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2014年07月13日 17時38分 JST | 更新 2014年09月10日 18時12分 JST

戦後70年目企画 8月6日の広島を歩く-中編-

毎年8月6日は、広島市の平和記念公園で式典が行なわれる。しかし、報道は式典の姿しか映していない印象がある。今回も私が1度だけ行った「8月6日の広島」をお伝えする。

■冷水サービス

『広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式』の後ろにある平和祈念資料館では、冷水サービスもあった。炎天下なので、少々ノドをうるおいたくなる。

いざ、並んで私の番になると、なんと特設の水道水を青いプラスチックコップに入れていた。これは予想外で、大きく戸惑う。ミネラルウォーターだと決めつけていたからである。

戸惑いながら水道の水を飲む。うまい。普段、水道の水は、氷を作るか、やかんで湯を沸かしているなどしか使っておらず、"飲む"のは十数年ぶりである。

ミネラルウォーターが当たり前の世の中、久々に水道の水を飲み、己の愚かさを思い知らされた。昔は水道の水を飲むのが当たり前だったことに気づいたからだ。

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冷水サービスにも原爆で亡くなられた方々の思いが詰まっている。

英文表記もあった手書きのポスターによると、原爆投下直後、人々は水を求めていたが、多くは手にすることなく死んでいった。"もし水を手にしていたら、今もこの世にいたかもしれない"と思うと、悲しくなってくる。

蛇足ながら、私が子供の頃は中学生になるまで、水道の水を毎日飲んでいた。ガラスのコップに水と氷を入れて、寝る前に飲んでいた。当時、それがないと眠れなかった。幼少の頃、脱水症状で入院した影響があるのかもしれない。全部飲み干すことなく眠りについたあと、親父が不意に目覚めては私の水を飲んでいたという。

水道はこれからもお世話になるのだから、水に対する認識を新たにしたものの、ミネラルウォーターを買うことはやめていない。生活習慣がそうさせているのだ。

今も勇気を出して、自宅の水道の生水が飲めず、湯を沸かせばためらいもなく、カップラーメンやコーヒーに注ぐ私はまだまだ"愚か者"だ。2006年8月6日の広島は、"人生というものは教えることよりも、教えられることのほうが多い"と再認識した。

■原爆慰霊碑で死没者の御冥福を祈る

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この日、広島市は日本晴れ。

『広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式』の冊子をもらい、原爆慰霊碑に向かうと、長蛇の列である。『広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式』の後ろはテントが設けられ、高齢者の優先席としている。

それにしても広島の暑さはハンパじゃない。日傘、帽子、頭にタオルをかけるなどして、暑さ対策をしている人の姿を見る。私はまったくの無防備で、日傘は"女性の特権"というイメージがあるし、帽子は昔から好まず、かぶっても似合わない。

さて、『広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式』の冊子は、日本語と英語の2か国語表示となっており、金色の折り紙が添えられている。平和の願いを込めた折り鶴を作るためだ。

金色の折り鶴は特設の回収場所に入れることになっており、原爆の子の像及び、広島市長が訪問する国の政府へ贈ることになっている。

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この日のために、線香立てを設置。

原爆慰霊碑に着き、線香をあげて合掌。被爆で亡くなられた方の御冥福をお祈りした(ここで日傘をさすことは禁じられている)。原爆慰霊碑の下には原爆死没者名簿が奉納されている。2013年8月6日奉納時の名簿登載者数は28万6,818人。この1年間で5,859人がこの世を去った。

意外と思うかもしれないが、被爆手帳は戦後生まれの方でも持っている。母親が原爆を目(ま)の当たりにしたため、胎児にも影響するという(「被爆2世」という言い方もある)。

この話は私が中学時代、担任の教師が明かしたもので、その方は広島出身だ。初めて聞いたときは背筋が凍る思いだった。当時、副担任は長崎出身で、やはり被爆手帳を持っていた(担任とは若干世代が異なる)。このとき、私は「戦争」を間近で感じた。

歴史の授業では"習うより、習わされている"という感じだったが、学生ではない今、自分から乗り込んで、肌で感じている。映像、書物といった資料よりも現地へ乗り込むことが1番記憶に残りやすいと私は思う。

■号外配布

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この日のために、浄財箱も設置。

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原爆の子の像の下では、折り鶴と花が手向(たむ)けられていた。

浄財箱におカネを入れ、原爆の子の像へ。周辺のガラスケース共々、折り鶴であふれていた。平和を祈る無数の折り鶴は、全世界が戦争のない平和な世の中が実現しても折り続け、次世代にその精神は引き継がれるだろう。

平和記念公園と原爆ドームを抜け、交差点を渡ろうとすると、中國新聞の号外が配られていた。原爆ドームの周辺で数か所も無料配布しているのだ。時刻は10時を過ぎ、あまりのハヤワザに新聞の制作もデジタル化されたことを実感する。

1面は『広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式』の模様を空撮。2・3面の写真のほとんどは、0時15分から4時55分まで撮影されたもので、夜が明けないうちから、平和を祈っている。

原爆ドーム付近では、被爆体験者の男性が若者数人に、あの日の恐ろしい出来事を語っていた。3時05分に撮影されたもので、若者はけっして眠そうな顔をせず、真剣に耳を傾けていた。それなのに私はインターネットカフェで就寝しているのだから、平和に対する願いの甘さを思い知らされる。

