トランプは17日間の夏期休暇を取るため8月5日、ニュージャージー州ベッドミンスターにある自己所有のゴルフ場へ向かった。その途端、北朝鮮が核弾頭の小型化に成功し、「60発」の核兵器を保有、一部はICBM(大陸間弾道ミサイル)に搭載可能であるという米国防情報局(DIA)の報告を受け取り、苛立ちながら、ついにこう発言した。
「北朝鮮が米国への脅しをやめなければ、世界がまだ目にしたこともないような"炎と怒り"に直面するだろう」
北朝鮮への核攻撃がもう迫っているぞという威嚇である。北朝鮮は数時間後に、国営メディアを通じてグアムへのミサイル発射を検討していると応酬した。ミサイルは4発、コースは島根、広島、高知の上空を通過。この計画を8月中旬までに完成させ、金正恩(キム・ジョンウン)の命令を待つというのである。
長崎に原爆が投下された9日に交わされた、トランプと金正恩の威嚇合戦である。ともに幼児的発想のままで、世界の運命を握っている責任など考えているのか、大いに疑問である。
これまでに新大統領は、北朝鮮の威嚇をうまくかわす外交術も知識もないまま、失敗を繰り返してきた。夏期休暇に出る前、選挙公約の大柱だった「オバマケア撤廃」でも大敗した。大統領に立ち向かったのは2人の共和党女性議員である。共和党の男性全員を敵にまわし、彼らのいやがらせや脅迫にめげることなく、信念を貫いた2人の姿はあっぱれと声をあげたくなるほどだった。北朝鮮の脅威のもと、米国内では医療保険に関して、以下のような長い混迷と迷走が続いていたのである。
高額医療費で破産
ニューヨークに住むようになった33年前、米国には「国民健康保険」のように、誰もが入れる公的医療保険がないのに驚いた。わたしの仕事はまず、『ニューズウィーク』本社のなかに日本版の支局を立ち上げることだったので、アメリカ人スタッフ数名を雇うと、支局全員の民間保険が必要になった。いくらだったか正確な数字は覚えていないが、確か月額300 ドルくらいを支局とスタッフが折半で支払うことになった。企業が民間保険と契約する場合は被保険者の人数が多いことから、保険料が安くなる。しかし、自営業など個人で契約する場合には高額になるため、健康保険のない市民が結構多いという話だった。
そのうえ、アメリカの医療は日本などに比べてケタ違いに高額なので、保険のない人が思わぬ病気にかかり、入院、手術、治療などで高額の医療費が必要になると、マイホームを手放したり、破産に追い込まれるという話も珍しくなかった。
7年前、オバマ前大統領が「オバマケア」(医療制度改革法)を成立させたのは、6人に1人といわれる無保険者のそんな切実な思いに応えるためだった。1600万人が早速、申し込み、安堵の吐息をついた家庭がどれほどあったことだろうか。
我が家の場合
もっとも、米国には公的医療保険が全くないわけではない。高齢者用の「メディケア」と低所得者用の「メディケイド」は1965年、民主党のジョンソン政権のもとに制定されている。「メディケア」は主に65歳以上の高齢者を対象とした公的医療扶助制度であり、「メディケイド」は年収の少ない貧困層を助けるものである。
我が家の場合は夫婦とも65歳の齢に達し、「メディケア」に入ってから、医療費の負担が大幅に減って助かっている。
たとえば、風邪をひいてかかりつけの医者に診てもらうと、検査など入れて113.21ドルの請求がくる。このうち 78.7% に当たる 89.09ドルを「メディケア」が支払ってくれることになる。
あるいは、夫のピート・ハミルが皮膚科の医者の診察を受けると、診察料と検査で232.75 ドルの請求。このうち78.4%に当たる182.48ドルをメディケアが支払ってくれるので、こちらの負担は46.55ドルに抑えられる。
さらに、我が家の場合は、ピートが映画の脚本を書いていたためにハリウッドの脚本家協会(Writers' Guild)に属している。この組合が収入に応じて、民間医療保険と年金の積立をしてくれていた。
彼が4月11日から14日まで入院したときの3日間の明細を見ると、病室代が1万3200ドル、それに伴う補助代が2万1898.62ドル、合計3万5098.62ドルという高額の請求がくる。しかし、この病院と脚本家協会の民間保険が同じネットワークに入っているので、まずはそのネットワークが2万294.46ドルを積立から差し引きディスカウントしてくれる。そこで残高は1万4804.16ドルになり、その91.73%に当たる1万3579.86ドルをメディケアが支払い、残高を民間保険が引き受けることになる。こちらは最終的にほとんど何も払わずに済むので、どれほどありがたいことか。
歴史的な改革
メディケアの支払いは毎月、受け取る年金(ソーシャル・セキュリティー)からメディケア代金として134ドル、さらに前年の収入に応じた額が差し引かれる。
