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2018年03月19日 09時54分 JST | 更新 2018年03月19日 09時54分 JST

8年目の3.11:「風評被害」南相馬で「菜種油」が広げる「未来図」--寺島英弥

なぜ菜種が選ばれたのか?

油菜ちゃん / Facebook

 3月11日で、東京電力福島第1原子力発電所事故から8年目に入った、福島県浜通りの被災地。その1つ南相馬市では、「風評」に悩む地域の新しい産業として菜種栽培、菜種油が可能性を広げている。英国企業も注目し、地元の農家らの団体と提携した商品を世界に売り出した。未曽有の放射能災害からの再生に苦闘した人々の模索から、ようやく希望の未来図が見えてきた。

悲願だった自前の搾油所

 南相馬市郊外、常磐自動車道のインターから近い信田沢工業団地の一角。今年2月、プレハブの仮設棟に「南相馬信田沢搾油所」の看板が上げられた。東日本大震災、福島第1原発事故で避難した企業の仮設工場として無償貸与されてきた施設で、新たに借り主となったのは、農家が主体となった一般社団法人「南相馬農地再生協議会」=代表・杉内清繁さん(67)、12個人・団体=。栽培した菜種を自前で搾油し、加工販売する拠点を完成させた。

 施設の中央には、丸いハンドルのある、大きなコーヒーミルのような真っ赤な搾油機が据え付けられている。四方の壁には、協議会が2014年8月から販売している食用油「油菜(ゆな)ちゃん」の品質検査や瓶詰め、ラベル貼りの機械類が並び、出荷用の段ボール箱が積まれている。「食品を扱う施設なので保健所の許可を取り、4月から本格的に稼働させたい」と言うのは、協議会メンバーの農家、奥村健郞さん(61)。杉内さんらと試験的に搾ったという、ガラス容器に入った琥珀(こはく)色の菜種油を掲げてみせた。

 搾油機は、1時間に菜種(小さな黒い粒)を150キロあまり搾る能力があり、採れる油の重さはその3分の1。南相馬農地再生協議会の中心メンバー4人と、賛同して栽培に参加したり、農地を貸したりしている農家を合わせた総収量は、2016年(収穫は6月)が25トン、2017年が天候不順もあって19トン。栽培地は年々増え、同市原町区から、同市小高区や隣の飯舘村の避難指示が解除された地域にも広がり、総面積は約75ヘクタールとなっている。

 これまでは、協力関係にある栃木県のNPO法人「民間稲作研究所」の施設に運んで搾油、商品製造をしてもらっていたが、「菜種を広めて南相馬の特産品に育てるためには、自前の搾油所はどうしても必要な施設だった」と、自らも菜種を4ヘクタール栽培する杉内さんは言う。原発事故後の汚染の危惧や「風評」に苦しみ、菜種に地域の未来を託す人々にとっては7年越しの悲願だった。

「ひまわりプロジェクト」

 南相馬市太田地区は、原発事故で避難指示区域となった同市小高区に隣接し、その境にある一部の地域も避難指示区域となって分断されていた(昨年4月に解除)。

 7年前の2011年3月15日深夜には、原子炉建屋の爆発が相次いだ福島第1原発から逃れるための大型バス5台が、小中学校の避難所から群馬や長野などへ出発し、住民の9割が市外県外へと自主避難した。行政区長らの災害対策本部も避難に伴って解散となり、残った住民たちがボランティアで活動を再開したのは同23日。男たちは防犯パトロール、女たちは食べ物の確保、民生委員らは介護が必要な高齢者らの巡回といった役割分担で支え合った。残った住民のまとめ役となったのが、地元の市議会議員でもある奥村さんだ。

「避難した農家の大型ハウスを有効に利用させてもらおうと、キュウリ、コマツナ、シュンギク、イチゴなどを収穫し、食べつないだ。旧太田村(1954年の町村合併で、南相馬市の前身の原町市に)のまとまりがあったからこそ、乗り切ることができた」

 原発事故が小康状態になり、原発から北西となる放射性物質の拡散方向から外れて放射線量も上がらなかった太田地区には、避難した住民が戻り始め、行政区長会が4月下旬に活動を再開した。災害対策本部は7月に「太田地区復興会議」と改称し、奥村さんらは、農業が伝統である地元の再生に向けての模索を始めた。その1つの象徴がヒマワリだった。

【7月の相馬野馬追を盛り上げようと、騎馬武者が出陣する相馬太田神社(南相馬市)周辺の水田にヒマワリを植える「野馬追の里ひまわりプロジェクト」が始動し、12日、ボランティア約200人が参加して現地で種まきが行われた。

