オバマケア改廃案「下院通過」の衝撃(上)米国だけで激増する「絶望の死」--大西睦子

トランプ政権の政策で「絶望の死」を克服することができるのでしょうか。

2015年にノーベル経済学賞を受賞したプリンストン大学経済学部アンガス・デイトン教授と、妻である同学部アン・ケース教授による、同年に発表された「米国科学アカデミー紀要」(PNAS)の論文は、世界中に大きな衝撃を与えました。

報告では、「1999年~2013年の間、米国の白人中年(45~54歳)の 死亡率が増え続けている」、「原因は、薬物、アルコール、自殺による絶望の死である」という事実が指摘されました。

デイトン、ケース両教授は、PNASの報告後も、この問題が起きている地域や原因を追究するために、さらに調査を続けました。そして、説得力のある結論に達し、結果を2017年3月23日、世界で最も権威あるシンクタンク「ブルッキングス研究所」の報告にまとめました。

折しも5月4日、共和党指導部によるオバマケア(医療保険制度改革法)の廃止を求める改廃案「米医療保険法案(American Health Care Act=AHCA)」が米下院を通過しました。オバマケアの廃止はトランプ大統領の公約中の公約であるにもかかわらず、3月24日にはいったん、賛成票のメドがつかずに下院での採決直前に取り下げられていました。

当時は「早くも敗北」とセンセーショナルに報じられただけに、今回、これほど早い下院通過には驚きの声も少なくありません。と同時に、不安の声も。

果たして上院審議はどうなるのでしょう。法案の行方は、すなわち米国人の命と健康の問題に直結します。

こうした状況を踏まえ、デイトン。ケース両教授の2つの論文における発見や考察をご紹介し、トランプ政権によって、この問題が今後どのような展開を迎えることになるのか考えたいと思います。

全米に広がる「絶望の死」

「絶望の死」は、 2000年頃は米南西部に集中していましたが、その後、2000年代半ばまでに、アパラチア、フロリダや西海岸に広がり、今日では、農村部から大都市に至るほぼ全米に深刻な影響を及ぼしています。

最も深刻な地域は東南中央部(アラバマ州、ケンタッキー州、テネシー州、ミシシッピ州)で、1999~2015年の間に、白人中年(50~54歳)の死亡率は平均1.6%上昇し、死亡者は10万人あたり552人から720人に増加しました。

また、1935年~1975年まで、5年ごとに出生年別グループでの「絶望の死」を見ると、年代が上がるごとにその割合が高まっています。そして各グループで、加齢に伴い「絶望の死」は悪化しています。

なぜ、このような深刻な状況が広がっているのでしょうか。

教育レベルで分裂した「2つのアメリカ」

「絶望の死」は、とりわけ高等学校以下の学歴しかない白人米国人を襲っています。PNASの報告では、「すべての原因による死亡」を(1)高校教育まで(2)大学教育あり(学士取得なし)(3)大学教育あり(学士取得あり)、の3つのグループで比較すると、(1)のグループでは、1999年から2013年の間に10万人あたり134人増加しました。

これに対して(2)のグループは同期間に増減がほぼなく、(3)のグループでは、10万人あたり57人減少していました。つまり、死亡率の格差は、教育の格差によってますます広がっているのです。

ケース教授は、米ニュース解説メディア『Vox』と、米ラジオネットワーク『ナショナル・パブリック・ラジオ(NPR)』のインタビューで、こう解説しています。

「2つのアメリカがあるようです。1つは、大学に行った人のアメリカ、そしてもう1つは、そうでなかった人のアメリカです」「自殺率は、男性が女性よりもはるかに高まりました。そして、薬物過剰摂取、およびアルコール関連の肝臓病による死亡率も男性の方が高い。

ただし死亡率の高さは、高校までの教育しか受けていない男女に同じ傾向を認めます。私たちは、銃による短時間の死も、薬物やアルコールによる時間をかけた死も、どちらも同種の自殺と考えています」

またデイトン教授は、同じく『NPR』のインタビューでこう警鐘を鳴らしています。

「これは長い間米国で続いている問題の、氷山の一角に過ぎないと考えています。私たちは、これを白人労働者階級の衰退の一部と捉えています。1970年代初めは、ブルーカラーという特殊な階級がありました。それらの仕事はゆっくりと崩壊し、より多くの男性が、低賃金で質の悪い、非正規雇用という悪条件の労働市場で働くことを余儀なくされるようになりました。そのため、彼らは結婚することが難しくなり、自分の子供をもつこともできません。時間が経過するほどに、社会の機能不全が高まっています。そして、本来であれば得られていたであろう地位や財産を失ってしまった、という感覚だけが強まっていったのです。これは典型的な自殺の前触れです」

