2月1日から始まる米民主・共和両党の大統領選挙予備選。日本メディアは今もトランプ旋風に目を向けるが、両党を通じて最も強力な候補者は、ヒラリー・クリントン前国務長官(68)だ。
しかし、国務長官在任中に公務で私用メールアドレスを使って公務のメールを交わしていた問題がクリアされたわけではない。
国務省は、予備選に入る直前の1月末までに、約3万通に上る公務メールをすべて公開する予定。昨年末までに2万4436通が公開されたが、AP通信によると、このうち1274通が機密情報と分類されたという。
だが、機密に指定され、法律上も問題があると判断されたメールの存在が明らかにされたわけではない。外交誌フォーリン・ポリシー電子版が伝えた10通足らずのメールの内容は、「ラジオで閣議があると聞いたが、私は行けるか」「10:15に会議場所に着いたが、会議はやっていない」「私用のリンゴはどうやって買うの?」など他愛のないものが大半。一体、問題の本質はどこにあるのか。陰謀論も渦巻く中、事件の周辺を追った。
「グッチファー」の奇妙な事件
メール問題が表面化するきっかけは2013年、ジャーナリスト、シドニー・ブルメンソール氏(67)がクリントン前長官に送付したメールがハッキング被害を受けて、公表されたことに遡る。
そもそも、そのこと自体が、非常に奇妙な出来事だった。メールの日付は2011年10月15日で、リビアの独裁者カダフィ大佐が殺害された5日前のこと。当時クリントン国務長官の私的アドバイザーをしていたブルメンソール氏が、すっぱ抜きで有名なセイモア・ハーシュ氏が得た情報として「カダフィはチャドにいて、終わりなき戦闘を展開する意図だ」とのメールを長官個人用のアドレスに送信していたというのだ。この情報はそもそも全くの間違いで、ハーシュ氏自身、なぜそんな見当違いの情報が伝わったのか分からないと証言している。
ブルメンソール氏はジャーナリストとしての力量よりもクリントン夫妻への忠誠心で知られた人物。1990年代にはクリントン元大統領の補佐官を務めたこともある。
2008年大統領選予備選では、オバマ氏に対する中傷攻撃の「地下情報」を流していたと伝えられる。このため、オバマ政権のホワイトハウスはクリントン前長官がブルメンソール氏を上級顧問に任命しようした際に強く反対、結局彼はクリントン財団に身を置いた経緯もある。
この事件のハッカーは、通称「グッチファー」(本名マルセル・レヘル・ラザール)と呼ばれるルーマニア人。彼はブッシュ家やパウエル元国務長官らのメール・アカウントもハッキングして懲役7年の罪で、現在ルーマニアの刑務所に収容されている。2014年当時、ニューヨーク・タイムズ紙記者がインタビューしたが、彼自身が得体の知れない人物のようだ。陰謀論に取り憑かれていると伝えられ、今もハッキングの動機は解明されていない。グッチファーはクリントン氏のメール・アカウントは攻撃していなかったようだ。
通常は立件されないケース
このハッカー事件は、米大使ら4人が死亡した2012年のリビア・ベンガジの米領事館襲撃事件で、共和党が政府の情報収集を批判し、クリントン氏を追及する調査中に表面化した。2015年3月2日、ニューヨーク・タイムズ紙が最初に報じた。
その中で、クリントン氏が米国務長官在任当時、公務に私用メールアドレスを使っていたことが判明した。自宅を登録先とするサーバーで@clintonemail.comのアカウントを管理し、その私用アドレスで機密情報を扱っていた。当局による文書管理外のことであり、情報管理への重大な懸念が問題化した。
しかし現実的には、こうした慣習は、閣僚級の米政府高官が往々にして行ってきた。アシュトン・カーター現国防長官やキャロライン・ケネディ駐日大使らの私用メール使用も表面化している。米中央情報局(CIA)の活動に詳しいワシントン・ポスト紙コラムニスト、デービッド・イグナシアス氏によると「技術的には違法だが、通常は立件されることはない」というのだ。
過去に、違法な機密情報管理を追及された元CIA長官には、クリントン元政権のジョン・ドイッチ氏とオバマ政権のデービッド・ペトレアス氏の2人がいる。ドイッチ氏は安全管理されていないCIAのコンピューターを自宅で使い、CIAの機密情報にアクセスしていた。ペトレアス氏は不倫関係に絡んで機密文書を違法な場所に管理していた。いずれも罪を認め、実質的に刑の執行は免れた。