 プロジェクトは、地元で除染活動などに取り組む住民団体「太田地区復興会議」などが企画した。原発事故で水稲の作付けが見合わせとなったため、祭りの象徴的な光景は一変。青々とした水田の中を進む騎馬武者姿が見られなくなることから、除染を兼ねてヒマワリを植えることにした。

 この日は、予定地20ヘクタールのうち約1ヘクタールに種をまいた。参加者はぬかるむ足元を気にしながらも、楽しそうに作業に励んだ。太田地区復興会議の渡部紀佐夫委員長(70)は「プロジェクトを通じて絆を強め、放射能と闘っていく。7月の野馬追には多くの人に来てもらいたい」と話した。】(2012年5月13日付『河北新報』記事より)

 このプロジェクトは、復興会議などが前年から取り組んだ水田除染の試みから生まれた。

 同市小高区や福島県飯舘村など避難指示区域となった土地では、国直轄の「汚染土はぎ取り」という除染方法が採られたが、太田地区などでは地元の農家が水田を耕起し、さらに深い土壌を天地返しするという方法の除染を行った。奥村さんらが計測した水田の放射性物質濃度は300~3000ベクレル(1キロ当たり)と、国のコメ作付けの目安をずっと下回っていた。

 ヒマワリは景観づくりとともに「根から放射性物質を吸収し、除染効果があるとされた植物の1つ。大量に植えることで、可能な限り土を再生していこうというアイデアだった」。同じ太田地区の農家である杉内さんが民間稲作研究所をつなぎ、除染作物の活用を検討する中で生まれたものだった。

 奥村さんによると、有機農業で豊富な経験を持つ研究所から提案されたのが、「大豆、菜の花、ヒマワリ」だった。その中でまず、季節的に作付けが間に合うヒマワリを試すことになった。「油脂植物で、種から油を搾れるという魅力もあった」。

 7月の相馬野馬追では、旧相馬中村藩の中ノ郷(原町区)の出陣地となる地元の相馬太田神社周辺でのヒマワリの景観づくりは成功したものの、実際の除染効果はあまりないと分かり、この選択肢は1年で消えた。

チェルノブイリでの「実証結果」

 では、なぜ菜種が選ばれたのか? その答えは、菜種の可能性に真っ先に着目し、まだ震災・原発事故の影響が生々しかった2011年秋に試験栽培を始めた杉内さんに聞かねばならない。

 杉内さんはもともと10ヘクタールのコメ作りを営んできた。1990年代、自宅のある集落が国のモデル事業「21世紀型圃場整備」の指定を受け、大規模化と機械化、化学肥料、農薬の大量投入による「国際競争力のあるコメ」作りに向かった際、「消費者の信頼を損ねる」という信念から1人で事業から脱退。原点に立ち返った有機農業を10年間追求していた。原発事故の後は仙台で避難生活を送ったが、「南相馬の農地と農業の将来が見えない」と案じ、それまでも交流のあった有機農業研究家の稲葉光國さんが代表を務める民間稲作研究所に遠路通い、原発事故の影響を克服できる可能性のある作物として、菜種の持つ力を模索した。

 きっかけは、チェルノブイリだった。1986年に旧ソ連(現ウクライナ)で起きたチェルノブイリ原発事故の後、被災地で農業復興を支援してきたNPO法人「チェルノブイリ救援・中部」の河田昌東さん(元名古屋大学教授、分子生物学者)の活動を紹介する『NHK』の番組を見た。現地では菜種栽培が普及しており、土壌の放射性物質の吸収効果があるほか、「菜種を絞った油には、土壌の放射性物質が移行しない」という実証結果があることを知った。

「これだと思った」と言う杉内さんは、さっそく2011年秋から原町区の津波被災地で試験栽培を実践。稲葉さんとも共同で研究を続け、放射性物質を含むかもしれない菜種の搾りかすを完全に取り除き、安全な搾油ができる技術を開発した。研究所に新しい方式の搾油施設と、運営組織である「グリーンオイルプロジェクト」をつくった。

 地元で実践するために南相馬農地再生協議会を設立した2014年2月には、河田さんの橋渡しで、チェルノブイリで地域産業になった菜種栽培と搾油施設などを奥村さんと視察。現地で指導する農業大学の研究者らと交わった。「地平線まで続く畑で若い農業者が、菜種だけでなくジャガイモや大麦を作っているのを見た。農業復興はできると勇気づけられた」。

