「AI」と人類の未来はどうなるのか(上) 『ダ・ヴィンチ・コード』作者ダン・ブラウン初来日講演--フォーサイト編集部

5月28日に記者会見、翌29日にはファン向けの講演会を開催した。

全世界で7000万部、日本だけでも単行本・文庫合わせて累計1000万部の大ベストセラーとなった『ダ・ヴィンチ・コード』(2004年、角川書店)の作者ダン・ブラウン氏が来日した。あれほどの大ベストセラー作家、意外にも、今回が公式には初来日だという。日本では2月に発売された最新作『オリジン』(KADOKAWA)刊行記念として、5月28日に記者会見、翌29日にはファン向けの講演会を開催した。

大ヒット作でお馴染みのハーヴァード大学宗教象徴学教授ロバート・ラングドンが活躍するシリーズ5作目となる本作では、宗教とAI(人工知能)との関係がテーマ。作品の読みどころや解説はもちろん、自らの子供時代まで振り返り、どういう環境で育ったのか、それが今日の数々の小説にどう影響しているのか、そして宗教とAIはどういう相関関係にあるのか、両存できるのか、AIは宗教を凌駕するのか、そして我々人類はどこから来て、どこへ向かうのか――。

時にユーモアをちりばめながら縦横無尽に語りつくしたダン・ブラウン氏の講演を、主催した角川文化振興財団の協力により、2回に分けて要約してお伝えする。

母のナンバープレートは「神」

こんばんは。ここに来ることができて本当に嬉しく思います。実はまだ学生だった1983年に1度、日本に来たことがあります。その時は聖歌隊の一員としてでしたが、東京、京都、そして広島でコンサートをやりました。東京でも盛大なコンサートをやったのですが、その時にある有名な力士のためにハッピーバースデーを歌ったのです。そうです、高見山関です。本当にまた来ることができて嬉しく思っております。皆さん、集まってくださってありがとうございます。

5歳の頃、私の人生初の著書の制作を母が手伝ってくれました。私が母に物語を喋り、それを彼女が書き起こし、私が挿絵を描いて、1冊だけ作ったのです。彼女は2枚の段ボールで表紙と裏表紙を作り、赤い糸で縫い付けてくれました。これ、今でもまだ持っているんです。5歳の時の、まさにこれこそが私の正真正銘の処女作ですね(笑)。皆さんにお見せしたくて、今日、持ってきました。

『キリン、豚、そして火のついたお尻』というタイトルです。日本語で聞いても、全く合理性のないタイトル、ばかばかしいタイトルと思ったかもしれないですが、5歳の私は最高のタイトルだと思いました(笑)。

スリラーです。ですから今夜は私のつまらない話よりも、この処女作の朗読会にしようと思っております。じゃあ、お読みしますよ! いやいや、冗談です(笑)。そんなことで皆さんを苦しめませんから。

母は敬虔なキリスト教徒でした。彼女は教会のオルガン奏者であり、聖歌隊の監督であり、そして自分がキリスト教徒であるということを決して隠そうとしなかった。子供の頃、サッカーの練習に、彼女が真っ赤なボルボのターボ付きワゴン車で送り迎えしてくれていたのですが、その車には奇妙なナンバープレートがついていました。「キリエ」という単語が書いてあるのです。「キリエ」とは、ギリシャ語で「神」を意味する単語です。これが母親の控え目な宣言だったんです。「私はキリスト教徒だ! 私は神を信じている!」と。

ということで、ナンバープレートも今晩、持ってきました。まあ、母親から盗んだんですが(笑)。今晩、皆さんにお見せしたかったのです。でっちあげだと思われないようにね。ということで、これが母親のナンバープレート、キリエです(笑)。

もちろんね、ギリシャ語で神を意味するナンバープレートつきの母親に育てられるということで、私の子供時代の社会生活に少なからず影響が及んだことは確かです。でも、素晴らしい女性でした。私にとって素晴らしいロールモデルで、もちろん敬虔なキリスト教徒ではあったんですけれども、心は常に広く開かれていて、他の人の意見にも耳を貸す人でした。

ピザを使って数学の講義

このように母から宗教的な影響を受けましたが、それと同時に父からの影響ももの凄かった。

彼は、国際的ベストセラーとなった数学の教科書を書いた人でした。彼の教科書は世界中に翻訳されているんです。日本語にも翻訳されています。だから皆さんが教科書を読んだことがある確率も極めて高いはずです。