オバマ・レガシーの正否
では、なぜクリントン氏がそれほど厳しい追及を受けてきたのか。1つには、彼女が大統領選をリードする最有力候補であること。もう1つは、自らの「レガシー(遺産)」を残すことに懸命なオバマ大統領にとって、クリントン氏が邪魔者になってきた、という隠された事情があった。
一時クリントン元政権のホワイトハウス顧問を務めたことがある政治アナリスト、ディック・モリス氏が2015年8月17日のNewsmaxテレビで爆弾発言をして一部で注目された。「バラク・オバマとミシェル・オバマ(夫人)、バレリー・ジャレット(上級顧問)の3人が仕掛けたこと」とクリントン選対陣営は受け止めているというのだ。
また同月19日付の保守系紙ワシントン・タイムズは「オバマはなぜヒラリー・クリントンを潜水艦攻撃するのか」という見出しのコラムでオバマ陰謀説を展開。「大統領は彼のレガシーを残す後継者を切望している」として陰謀論を示すいくつかの点を挙げた。
しかし、いずれも中小メディアの報道で、決定的な証拠などなく、日本にはまったく伝えられなかった。
ただ、クリントン氏が大統領選の準備を加速し、オバマ批判を明確にするに伴って、メール問題が深刻化していった経緯は否定できない。クリントン氏は今や、環太平洋経済連携協定(TPP)にも反対を表明し、シリア内戦ではよりタカ派的な姿勢を示している。
また大統領とクリントン氏の間で、根本的な違いも表面化した。アーネスト米大統領報道官によると、オバマ大統領はクリントン氏のメールアドレスの詳細については、「報道で初めて具体的に理解した」という。これに対して、クリントン氏は「それはまったく公明正大なことだった。私がメールした政府内の人はみんな、私が私用メールを使っていることを知っていた」と火花を散らしている。だが、オバマ政権はクリントン氏をかばうような発言をまったくしないのだ。
民主党内で何か仕掛けが?
オバマ氏がバイデン副大統領を自らの後継者として期待していたのは明らかだ。しかし昨年10月21日、バイデン氏は大統領選出馬断念を発表。その記者会見に、異例にも大統領が同席、バイデン氏は「オバマのレガシー(遺産)を台無しにするようなことは悲劇的な過ちだ」とクリントン氏に苦言を呈した。
トランプ旋風ばかりに関心が行く大統領選だが、オバマ政権とクリントン陣営の対立も選挙戦の行方に重大な影響を与える。
昨年10月22日、ベンガジ問題をめぐる下院特別委員会の公聴会でクリントン氏は政治家としての実力を発揮した。事件への対応をめぐる共和党側の追及は計11時間に及んだが、クリントン氏は一切揺らぐこともなく、疲れも見せないで大統領としてのタフな資質と能力を示す形となり、支持率は大幅に回復した。
しかし、予備選から本選へと選挙戦が激化する中で、メール問題が再燃する可能性は十分ある。
そもそも、米大統領選は陰謀話で満ちている。1972年の選挙戦のさなかに始まったウォーターゲート事件は、元CIA工作員も絡んだ民主党本部事務所侵入事件をきっかけに表面化した。カーター×レーガン対決では、カーター陣営のテレビ討論用ブリーフィングブックが盗まれ、レーガン陣営に流出する事件もあった。民主党内でどんな仕掛けがあり得るのか、注目される。
春名幹男
1946年京都市生れ。大阪外国語大学(現大阪大学)ドイツ語学科卒業。共同通信社に入社し、大阪社会部、本社外信部、ニューヨーク支局、ワシントン支局を経て93年ワシントン支局長。2004年特別編集委員。07年退社。名古屋大学大学院教授を経て、現在、早稲田大学客員教授。95年ボーン・上田記念国際記者賞、04年日本記者クラブ賞受賞。著書に『核地政学入門』(日刊工業新聞社)、『ヒバクシャ・イン・USA』(岩波新書)、『スクリュー音が消えた』(新潮社)、『秘密のファイル』(新潮文庫)、『スパイはなんでも知っている』(新潮社)などがある。
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(2015年1月20日フォーサイトより転載)