さらなる風評が

 杉内さん、奥村さんらに菜種栽培への決意を強めさせたのは、同年7月半ばに降ってわいた衝撃的なニュースだった。それは、コメを放射性物質から守るための稲作試験を、太田地区で新潟大学、福島大学などの有機栽培、水利学の研究者らと協働して取り組んできたさなかのものだった。前年に収穫したコメの一部になぜか基準値を超える放射性物質が検出されており、ある東京紙が「福島第1原発の原子炉建屋の作業現場から飛来した粉じんが原因だった」と報じたのだ。

 当時、原発由来説の傍証となるような大気中の放射性物質の異常値を、南相馬と周辺の飯舘村などで活動する研究者やNPOも相次ぎ観測していた。が、農水省は調査を約束しながらあいまいな態度に終始。フォーサイト2014年8月6日の拙稿「農業復興途上の南相馬市を襲った『原発粉じん』問題への怒り」で、筆者は奥村さんの懸念をこう記した。

【何よりも心配なのは、さらなる風評であり、農家の意欲への影響だという。「因果関係は不明でも、全国メディアのセンセーショナルな報道はそのまま多くの消費者の不安になって残るのでは。第1原発が廃炉になってなくなるまで、こんな状況が続くとしたら、コメを作る人も、これから先の農業復興の担い手もいなくなってしまう」。

 南相馬市は今年、「本格的なコメ作付け再開」を宣言した。しかし、参加した農家は86戸、面積は111ヘクタールと、いずれも前年より減り(農家数はほぼ半減)、市が目標に掲げた500ヘクタールの5分の1、震災前の栽培面積の2%にとどまった。】

 この年の秋、試験田で収穫したコメに基準値を超えるような放射性物質は含まれず、研究者たちとの検証作業の結果、土壌からも検出されなかった。農水省は翌年になって「原因は不明」との結論で幕引きを図り、地元は濡れ衣を着せられたように、さらなる風評だけが残された。南相馬の農業復興が危機にあった中、南相馬農地再生協議会には、酪農や稲作の再開を諦めた農家から「農地を貸したい」との申し出が相次ぐようになり、以後、「希望の種」となった菜種の作付面積はだんだんと増えていった。

英国メーカーが「油菜ちゃん」を!

 南相馬農地再生協議会が催す毎年9月の菜種畑の「種まき会」に、大勢の若者たちが参加している。一緒に菜種栽培に取り組んできた市内の県立相馬農業高校の生徒の研究組織「農業クラブ」だ。やはり地元の農業復興を志して「菜種を特産化できないか」と、2012年11月から栽培試験を始め、杉内さんと出会った。協議会が安全な搾油技術で初めて商品化した菜種油に、「親しみやすい名前を若者の感覚で考えて」と託され、生徒たちは「油菜ちゃん」と命名。デザイナーの応援で菜の花の精のキャラクターも生まれ、2014年8月に発売された。「品質が良く、天ぷらに使っても油が長持ちする」と評判だ。

 相馬農高生たちはその後、しょうゆをベースに12種の味をブレンドしたドレッシング作りにも貢献。姉妹品のマヨネーズとともに、地元の道の駅や協議会のホームページで販売されている。

 新たな販路が開けたのは翌2015年6月。英国の化粧品・バス用品などのメーカー「ラッシュ(LUSH)」の日本法人担当者が杉内さんを訪れ、「油菜ちゃん」を買い求めていった。南相馬産の菜種油はこの後、商品開発試験のため英国本社の研究部門に送られ、せっけんとしての商品化に好結果が出たという。杉内さん、奥村さんらに予期せぬ朗報が届き、9月には「本格的な生産に乗り出したい」と550キロの菜種油を買い入れた。

 杉内さんらが2014年、チェルノブイリ原発事故被災地の菜種栽培を視察し、自らも栽培を試みる姿がテレビ番組で紹介され、日本法人の関係者が目を留めて英国本社に伝えていたという。「菜種油を原料にした新しいせっけん開発で、生産の取り組み、品質、哲学が、消費者にとって確かな相手を探していた。杉内さんたちとの提携は、東日本大震災の被災地支援にもかなう。買い入れを継続して増やしていきたい」と、「ラッシュ・ジャパン」(神奈川県愛川町)の担当者は筆者の当時の取材に答えた。