子供の頃、そんな父から科学的な影響を多分に受けました。もちろん、父だって宗教についても触れていたけれど、宗教の問題を数学の方程式で解くといった宗教体験でした。ですから両極端に挟まれた子供時代でした。つまり、神を畏れる母と、熱狂的な数学者の父という家庭で育てられ、心身分裂を起こすような子供時代だったのです(笑)。

たとえば、夕食の時に神の恵みに対する感謝の祈りを母が唱えた後、父が、皿に添えられたミニ・ニンジンで円周曲線の講義をする。

ピザのレストランで外食する際も、我々子供をピザパイの周りに集める。ちなみにパイは円周率のπですがね(笑)。彼は数学者なんですから、そこでピザを指しながら角度とか直径とか円の面積とかを教えるんです、ピザを使って。本当に恥ずかしい思いをしました。

ピザレストランで列に並んでいると、父が買ったばかりの計算機、といっても一世代目の計算機だからこんなに大きくてボタンがあるやつ、当時で1000ドルくらいはしたんですが、それを使って彼は計算するんです。Lサイズ1個か、M サイズ2個か、あるいはSとMを1個ずつ買って残ったら冷凍するか、どれが最高の費用対効果かということを、電卓で計算する。もうなんと恥ずかしかったことか。これが、ベストセラーの『数学上級』という教科書を書いた人が家庭でやっていたことです(笑)。

ちなみに父のナンバープレートの文字は、これも持ってきたんですけど、これです。「メトリック」、つまりメーター法。父はメーター法に大賛成の人だったんです(笑)。

とにかく、育ち盛りの頃、サッカーの練習に父と母どちらが送り迎えしてくれるかによって、ナンバープレートが「神」か「メートル法」かになる。つまり友達に対して、「どうだ、カッコいいだろう! うちの両親は神と数学を愛しているんだ!」と宣言しているようなもの。ということは、要するに、子供の頃は友人の数がそう多くなかったということは想像に難くないと思います(笑)。

それでも、両親はお互いの信念を巡って夫婦喧嘩することはなく、深く尊敬し、愛し合っていました。だから私たち子供も、科学と宗教という逆説的な世界で生活するのに慣れることができたのです。

「良い子はその質問はしない」

でも、9歳くらいになると、この2つの世界観ってひょっとして矛盾しているのではないかと思い始めるようになりました。聖書によると、神は7日で天地を創造した。ところが学校にいくと、授業でビックバンを教わるわけです。聖書によると、神がアダムとイブ、生きとし生けるものを創ったと書かれているけれども、科学博物館に行くと化石の展示があるし、進化についての記述がある。

そこで神父に聞きました。「こういう矛盾ってどうやって解けばいいんですか?」と。いや、本当はもっと直截的に、「どっちの物語が本当なの?」と聞いたのです。神父の答えは、こう。「良い子はそんな質問は口にしないのだ」(笑)。それで子供の私は頭にきた。男の子ってね、やるなと言われたことは逆にやりたくなるわけです。私も例外ではなく、以後、そういう質問を頻繁に大声で聞くようになりました。

そうやっていくうちに、科学と宗教との関係という問題が、人生のテーマとして、著作のテーマとして醸成されていったわけです。

理解の隙間を埋める神

新作の『オリジン』は、本当に真っ向から、科学と宗教の、今まさに目前で起こっている戦いについて取り上げています。

物語では、聡明な未来学者が実にショッキングな、科学的な重大発見をします。それは世界の宗教の礎を粉々にするような脅威を内包している。そして我がヒーロー、ロバート・ラングドン教授は、このミステリーに巻き込まれてしまう――。

ラングドンという男は非常に運の悪い人間で、行くべきでないところに常にタイミング悪く行っちゃう(笑)。今回はスペイン中を必死で駆け巡りながら、我々の時代の最も知的で刺激的な問題を取り扱うわけです。それは、「神は科学の下で生き残れるか」という問題です。

歴史を振り返っても、科学に耐えることのできた神はいません。何千年も前、古代の人たちは、あらゆる神を活用することによって、自分たちが分からないことの説明をつけようとした。雷、稲妻、潮汐、地震、不妊、疫病、そして愛までも、それで説明をつけようとした。雷はトール(北欧神話の戦神)が怒って稲妻を投げたんだ。そして、潮の満ち引きはポセイドン(ギリシャ神話の海神)の気分の移り変わりによるものだ。疫病は執念深い神から贈られた罰である――と。