そもそもメディケアは、社会的弱者の救済や経済的格差の是正のためには政府が責任を持つべきだと考えるリベラル派が主導してきた。昨年の大統領選挙では、民主党予備選候補だったバーニー・サンダース上院議員が「市民すべてにメディケアを!」と呼びかけ、支持者から大喝采を浴びたものである。
もっとも、民主党も創設当初はメディケアを公的保険制度の改革モデルと考え、サンダースのようにこれが全市民に行き渡ることを目標としたが、1980年に入るとメディケア医療費が高騰、一方で連邦財政赤字が深刻になった。そのため共和党では、メディケアの大幅削減とプログラムの民営化を叫ぶ声が高まった。自分のことは政府に頼らず自己責任原則を貫けという主張である。
民主党内でもリベラルより穏健派が力をもつようになって、メディケアの民営化や市場競争原理の導入を推し進めようとする意見が強くなってきた。もちろん、民主党穏健派にしてみても、無保険者をなくし、市民すべてに医療保険が必要であることはわかっている。
こうやって2010年に生まれた「オバマケア」は、補助金などによって個人が保険を買えるように支援するもので、基本的に民間保険がベースになっているが、医療費を抑制し、医療の質を向上させることを目的にした歴史的な改革になった。さらに、低所得者用「メディケイド」を充実させることによって、無保険者を減らすことも目指した。
共和党全員を敵にまわし
共和党はオバマケアが始まってから7年間にわたり、「オバマケア撤廃」を公約にしてきた。昨年の大統領選でドナルド・トランプも撤廃を選挙公約の柱にして、ホワイトハウスに入りを果たした。
上院共和党は6月下旬、オバマケアに替わる代替案を発表。ミッチ・マコネル院内総務らが調整をすすめたが、米議会予算局によると、オバマケアを撤廃すれば、2026年までに3200万人が無保険になるという報告が発表された。同時に、連邦予算の赤字は4730億ドル減少する一方、保険料は2倍に増加するというのである。
これでは議会に提出された「オバマケア代替案」が市民の支持を得られるわけがない。どう考えても、「オバマケア」を骨抜きにした改悪案ではないか。
そのうえ、代替案は1000頁以上に及ぶ複雑に入り組んだ内容なので、上院議員全員がじっくり読んで、吟味し、理解していたとはとても思えない。まして、共和党議員をホワイトハウスに集めて撤廃の実現までは夏休みも取るなと檄を飛ばした大統領が、1頁でも目を通していたか、大いに疑問である。
この代替案には、メディケイドの大幅削減も含まれている。低所得者は病気になったら死ねと宣告しているに等しいではないか、とわたしは1人腹を立てながら審議を見守っていた。これが通過すれば、メディケアの大幅削減もそのうち始まるだろう。病人をかかえる市民の切実さがまったくわからないのか。
共和党は上下両院で過半数を占めている。議員数でいえば、「オバマケア撤廃」は共和党の上院議員全員が賛成票を投じれば、簡単に片付くはずだった。
ところが、共和党がそれだけ力を入れてきた撤廃のための代替法案は7月28日、米上院で採決に持ち込まれたが、否決されたのである。これによって同党の「オバマケア廃止」の取り組みは今回、完敗に終わった。
では何故、共和党は完敗したのか。党内から造反議員が出たからである。これが共和党全員を敵にまわして立ち上がった2人の女性議員である。
支えつづけた有権者たち
大統領に果敢に挑戦したのは、メイン州選出のスーザン・コリンズ議員とアラスカ州選出のリサ・マカウスキー議員だった。
コリンズは1997年から上院議員を20年務める64歳の超ベテラン議員。強い信念をもち、自分の正しいと思った法案では民主党の提出したものでも支持する超党派として知られる。地元では78%という高い支持率で、この数字は共和党上院議員の間でトップである。
昨年11月の大統領選では、いちはやく8月に「トランプは大統領にふさわしくない」と明言し、共和党候補のトランプに投票しなかった。
トランプが大統領に就任してからコリンズは、7カ国からの移民の一時的入国制限には反対したが、FBI長官ジェームズ・コミーの解任には賛成している。オバマケアの撤廃については基本的に賛成だが、納得のいく代替案なしに早急な撤廃を求めることに反対したのである。
リサ・マカウスキーは上院議員だった父フランク・マカウスキーの引退に伴い、2002年に上院議員になった。2010年の選挙では一時落選したものの返り咲き、3期目をつとめる60歳のベテラン。アラスカ州選出だけに銃規制には反対し、北極の国立野生生物保護地域での石油採掘に賛成する。一方で、同性婚などの社会問題ではリベラルな判断で知られる。
オバマケア撤廃についてはコリンズ議員同様、基本的に賛成であるものの、納得のいく代替案なしに反対した。
2人の女性議員に対する共和党内からの圧力にはすさまじいものがあった。
大統領は、オバマケアをまとめた民主党側につくのか、あるいは同法によって被害を受けた人々に寄り添うのかを考えるときだと叫び、「今こそ約束を守るチャンスだ」と声を高くした。