4面(最終面)は広島市の秋葉忠利(あきばただとし)市長(当時)が平和宣言。左側は日本語、中央に夜の原爆ドームの写真があり、右側は英訳と秋葉市長の顔写真が掲載されている。

中國新聞号外によると、『広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式』は1946年から毎年開催されているように思われるが、1950年のみ朝鮮戦争のあおりを受け中止となっている。したがって、『広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式』は、2006年で60回目、2014年で68回目となる。

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この垂れ幕を見ると、よりいっそう身の引き締まる思いだ。

歩いていると、あちこちの大型店舗では「謹んで御霊(みたま)のご冥福をお祈り申し上げます」の垂れ幕が掲げられていた。

■メルパルクHIROSHIMAへ

私はコンビニを見つけ、再び横断歩道を渡る。ようやく飲みたかったミルクティーを購入し、一気に飲み干す。広島の夏は本当に暑い。「うだるような暑さ」という言葉がピッタリだ。

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振り返ると、展覧会を開催していたので、後学のために入ってみる。

またも横断歩道を渡り、メルパルクHIROSHIMAへ。3階では『原爆と峠三吉の詩 原子雲の下の声を全国、全世界に伝えよう 第5回広島市民原爆展』が2006年8月7日まで行なわれているので、さっそく入ってみよう。

『原爆と峠三吉の詩 原子雲の下の声を全国、全世界に伝えよう 第5回広島市民原爆展』に入ると、スローガンが目につき、内容は次の通りである。

 

1.広島・長崎の本当の姿を若い世代に、全国に、全世界に伝えよう!

2.峠三吉が活動した時期の全国的運動を取り戻そう!

3.原水爆の製造・貯蔵・使用の禁止!

4.アメリカは核をかついで帰れ!

「1」と「3」については同感。「2」の峠三吉は小学6年生のときに習い、中学・高校では取り上げられていない。峠三吉自体を知らない若者も多い気がする。「4」はこのルポの1か月前に北朝鮮がミサイル発射実験、2か月後に地下核実験を行なっており、スローガンに該当する国は、アメリカ以外にもあるはずだ。

スローガンの次に目につくのが展示物。本来なら廃棄処理をしてもおかしくないが、日本に2度と戦争が行なわれないためのいましめとして、大事に保存されている。

おちょうしは、上薬が溶け、5個いっしょにくっついている。一升瓶とビール瓶は異様なカタチをしており、よくぞ完全に溶けなかったと思う。

そのほかの展示物は、とっくり、瓦、こばち、湯こぼし、タイル、鉄かぶと、容器、植木鉢、防空頭巾など。60年以上厳重に保管されており、歴史の生き証人として、これからもこの魂が消えうせることはないはずだ。

中央にはテーブルがいくつか置かれ、被爆体験を聞くコーナーとなっている。お年寄りの男性の生々しい話に、若い女性は大粒の涙を流していた。きっと、その女性は人生観が変わっただろう。

『原爆と峠三吉の詩 原子雲の下の声を全国、全世界に伝えよう 第5回広島市民原爆展』は、大勢の人々が熱心に見入っていると、私はあることに気づく。パネルの約4割は平和記念公園で展示していたものと同じなのだ。それもそのはず、原爆展全国キャラバン隊が主催しているのだ。

アンケートを記入して投函し、『原爆と峠三吉の詩 原子雲の下の声を全国、全世界に伝えよう 第5回広島市民原爆展』を出ようとした時、原爆展キャラバン隊の若い女性に呼び止められる。アンケートに答えていない客とカン違いしていたらしい。感想をきかれ、私が熱く語ったため、長話となってしまう。女性も私の話に耳に傾ける。

「失礼ですが、おいくつですか?」

とトシを尋ねられてしまった。女性にとって、私の熱い話しぶりは、年齢とマッチしていないように思われたようだ。

私が女性に話したのは、『広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式』の感想や、原爆展キャラバン隊が行なっている『アメリカに謝罪を求める広島アピール』の署名活動だ。いくら署名を集めてアメリカに突きつけても、「日米安全保障条約」という切札を出して、謝罪しないと断言した。

この条約は"日本になにかあった時は、アメリカが守る"というもの。日本がテロにあった場合、アメリカが代理でやり返す。この条約は"原爆を落とした罪滅ぼし"という意味なのかはわからない。後日、讀賣新聞夕刊の記事を見ると、落とした本人(当時92歳男性)は罪悪感がないとを語っている。第2次世界大戦を終わらせるためには原爆投下は必要だったと。

自分でも感心するほど、熱く語った。東京で原爆展キャラバン隊が開催されることになったら、スケジュールの都合がよければということで、協力することにした(なぜか名刺交換をしていない)。できるとすれば、この記事で、広島の人々の想いを全世界に伝えるだけかもしれない。

メルパルクHIROSHIMAを出て、路面電車で広島港(宇品)に向かう。時刻は11時を過ぎ、あとちょっとで昼メシどきだ。ここから先は広島の街を散策しよう。

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紙屋町西から、3号線広島港(宇品)行きに乗る。乗車した1900形は元京都市交通局の車両で、1978年から活躍の場を広島に移した。『GREEN MOVER』などといったオシャレな雰囲気の現代車両からベテラン車両まで、幅広い車齢の路面電車が活躍及び共存するのが広島電鉄のよさである。