ロシアのウラジーミル・プーチン大統領が9月12日にウラジオストクで、「(領土などの)前提条件なしで日露平和条約を年内に締結しよう」と突然提案したことは、日本側に困惑を招いた。前々日の日露首脳会談でそのような発言はなく、唐突かつ意表を突く発言だったからだ。
難航する北方領土問題の棚上げを意図したことは明らかだが、日本側が拒否すれば、ロシアが反発し、交渉はさらに難航しよう。プーチン大統領と22回の会談を重ねた安倍晋三首相の対露外交が、曲がり角に直面していることを示した。
「1島返還」の恐れも
プーチン発言は、日中露韓とモンゴル首脳が登壇した東方経済フォーラムのパネル・ディスカッションで飛び出したが、引き金は安倍発言だった。首相は「プーチン大統領と今後も会談を重ねていきたい。聴衆の皆さんにも、平和条約締結に向けたわれわれの歩みを、支持してもらいたい」と拍手を催促すると、大統領は「シンゾーは『アプローチを変えよう』と言ったが、是非そうしたい。たった今思いついたアイデアだが、平和条約を今とは言わないが、年末までに無条件に結ぼう。その後ならば、平和条約を基礎に、すべての係争問題の解決ができるはずだ」と提案すると、安倍首相を上回る拍手が起きた。
4島の帰属問題を解決して平和条約を結ぶ――が国是の日本にとって、プーチン提案は到底受け入れられない。最大の問題は、平和条約を締結すれば、国際法上、戦後処理の完了を意味することだ。火事場泥棒のような終戦直後の旧ソ連による「4島不法占拠」が一瞬にして「合法支配」と化すことになる。
1956年の日ソ共同宣言は、「平和条約締結後に、善意のあかしとして歯舞、色丹の2島を引き渡す」と明記しており、全面積の7%の2島引き渡しで決着する可能性が強まる。国後、択捉について、プーチン政権は「大戦の結果ソ連領となった」としており、返還は考えられない。プーチン大統領自身、国後、択捉の帰属協議に応じたことは1度もない。
しかも大統領は「2島を引き渡すといっても、主権を移管するのか、レンタルするのか、具体的には何も書かれていない」と公言している。無条件で平和条約を締結した後の交渉は、56年宣言の解釈をめぐって難航しそうだ。大統領は「共同宣言に沿って日本が2島を領有することは、日本の"一本勝ち"だ」と述べたこともある。「引き分け」を唱える大統領の方針からすれば、2島を折半し、日本が得るのは無人島の歯舞諸島だけにとどまりかねない。歯舞なら4島の全面積の2%で、日本側の外交完敗となってしまう。
中韓も棚上げを支持?
今回のプーチン提案はサプライズ効果があり、普段日露関係には無関心な欧米のメディアも、「プーチン大統領、長く待たれた平和条約を日本に提案」(『ワシントン・ポスト』)、「プーチンが年末までの日露平和条約を希望」(『NBCテレビ』)などと大きく報道した。「日本がプーチンの平和条約提案を拒否」(『ブルームバーグ』)などと、日本に問題があるかのような報道もあった。
これは、壇上で「平和条約締結」だけを訴え、領土問題解決に触れなかった安倍首相の対応にも問題があろう。首相はプーチン発言を笑顔で聞き、その後も4、5回発言の機会があったのに、北朝鮮問題やシベリア鉄道の輸送問題などに触れただけで、プーチン提案に反論しなかった。菅義偉官房長官が「4島の帰属問題を解決して平和条約を締結する基本方針に変わりはない」と強調したが、首相がその場で日本の立場を説明し、反論すべきだった。
「反論も何もせずに薄ら笑いを浮かべていた。外交上の大きな失態」(国民民主党の玉木雄一郎代表)、「(無条件の平和条約締結は)領土要求を放棄し、国を切り売りすることになる。それを目の前で言われて反論も異論も言わないのは外交的大失態」(共産党の志位和夫委員長)といった野党指導者の批判は的を射ていた。
パネル・ディスカッションではその後、日露の領土問題が話題になり、司会者から振られた中国の習近平国家主席は「領土をめぐる係争が存在するのは問題だ。解決できないなら、それをうまく管理することが重要だ。歴史の教訓から学んでほしい」と述べた。韓国の李洛淵(イ・ナギョン)首相は「国際的な文書を基に、英知で解決すべきだ。中国の鄧小平は『現世代が問題を解決する英知を持たないなら、次の世代に委ねるべきだ』と述べたことがある」と語った。日本と領土問題を抱える中韓首脳はいずれも、ロシアの領土棚上げ論を暗に支持した。