大統領はとくにマカウスキー議員に対して、アラスカの石油採掘・開発などに対する連邦政府の支援を滞らせるなどという脅迫まがいの発言をした。
総攻撃を受けながらも、マカウスキー議員は毅然と、
「私はアラスカ州の有権者のために立ち上がっているのです」と答え、メディケイドに頼らざるをえないアラスカの漁業従事者や先住民を代表していると伝えたのである。
オバマケア撤廃に反対する有権者もあらん限りの力で対抗した。共和党上院議員事務所の電話は鳴りっぱなし。地元の有権者が、自分らの選んだ上院議員に反対票を投じるよう強く促した。ワシントンまで駆け付け、上院議員事務所へ詰めかける有権者も多く、なかには車椅子の高齢者が警官に押し戻されることも珍しくなかった。
多くの州都でタウンミーティングが開かれ、上院議員がいなくても、集まった有権者らは、オバマケアがなくなったらどれほど困るか、切々と訴えた。
共和党内の圧力にもかかわらず、2人の女性議員を支えつづけたのは、彼ら有権者だったのである。
迫力に満ちたマケインの演説
上院で代替案を通過させるには、50票以上の賛成が必要である。現在の上院の勢力数は、共和党52名、民主党が46名に無所属2名。この無所属2名は民主党に同調して反対票を投じるため、共和党の女性議員2人が反対に回ると50対50に持ち込まれ、最後の1票が副大統領に委ねられる。ペンス副大統領はもちろん賛成票にいれるから、これで代替法案が可決されることになる。
しかし、オバマケア撤廃をめぐる今回の審議では思わぬドラマが展開された。アリゾナ州フェニックスの病院で、血栓の手術を受けたところ悪性の脳腫瘍がみつかり、自宅静養していた共和党の重鎮ジョン・マケイン議員が駆け付け、劇的な反対の1票を投じたのである。
上院議会に姿を現したマケインは、左目上に手術痕を残す痛々しい姿ではあったが、超党派で合意できる代替案ができるまで、早急に進めることがどれほど危険であるか力説した。
米海軍航空士官としてベトナム戦争に従軍し、ハノイ上空で撃墜されて5年間も捕虜になったマケインである。ワシントンでも一匹狼と呼ばれ、共和党政権への厳しい批判も辞さないことで知られるマケインの演説は、悪性脳腫瘍の病魔も感じさせない迫力に満ちていた。どれほどの決意をもってワシントンへ駆け付け、2人の女性議員と反対票を投じたか、人間の尊厳にかかわるほどの決意、あるいは信念というものを感じ取る思いだった。
一方、大統領はツイッターで、マカウスキー議員についてこう憤懣を吐き出した。
「昨日、(造反した)アラスカのリサ・マカウスキー議員には国全体と共和党一同ががっかりさせられた。最悪だ」
見事に欠如している「人間の尊厳」
「オバマケアはアメリカ市民の拷問具だ」とまでツイッターに書いたトランプは、まるでバラク・オバマのものならどんな内容か確かな吟味もせず、潰してやりたいという、およそ幼児的発想で行動している。しかし、議会で採択しない限り、葬ることのできない法案ならまだしも、北朝鮮との間で次第に熱を帯びた威嚇競争がはじまると、世界を大混乱に巻き込む恐怖が伴う。まして、日本は北朝鮮からあまりにも近い。
北朝鮮に向かって「"炎と怒り"に直面するぞ」と威嚇するトランプに正面から意見をぶつけることのできたのが、ジョン・マケインである。
「"炎と怒り"などという言葉を指導者が使うときには、もうそれだけの準備と覚悟のできた時である。不用意に使うべきでない」
ベトナム戦争を戦い、5年間も捕虜になって生き延びた元海軍航空士官の言葉である。
徴兵猶予を5回も繰り返し、戦場に立ったこともない大統領は、ベトナム戦争の英雄に向かって、にやにや笑ってその場を取り繕うことしかできなかった。この人物には人間の尊厳が見事に欠如している。
不動産関連のディール(取引)に長けているという触れ込みでホワイトハウス入りをした素人に世界の命運を任せられるのか。トランプで本当に大丈夫なのか。彼の勝利が確定したあの11月8日、この連載を始めた日から、その懸念が胸を去ったことはない。
世界はどこを見ても不安材料ばかり。血栓の手術で悪性脳腫瘍が見つかったマケインの病状を思い、夫の回復を願ってメディケアに感謝する毎日である。原爆投下から72年を数えるこの夏、あの悪夢が再び繰り返されないよう祈るしかできないのだろうか。
青木冨貴子
あおき・ふきこ ジャーナリスト。1948(昭和23)年、東京生まれ。フリージャーナリスト。84年に渡米、「ニューズウィーク日本版」ニューヨーク支局長を3年間務める。著書に『目撃 アメリカ崩壊』『ライカでグッドバイ―カメラマン沢田教一が撃たれた日』『731―石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く』『昭和天皇とワシントンを結んだ男』『GHQと戦った女 沢田美喜』など。 夫は作家のピート・ハミル氏。
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(2017年8月15日フォーサイトより転載)