白人だけに増える「絶望の死」

一方、両教授の研究によれば、同じく1999年から2015年の間、「すべての原因による死亡率」は、ヒスパニックは年間1.9%、黒人は2.7%ずつ低下していました。

米国では、もともと黒人の死亡率は白人よりも高めですが、1999年に、中年の黒人の死亡率は白人のそれより2.09倍だったところ、2013年には1.4倍まで低下したのです。しかも、50~54歳の「すべての原因による死亡率」を見ると、1999年には高校までの教育しか受けていない白人は、黒人より約30%低かった(10万人あたり白人722人に対し、黒人945人)のが、2015年には完全に逆転し、黒人より30%も高まって(10万人あたり白人927人に対し、黒人703人)いることも判明したのです。

こうした米国の白人中年の「絶望の死」急増の原因としては、まず所得の低下が考えられるかもしれません。ただし、白人の平均所得は、今でもヒスパニックや黒人より高いので、所得だけではすべての説明がつきません

この状態を説明するのに、両教授らは、歴史家であるエモリー大学キャロル・アンダーソン教授のこんな分析を紹介しています。

「もしあなたが何らかの特権を持っていて、それを『平等』『公平』という名のもとに抑制されるとしたら、おそらく『平等』は『抑圧』だと感じ始めるでしょう。

しかし、白人のそうした悲観主義と比べると、黒人にとっては何世紀にもわたって『平等』は『希望』を意味してきたのです。データはありませんが、『希望』というキーワードは、黒人の自殺率がはるかに低いことと通じていると考えられます。また、黒人とヒスパニック系は、経済状況が悪化したとしても、もともと白人ほどには期待が持てない境遇であった可能性があります。

その意味で対照的に、教育レベルが低かったことで高い技能を持てなかった白人ほど、人生に失望を感じ、「絶望の死」を選択するのかもしれません」

「絶望の死」は克服できるか

PNASに発表されたデイトン、ケース両教授の研究によると、1978年~1998年まで、中年の白人米国人の「すべての原因による死亡率」は、他の先進国(仏、独、英、カナダ、オーストラリア、スウェーデン)とほぼ同様に、年に平均2%ずつ低下していました。

ところが、1998年以降は、他の先進国では従来同様年に約2%ずつ死亡率が低下し続けているのに、米国だけは逆に0.5%ずつ上昇しています。

また2016年、オランダのロッテルダム大学公衆衛生学研究所のジョアン・マッケンバック所長らが、『イギリス医師会雑誌(BMJ)』に論文を発表しました。それによると、1990年から2010年における、ヨーロッパの11カ国(または地域)におけるデータを調査したところ、ほとんどの国で、死亡率はすべての教育水準グループで低下していました。

とりわけ注目すべきは、高校以下の最も教育を受けていない人たちの死亡率が、実は最も急速に低下しているということです。これはすなわち、少なくとも欧米世界では、なぜか米国だけで「絶望の死」が増加しているということになるのです。

こうした研究を受け、英誌『エコノミスト』は、「絶望の死」の根底的な原因は、米国のセイフティネット、特に健康保険制度の欠如であると指摘しています。

さらにデイトン教授らは、この状況を克服するためには、政策の問題として取り組む必要があると主張しています。では、トランプ政権の政策で「絶望の死」を克服することができるのでしょうか。(つづく)

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大西睦子

内科医師、米国マサチューセッツ州ケンブリッジ在住、医学博士。1970年、愛知県生まれ。東京女子医科大学卒業後、同血液内科入局。国立がんセンター、東京大学医学部附属病院血液・腫瘍内科にて造血幹細胞移植の臨床研究に従事。2007年4月からボストンのダナ・ファーバー癌研究所に留学し、ライフスタイルや食生活と病気の発生を疫学的に研究。2008年4月から2013年12月末まで、ハーバード大学で、肥満や老化などに関する研究に従事。ハーバード大学学部長賞を2度受賞。現在、星槎グループ医療・教育未来創生研究所ボストン支部の研究員として、日米共同研究を進めている。著書に『カロリーゼロにだまされるな――本当は怖い人工甘味料の裏側』(ダイヤモンド社)。『「カロリーゼロ」はかえって太る!』(講談社+α新書)。『健康でいたければ「それ」は食べるな』(朝日新聞出版)などがある。

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(2017年5月15日フォーサイトより転載)

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