覧ください

◆ 父親が津波にのまれ、今も行方不明

現在も警察官による行方不明者の捜索が行われている=2023年3月10日午前、宮城県南三陸町
現在も警察官による行方不明者の捜索が行われている=2023年3月10日午前、宮城県南三陸町
時事通信社

福島県出身の亜沙美さん。小学生の時に母を病気で亡くしたこと、医療従事者として働く両親に憧れたことから、中学2年生の時に医療関係の仕事に就くと決めた。仕事で忙しい中、1人で育ててくれた父親には強く感謝している。「お母さんがいなくても大丈夫だよ」と安心してほしくて、勉強だけでなく得意のバスケットボールやピアノでも努力を重ねてきたつもりだ。

2011年春、高校を卒業し関東地方の志望大学に合格した。受験勉強からの開放感。春からの大学生活に思いを膨らませ、ワクワクした気持ちで春休みを過ごしていた。

3月11日。その日は卒業旅行として東京を訪れ、いとこと観光を楽しんでいた。午後3時前、大きな揺れで立ちすくんだ。街の中にある大きな液晶画面には、大きな津波が地元を飲み込むというショッキングな映像が映っていた。

「お父さん…お父さん…」すぐさま父親に電話をかけたが、つながることはなかった。

電車は止まっていた。放心状態のまま5時間歩いて、いとこの家に帰った。後日、父が津波にのまれたという目撃情報と、その日から行方不明であることを告げられた。

正直、当時のことはあまり記憶にない。だが叔母といとこが、泣いている自分を抱きしめてくれたことだけは、鮮明に覚えている。

◆「どこ出身なの?」が、トラウマを呼び起こす

春からは、いとこの家から大学に通うことが決まった。亜沙美さんは「経済的な面も含めて、親戚には本当によくしてもらいました。支えてくれる人がいたという点では、恵まれていたと思います」と振り返る。

1人でいる時は泣き腫らす日々が続いたが、親族の前や大学ではできる限り「普通」でいるよう心掛けた。大学では早い段階で、新しい友人にも父のことを話した。変に触ふれられて、傷つきたくなかったからだ。

「狭い人間関係の中で、周囲に『壁』を作ることで、自分を保っていたんだと思います」

だが大学2年になり、親戚の負担を減らしたくて始めた、カフェのバイトの飲み会。ついに踏み込まれる時が来てしまった。先輩に「どこ出身なの?」と聞かれ、「福島です」と答えた。

「地震、平気だった?」

そう問われた瞬間、これまで脳の片隅に追いやっていた記憶が、ダムが決壊したかの如く、押し寄せてきた。気持ち悪くなり、その日はそのまま帰宅した。

後に医者から、トラウマやストレスによって引き起こされる記憶喪失「解離性健忘」があると診断された。自分を防衛するために、大きなトラウマとなった記憶の多くを失くしているという。

その日から、初めての人と話すのが怖いと思うようになった。自分のトラウマに、いつどんな形で触れられてしまうかわからないからだ。「出身はどこ?」という質問はごく普通の雑談で、相手に悪気がないとわかる。だからこそ、ただただつらかった。

◆人それぞれ「普通」は違う。踏み込まないことも大切

その苦しみは、12年経った今も続く。社会人になっても、部署が変わるたび、取引先と挨拶するたび、当たり前のように「どこ出身なの?」と聞かれ続けてきた。

良くも悪くも段々と慣れてきて、「東北です」と濁す”余裕”は出てきた。それでも、「東北のどこ?」と続けて聞かれることも多い。そして最後には「地震、平気だった?」のトリプルコンボだ。その度に「なんて答えれば良いんだろう…」と自問自答するが、今も答えは出ない。

「『平気じゃなかったです。父が津波にのみ込まれて、今も行方不明なんです』って言って大丈夫なんですか?」と心の中で叫びながら噛み締め、疲弊し続けている。

「こんな重い話、初対面でできるわけないですよ。それに、私も大切な人にだけ話したい」

「出身地を聞くのがおかしいと思っているわけではありません。ただ想像力を働かせて、濁されたらせめて、深入りしないでほしいなと思います。人それぞれ『普通』は違っていて、どこで傷つくかも人によって違うからです」

◆「わかりにくい苦しみ」も伝えてほしい

亜沙美さんは、東日本大震災から11年が経った2022年に初めて、被災者として取材を受けた。それまで見てきた報道への疑問がきっかけだったという。

「言葉が正しいかは分からないのですが、『家族を失ってつらい』といった、過去の『わかりやすい苦しみ』ばかりが報じられているように感じてきました。ですが私のように、『少しわかりにくい苦しみ』を今、抱えている人もたくさんいると思うんです」

またメディアが可視化する5年や10年といった「節目」以外の年では、報道が減ってきたように感じたことも大きい。

「私たちは現在進行形で、いろんなことを感じています。それをもっと知ってもらいたい。昔に何があったかだけでなく、被災者が今、どんな思いをしているのか知ってほしい。そうすることで、例えば踏み込みすぎないとか、お互いが生きやすくなるような気遣いが生まれると思っています」

「あれから12年。当時とは比べ物にならないくらい、多様性の時代が進んできました。災害報道も、もっと多様化することを願っています」

※2022年3月の記事を再取材、加筆・修正した上で掲載しました。

<取材・文=佐藤雄(@takeruc10)/ハフポスト日本版>

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