こういったような精神性は、「隙間の神」と言われています。つまり、自分を取り巻く世界において隙間があって、理解できないようなことがあると、その隙間を神で埋めるということを古代の人たちはしていたわけです。

しかしながら、時とともに科学の進歩によってそういった隙間がなくなっていきました。神々の神殿は小さくなっていったんです。たとえば、雷と稲妻についてはその仕組みが分かっているし、トールは過ぎ去った時代の愚かな神話として追い払われました。もはや潮の満ち引きはどうやって起きるのか、あるいは疫病がどうやって広がるかということを、神に頼ることなく科学が答えを出してくれています。

今、神に頼るのは、一掴みの問題、今までまだ科学が答えを出すことができていない一掴みの問題だけです。それは、我々はどこから来たのか、なぜここにいるのか、そして死んだらどうなるのか――。

こういった問題を提起する際に、古代の先祖たちと同様に、いまだに我々は隙間の神を崇拝する。そして理解の隙間を宗教と神で埋めてもらおうとするわけです。

ペトリ皿で生命が誕生

今は、存続に関わる大きな問題以外は、世界を見る時に宗教ではなく科学という眼鏡で見ます。

たとえば地震です。最も敬虔な信者であったとしても、これは地質学的現象だと見る。地殻運動による圧力の放出だと。怒りに満ちた神による罰と見る人はほとんどいなくなっているでしょう。

初期のキリスト教義は、神が天地の中心に人間を置いたと教えました。でもコペルニクスとガリレオは、神が人間を宇宙、天地の中心に置かなかったどころか、我々が住む太陽系の中心にすら置いてくれなかったということを立証した。

アダムとイブに関する聖書の記述についても、同じようなことが言えます。一言一句読むと、完全な形の2人の人間として神が創ったとある。そのあと生殖によって人類全体ができた。こんなに様々な民族も、その2人から生まれた。しかも、同種内交配による遺伝子問題が一切起きていないことになっているんです。今そういったアダムとイブの物語は、やはり進化論の下ではその試練に耐えられない。美しい物語、道徳的寓話、どこから来たかということを理解する追求の一環としては読めるけれども、科学によって事実としては認められないわけです。たとえ事実と認めたかったとしても。

ですので、こういったような歴史的なトレンド、科学が宗教上の宣言を侵食してきたというプロセスを見ると、神秘性が取り除かれる、宗教性がなくされるというこの過程が将来、未来永劫続くのかということを考えてしまうわけです。

ある日、生物学者が、コンピューター科学、遺伝子学、生物科学の進歩によって、さまざまな物質をシャーレ(微生物の培養実験で用いられるガラス皿)で調合して突然、生命が誕生するのではないか。

そうすると、システィーナ礼拝堂にある、神がアダムに生命を吹き込む図が、ギリシャ神話のミネルヴァ(アテナ)がジュピター(ゼウス)の頭から出てくるローマ時代の図のような、とても陳腐化したものに見えてしまうのではないか――。

死んだらどうなるのか......

ただ、最も宗教に懐疑的な人間ですら、こればっかりは神に門戸を開放したくなるような、あれわれの存在に関わる重大な問題が1つだけあります。先ほども少しだけ言いかけましたが、本当にわずかな隙間ですけれども、それは、人間は死んだらどうなるのか、という設問です。

科学によると、死によって我々の希望も夢も記憶も分解して空気中に蒸発するということになっています。でも、あらゆる宗教は、死の瞬間以降、何か別のものがあるということを約束しています。私自身も、それを本当に信じたいです。とりわけ、愛する人を失った人は信じたいでしょう。

将来、医学が進んで、「一時的な死」というものができるようになるかもしれません。ある程度、死の状態が進んだあと、復活する。そうすれば来世についての知識が得られているかもしれませんし、あるいは来世なんてないというような情報が提供されるかもしれません。そんなことがあってはならないけれども。

でも、来世があるとしたならば、キリスト教徒、イスラム教徒、ヒンズー教徒、ユダヤ教徒が、同じ来世を経験するのでしょうか。同じ経験しかしないのならば、なんでそれぞれの宗教ごとに来世について説明が違うのでしょうか。(つづく)

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(2018年6月22日
より転載)

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