プーチン大統領が得意とする柔道は、相手の力を利用して逆襲に転じるのが極意だが、今回は大統領が首相の前のめり姿勢を利用して技をかけ、「一本勝ち」を収める形となった。
安倍首相の「外交失敗」
プーチン提案の直後、イーゴリ・モルグロフ外務次官が日本側に年内の平和条約締結で交渉開始を求めており、提案を事前に用意していた可能性もある。旧ソ連は1970年代、領土問題を棚上げした中間条約の締結を日本に提案したことがあり、領土先送り論は目新しくない。
ロシア科学アカデミー極東研究所のワレリー・キスタノフ日本研究センター長は『独立新聞』(9月12日)で、「センセーショナルに見えても、現実性はあまりない。年内または近い将来の平和条約締結はないだろう。ロシアが4島への日本の主権を認め、次に2島を返還し、国後、択捉はかなり後に返すというのが日本の立場だ。しかし、ロシア政府は4島が合法的にソ連領になったことをまず日本が認め、それから平和条約交渉を行うとの立場だ」とコメントした。
『タス通信』東京支局のワシリー・ゴロブニン支局長はラジオ局『モスクワのこだま』のブログで、「これまで、ロシア外務省は無条件の平和条約締結案を日本側に伝えていなかった」とし、「安倍首相は重大な外交的失敗を喫した。ロシアは島で1センチも譲歩せずに、自らの立場を強化できたからだ」と書いた。モスクワ国際関係大学のドミトリー・ストレリツォフ教授は「思いがけない発言だったが、平和条約問題は日露政治対話の中心であり、ロシアもある程度イニシアチブを取って、日本に熱意を示す意味での発言だったかもしれない」と好意的に評価した。
日本側も「両国関係を発展、加速したいという強い気持ちの表れだろう」(菅官房長官)、「なるべく早く平和条約を締結したいという思いがよく分かった」(河野太郎外相)と前向きに受け止めつつある。しかし、4島での共同経済活動がまとまらない中、新たに無条件の平和条約締結案を協議するなら、交渉が複雑化し、混乱するのは確実だ。
日本の国内問題に
日本のメディアでは報じられなかったが、プーチン大統領はパネル・ディスカッションの最後に再度北方領土問題に触れ、「ロシア連邦の地図を見てほしい。巨大な国だ。面積は世界最大であり、ここに問題の島々がある。そこには道徳的、政治的な性格と特徴があり、わが国にとって極めて先鋭で敏感な問題だ。従って、その点を考慮して正しく解決に当たらねばならない」と述べ、4島の問題は政治的、心理的問題であることを強調した。一方で、「われわれは中国との40年来の領土問題を、相互に受け入れ可能な妥協案によって解決した」とも強調した。
中露の国境問題は2004年、係争中の3つの川中島を面積折半にするとの妥協案で解決したが、これは技術的な領土問題であり、第2次世界大戦の結果が絡む北方領土問題とは異なるとの認識である。広大な面積のロシアにとって、4島が技術的問題なら面積折半でも惜しくないが、膨大な犠牲を出した大戦の「戦利品」である以上、譲れないという発想だ。同じく大戦の結果が絡むバルト3国との領土問題でもロシアは一切譲歩しなかった。プーチン大統領自ら高揚させた戦勝意識と愛国主義が譲歩を妨げる構図だ。
こう見てくると、プーチン政権が続く限り、ロシア側が最大限譲歩しても2島止まりであり、国後、択捉の返還はもはや考えられない。北方領土問題は次第に、2島(または1島)で我慢するか、それとも4島を目指してプーチン後へ長期戦を覚悟するか、憂鬱な国内問題になりそうだ。(名越健郎)
名越健郎 1953年岡山県生れ。東京外国語大学ロシア語科卒業。時事通信社に入社、外信部、バンコク支局、モスクワ支局、ワシントン支局、外信部長を歴任。2011年、同社退社。現在、拓殖大学海外事情研究所教授。国際教養大学東アジア調査研究センター特任教授。著書に『クレムリン秘密文書は語る―闇の日ソ関係史』(中公新書)、『独裁者たちへ!!―ひと口レジスタンス459』(講談社)、『ジョークで読む国際政治』(新潮新書)、『独裁者プーチン』(文春新書)など。