【真説】「ヤマト建国」を導いた「伊都国」「奴国」の争い--関裕二

北部九州の奴国と伊都国がくり広げたドラマから、目が離せなくなってきた。

邪馬台国論争の潮流が、変わりつつある。劣勢だった北部九州説が、巻き返しを図っているのだ。福岡県糸島市(「魏志倭人伝」に登場する伊都国=いとこく=)の平原(ひらばる)1号墳(方形周溝墓)から大型銅鏡の破片が40面分出土していて、卑弥呼が魏からもらい受けた鏡も含まれていたのではないかと取り沙汰されるようになった。

そのため、ここが卑弥呼の墓だとする説が登場している。ただし、卑弥呼は伊都国ではなく邪馬台国の人だから、この推理を素直に受け入れることはできないし、筆者の関心は、もっと別の場所にある。

前回触れたように、伊都国と奴国(福岡市と周辺)の相剋と「奴国の阿曇氏の暗躍」の方が、大切だ。ヤマト建国の裏事情は、ここに隠されている(2017年2月10日「『日本書紀』が隠した『天皇家』と『縄文商人』のつながり」参照)。

弥生時代後期、日本列島で最も栄えていた奴国だが、頼りにしていた後漢が滅亡すると、伊都国に主導権を奪われてしまった。とはいっても、奴国(阿曇氏)は復活の狼煙を上げたようなのだ。結論を先に言ってしまえば、東に勢力を伸ばしネットワークを広げ、これがヤマト建国のきっかけになった――。この推理の根拠を、説明していこう。

「浦島太郎伝説」を介した結びつき

阿曇氏は日本各地に痕跡を残している。たとえば長野県安曇野市や静岡県熱海(アタミ)市が有名だが、愛知県東部の渥美(アツミ)半島も、「阿曇(アヅミ)族」の土地だった。この「アツミ半島」が妙にひっかかるのは、すぐお隣に海の民・尾張氏が勢力圏を形成していたからだ。

阿曇氏は但馬(現兵庫県北部)丹後(同京都府北部)から若狭(同福井県西部)にかけて拠点を構えていたが(以下、この一帯を仮に丹波の古い呼び方である「タニハ」としておく)、尾張氏も日本海を重視し、ここで、両者はつながってくる。

たとえば丹後半島の付け根、京都府宮津市の籠(この)神社に残される「勘注系図(かんちゅうけいず)」に、尾張系海部(あまべ)氏の祖神・建位起命(たけくらきのみこと)が登場するが、『新撰姓氏録』はこの神を阿曇氏の祖と記録する。

また、丹後半島には濃厚な「浦島太郎」伝承が残るが、この説話を無視することはできない。「浦島もどき」が方々にいて、彼らが阿曇氏と尾張氏を結びつけてしまうからだ。

たとえば、海部氏の祖・倭宿禰命(やまとのすくねのみこと)(珍彦=うずひこ=)は、浦島太郎そっくりの姿で『古事記』に登場する。神武天皇が日向からヤマトに向かったとき、明石海峡付近で釣り竿を持ち亀に乗って現れ、水先案内をしているのだ。

阿曇氏の祖・磯良丸(いそらまる)も「浦島もどき」だった。宗像大社の縁起に次の説話が残される。

神功皇后は新羅征討の際、磯良丸を「水陸自在の賢人だから」と迎え入れた。磯良丸は、亀に乗り、童子の姿で現れ、水軍の楫取(かんどり、舵取り)に命じられた......。

尾張氏と阿曇氏の縁者が、なぜ浦島太郎にそっくりなのか。それだけならまだしも、天皇家の祖神・山幸彦(彦火火出見尊=ひこほほでみのみこと=)も、カゴ(亀を暗示)に乗せられ海神の宮(竜宮城)に向かい3年間過ごしているから、浦島もどきだ。

また『古事記』は、山幸彦の妻になった豊玉姫の親(海神)を阿曇氏の祖神と説明している。つまり、「浦島もどきの説話」を介して、「阿曇氏と尾張氏」の関係に、天皇家の祖も割りこんできてしまっている。

また、『日本書紀』は浦島太郎が実在したことを認めているが、「詳細は別巻で」と、お茶を濁した(現存せず)。その一方で、『日本書紀』は天皇家と阿曇氏、阿曇氏と尾張氏のそれぞれの結びつきを認めていない。おそらく、浦島太郎のモデルがヤマト建国前後の歴史に深く関わりすぎていたのだろう。大切な歴史の真実は、玉手箱の煙とともに、霧散してしまったのだ。

纒向遺跡の土器からわかること

しかし、考古学は、貴重な物証を提示している。

ヤマト建国直前の日本海沿岸部では、不思議な事が起きていた。出雲の四隅突出型墳丘墓が、越の西側(北陸)に伝播していたのに、「タニハ」は受け付けなかった。そしてタニハは越後(現在の新潟県)と手を組んでいる。

この、たすき掛けの攻防戦の端緒は、伊都国と奴国の主導権争いに求められる。出雲は北部九州と結ばれていたが、その相手は伊都国と考えられ、伊都国は北部九州内陸部の邪馬台国(山門県=福岡県みやま市=であろう)ともつながっていた。

かたやタニハはある時期から、先進の文物を近江と東海に流し始めているが、これは、奴国の海の民が仕掛けたのだろう。奴国とタニハは、伊都国+邪馬台国と出雲による「倭国連合」の連携を嘲笑い、独自の戦略を練り上げていたのだろう。

すなわち、近江と東海を経由して、太平洋に出て、紀伊半島の「木材」を求めた。さらには西側からの攻撃に頗(すこぶ)る強い奈良盆地に進出したにちがいない。ヤマト建国の地・纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)に集まった土器の過半数は近江と東海のものだった。結局、九州・出雲の倭国連合もヤマトに靡き、新たな政権が樹立された......。

つまり、奴国の阿曇氏は縄文時代から継承されてきた海の民のネットワークを活用し、ヤマト建国をプロデュースしたのだ。けれども、8世紀の『日本書紀』編纂者にとってこの歴史は邪魔で、「謎めく浦島太郎説話」だけが残されたのではあるまいか。ヤマト建国の立役者の末裔は物部氏(吉備系)、尾張氏(奴国系)、蘇我氏(タニハ系)で、彼らは8世紀の権力者・藤原氏の宿敵であった。

北部九州の奴国と伊都国がくり広げたドラマから、目が離せなくなってきた。邪馬台国論争よりも数倍面白い。

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関裕二

1959年千葉県生れ。仏教美術に魅せられ日本古代史を研究。『藤原氏の正体』『蘇我氏の正体』『物部氏の正体』(以上、新潮文庫)、『伊勢神宮の暗号』(講談社)、『天皇名の暗号』(芸文社)など著書多数。

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(2017年3月13日「フォーサイト」より転載)

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