私は10日間ほどのパリ滞在中に、さる若い淑女とお近付きになったことがある、などと思わせぶりな書き方をすると、ヘンな妄想を逞しくする方がおいでかもしれない。心配御無用、小学校1年か2年の女の子である。名前は、仮にカリーナちゃんとしておく。
その頃の私は、英字新聞の編集部勤務で、毎日英語の原稿を書いていた。そこへ某出版社からパリに行く仕事の誘いが来た。実は東京オリンピックの年に行って2泊したことがあるが、今度のを逃がせば花の都をゆっくり見ずに一生を終えるだろう。
「すんまへん、行かしとくなはれ」
「よっしゃ。気ィつけて行け」
同じ関西人の編集長を拝み倒して快諾を得た。
パリに着いた。貧乏旅行である。私はシャンゼリゼの裏通りを安ホテルを捜して歩いた。
値段を聞き、部屋を見せてもらって次に移る。40年ほど前の話だが、さすが客商売、ホテルの男は全員が英語を喋った。
カナダ大使館のあるモンテーニュ通り。超高級ホテルの裏に、適当なのがあった。5階の長期滞在者用の小部屋で朝食付き、バス、トイレは外、部屋にあるのはシングル・ベッドとビデだけ。1泊3500円ほどで、昔にしても安いし仕事場にも近いので、決めた。
風呂は1回500円出せばバスルームの鍵と石鹸、バスタオルを貸してくれる。
女中が毎朝「ボナペティ」と声をかけながらパン2切れとコーヒーを食堂のテーブルに置く。ホテルのすぐ外のキオスクで買ったInternational Herald Tribuneを広げ、ゆっくり朝食。理想の生活だった。
カリーナちゃんと知り合ったのは3日ほど経ったとき。はじめはセーヌ河畔の公園に出たりしていたが、「おじさんのお部屋、見る?」と聞くと「うん、見たい」と言う。一緒にいた日本人の家政婦とカリーナちゃんを連れてホテルへ行った。
「淑女2人を部屋に招いたんだけど、よろしいか」と問うとコンシェルジュは笑顔で「よろしいとも」と答えた。
「まあ、綺麗なお部屋ね」。値段を知らないカリーナちゃんは儀礼を守ってまず褒めた。
それから階下に移り椅子にかけて話した。カリーナちゃんがふと尋ねた。
「ムッシュは大学で何を勉強したの」
「リテラトゥールだよ」
「あら、そう。それじゃビクトル・ユゴーでは何が一番お好き?」
ガーン。私は脳天に痛打を浴びた。ビクトル・ユゴー(1802-85)は『レ・ミゼラブル』以外に何か書いておったのか? 首を捻ったが、知らないものは思い出せない。私はあわてて話題を変えた。
私はフランスの小学1年の国語の時間を空想してみた。
眼鏡をかけた女の先生は、まず生徒の服装を点検し、それから黒板にチョークでラシーヌ、ボルテールと書くだろう。その下に太陽王、王党派、連邦主義と小さく書き、いちいち説明しながら一段と大きく「革命」と「ナポレオン」と書くだろう。そして近代の話は翌週に回して、最後にビクトル・ユゴーと書く。
「これがフランスの生んだ偉人です。この名を覚えなさい。フランスは世界一の文化の国です」
フランスの初等教育がいかに権威主義的か、私は別のフランス人から聞いて知っている。
日本の子供が、外国人に向かって「西鶴では何が一番お好き」と尋ねるだろうか。従軍慰安婦問題で朝日新聞が誤報をやって以来、日本人は肩身狭く世界を渡らなければならない人種になった。
人には『レ・ミゼラブル』を読んだ人と読まない人の2種類あるとさえいわれる大傑作だが、ユゴーは他にも詩や戯曲、小説など多数を書いている。1つでも知っていれば私もカリーナちゃんの質問に答えられたところだが、読者はユゴーがどこで『レ・ミゼラブル』を書いたか、御存じだろうか。フランスではない。
若い頃ナポレオンに傾倒し王党派だったユゴーは、やがて共和主義に転じ、ナポレオン3世と激しく対立、最初ブリュッセルに、次いでイギリス海峡の英領ジャージー島、ガーンジ島に移り、19年間の亡命生活を送った。正義の人ジャン・バルジャンも可憐なコゼットも、登場人物はみなガーンジ時代の産物である。
実は私の40年来の飲み友達でこの9月6日に87歳で東京都東村山に病没したL・P・ニコルが、そのガーンジ島の出身だった。もう1人、元米海兵隊の信号兵で、毎朝お濠端の第一生命ビル、連合軍最高司令官マッカーサーの執務室の壁へ天気図を貼りに行ったのが自慢の米人サム・アレンと私、計3人がビールによって結ばれた仲だった。
夕方になる。いちいち誘うまでもない。誰かが仲間のタイプライターの前に無言で立つと、それが誘いである。誘われた者は黙ってIBMタイプライターの電源を切り、立ち上がる。それを見た3人目も無言で立ち上がって後に続く。エレベーターで地下1階へ降りると、私が名付けた「皇居に一番近いラーメン屋」がある。
丸テーブルを囲んで無言のまま座ると、ビール3本とグラスが出て来る。調子のいい日は、それが6本、稀に9本になる。ラーメンも何も食わない。ジョン・ウェインが西部のバーに入って、チリレンゲを手に取るだろうか。
主な話題はその日の紙面である。3人とも意見は異なるが、みな少しずつpatrioticで、日によっては声が少し高くなる。
サムは早く死んだ。ニコルと私は通夜に行った。いまニコルが逝った。彼とは2度、横浜外人墓地の中を歩いたことがある。テニソンの辞世の詩を彫った墓石がある。長年Japan Timesにコラムを書いた男とその妻の墓を見つけたこともある。「あ、こいつも死んでいたのか」。
ニコルのお祖母ちゃんは、生きているユゴーとガーンジの道で会い、立ち話したことがあるという。三酔人のうち、私が最後になった。
皇居・平川門近くにある新聞社
徳岡孝夫
1930年大阪府生れ。京都大学文学部卒。毎日新聞社に入り、大阪本社社会部、サンデー毎日、英文毎日記者を務める。ベトナム戦争中には東南アジア特派員。1985年、学芸部編集委員を最後に退社、フリーに。主著に『五衰の人―三島由紀夫私記―』(第10回新潮学芸賞受賞)、『妻の肖像』『「民主主義」を疑え!』。訳書に、A・トフラー『第三の波』、D・キーン『日本文学史』など。86年に菊池寛賞受賞。
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(2014年10月10日フォーサイトより転載)