菜種油で「DROP OF HOPE」

 せっけんは、2016年2月から神奈川県内の工場で生産が始まった。南相馬農地再生協議会には、6月に収穫される同年産の菜種の油にも1トンを超える買い入れ予約が入った。「ラッシュとの提携が生まれて、これから仲間を増やし、栽培を広げていく目標ができた。搾油は現在、栃木県の施設(民間稲作研究所内)で行っているが、南相馬に自前の搾油所が必要になるだろう。行政とも相談していきたい」と杉内さんは語り、菜種油の地元生産に期待を膨らませた。

 晴れの舞台となったのは同年2月25日、ラッシュ・ジャパン品川オフィスで行われた商品発表会だった。詰めかけた多くのメディア関係者に、新しいせっけん「つながるオモイ」(100グラム、1300円)が披露された。

 同社は「DROP OF HOPE」という英語名を付け、「たくさんの人の希望を湛えるひとしずくのオイル。福島・南相馬産の菜種油に託された、溢れんばかりのオモイも一緒にソープにしました」と紹介。「南相馬の生産者が育てた菜種油を商品に使うことで、震災からの復興を支援したい。それまでも菜種油を原料に用いることを検討していたが、『顔の見える』生産者のものを消費者に届けたい」。

 出席した杉内さんは、壇上でこう話した。「菜種油を通して、地域の農業も経済も再生したい。原発事故を契機に若い世代が南相馬から避難、流出した。『もう住める所ではない』と感じたのかもしれない。前に進む勇気も失いかけた時期もある。だが菜種は、チェルノブイリでの取り組みから、地域の再生につながると確信できた。次世代が戻ってくるような産業に育て、農業を通した交流も広げたい」。

 片手には「油菜ちゃん」、もう片手に「つながるオモイ」。苦闘からの実りである商品を掲げて、誇らしそうな笑顔を浮かべた。せっけんは、同年3月11日に国内各地のラッシュの店舗で発売された。

 今年の3月11日を前に、ラッシュ・ジャパンから筆者に『「つながるオモイ」の商品開発が第2回「グリーン・オーシャン大賞」(社会課題を起点にしたビジネス創出が対象)を受賞した』というプレス・リリースが届いた。南相馬農地再生協議会が栽培、搾油した菜種油を材料に開発したせっけんが、世界49の国や地域で定番商品として販売が実現した――と。

搾りかすからガスを製造

 杉内さんたちの思い描くものは、菜種油の産地づくりだけにとどまらない。「菜種油と両輪で考えてきたのが、油を搾った後の搾りかすを活用した、バイオマスのエネルギーへの利用。地域で生み出す貴重な資源の循環利用であり、エネルギーを自給して住民の暮らしに還元したい。未曽有の原発事故の被災地として、その教訓を実践した地域社会づくりをしていける」

 杉内さんは2016年4月、奥村さんとともにドイツのバイオエネルギー企業のプラントやバイオガス研究センターを訪ね、その実現を確信したという。プラントでは、地域の農業を担う畜産農家から出される牛の糞尿を原料としてメタンガスを製造し、地元の熱エネルギー需要を賄っていた。研究センターでは温水利用の魚養殖をし、発酵後にできる液体を肥料として農地に還元する方法も開発していた。現地で生産される主な穀物である麦も、価格が下落した場合は、バイオガスの燃料として買い入れられるという。

「菜種とは原料が異なるが、地元の産業と暮らしに根差し、密着した持続的なエネルギーづくりが実現できると学ぶことができた。念願だった自前の搾油所を設けることができたが、その先に、搾りかすからガスを製造するプラントの実現に取り組んでいきたい」と杉内さん。バイオエネルギーの熱を何に使いたいのか、との問いには、「まず、高齢化が進むこの地域の住民たちに開かれた保養、交流の施設をつくり、そのお湯や暖房に還元できたらいい。南相馬に住み続けるための良い環境をつくっていく一歩として」。

 4月に稼働する搾油所から、原発事故を乗り越える地域の未来図が広がっていく。

(昨年11月19日の拙稿「『食用米』復活への模索を続ける『飯舘村』『南相馬』の篤農家たち」で、太田地区の人々のコメ作りでの苦闘を紹介しています。併せてお読みください)


寺島英弥 ジャーナリスト。1957年福島県生れ。早稲田大学法学部卒。河北新報元編集委員。河北新報で「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)、「時よ語れ 東北の20世紀」などの連載に携わり、2011年から東日本大震災、福島第1原発事故を取材。フルブライト奨学生として2002-03年、米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)『東日本大震災 何も終わらない福島の5年 飯舘・南相馬から』(同)。3.11以降、被災地における「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を更新中。

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(2018年3月16日フォーサイトより転載)関連記事