竹島紀元氏をしのぶ

鉄道ジャーナル社の社長兼『鉄道ジャーナル』誌などの編集長を務められた竹島紀元氏が7月26日、肺炎のため89歳で旅立った。僭越ながら、竹島氏の足跡などを綴る。

鉄道ジャーナル社の社長兼『鉄道ジャーナル』誌などの編集長を長年務められた竹島紀元(たけしまとしもと)氏が2015年7月26日午前5時38分、肺炎のため89歳で黄泉の国へ旅立った。僭越(せんえつ)ながら、竹島氏の足跡などを綴ってみよう。

■第三の鉄道趣味誌

竹島氏は1926年生まれ。根っからのレールファンで、特に蒸気機関車に対する思い入れが強く、国鉄の技術関係の仕事に就きたい夢を持っていたが、戦後の混乱が影響し、断念せざるを得なかった。それでも、鉄道関係の仕事に就きたい想いが強く、30代で上京。交通協力会に入り、1951年創刊の『鉄道ピクトリアル』誌(電気車研究会刊)、1961年創刊の『鉄道ファン』誌(交友社刊)といった鉄道趣味誌の編集に携わる。前者は解説や研究、後者は理屈抜きで見て楽しむことをメインとしており、現在もその姿勢は変わっていない。

当時、竹島氏は"鉄道趣味誌に社会的な視点が必要"と考え、許容される範囲で取り組んだものの、先述した誌面の方針が確立されているため、実現には至らなかったという。

1965年3月、竹島氏は鉄道映画専門プロダクションとして、株式会社鉄道記録映画社を創立。新橋にオフィスを構える。その後、"鉄道趣味誌に社会的な視点が必要"に賛同した株式会社東亜企画が版元になり、1967年4月に「第三の鉄道趣味誌」と謳(うた)い、年4回発行の季刊誌『鉄道ジャーナル』を創刊した。

創刊号は新車年鑑。誌面はカタログと化しており、車両ごとに丁寧な解説を載せている。当時、竹島氏は「編集長」ではなく、「編集責任者」という立場で、T名義の編集後記で準備不足による不十分な内容であることを読者に陳謝した。第2号となる1967年7月号(同年6月発売)で、創刊号の訂正が21か所もあったことを明らかにしている。

■第3号で月刊化

創刊号の発売後、鉄道記録映画社は日本橋小網町に移転する。竹島氏は第2号の制作から編集長に就き、解説やルポなどを交えた誌面構成とした。続く第3号(同年11月号)では、版元の資金事情で発行のメドがつかない事態に陥ってしまうが、関係者間で慎重に協議した末、鉄道記録映画社が月刊誌として編集と発行を引き受け、当初の予定より1か月遅れて発売にこぎつけた。『鉄道ジャーナル』誌の月刊化は大きな反響を呼び、読者の急激な増加で、バックナンバーの創刊号と第2号が売り切れ絶版となり、期待の大きさを表している。

竹島氏は映画制作の傍(かたわ)ら、『鉄道ジャーナル』誌の制作も加わり、多忙を極める。日本橋小網町のオフィスも手狭な状況となり、誌面で"新春の移転"を読者に知らせた。

業務拡張のため、同社は1968年1月22日より飯田橋に移転。その後、出版物の制作がメインとなったため、1970年10月14日付で社名を「株式会社鉄道ジャーナル社」に改称した。レールファンなら御存知の通り、同日は鉄道記念日(現・鉄道の日)で、満を持しての改称といえる。

社名が変わっても、"映像作品"の制作を継続し、数多くの商品を世に送り出した。

■『旅と鉄道』誌の創刊

社名改称後の1971年、「鉄道を駆使して旅を点から線に広げる」をコンセプトとした季刊誌『旅と鉄道』を創刊し、竹島氏が編集長を兼務した。企画を発案したのは、現在、株式会社天夢人(てむじん)代表取締役兼紀行作家の芦原伸氏だという。

ぼくが40年前に鉄道ジャーナル社に入社したのは、この「旅と鉄道」誌を社内で立ち上げるためで、原型はぼくが竹島紀元社長のもとでデスク(副編集長)として作ったものです。

出典:芦原伸公式ホームページ「旅と鉄道〈Trains & Travel〉」

『旅と鉄道』誌は、純粋な汽車旅のほか、バスの乗継や旅先の散策、読者が気軽に参加できるページなどを設け、『鉄道ジャーナル』誌にはない"ゆるーい誌面"が好評を博し、「タビテツ」の略称で親しまれる。

当初は年4回(3・6・9・12月)発売だったが、1995年より夏と冬の増刊号も加わり、年6回発売となる(隔月刊ではない)。特に初の増刊号となった1995年夏は評判がよく、早々に売り切れ絶版という反響を呼んだ(当時はインターネットが台頭する直前の年だったと思う)。

1996年春の号で創刊100号となり、竹島氏は編集後記であることを示唆した。

本誌を月刊にしてほしいという声も多く寄せられており、その実現についてもかねて検討中です。

出典:『旅と鉄道』誌1996年春の号(当時、鉄道ジャーナル社刊)

夏と冬の増刊号は、月刊化に向けての布石だったかもしれない。

■84歳で勇退

竹島氏は2006年で傘寿(さんじゅ)を迎え、同年12月発売の『鉄道ジャーナル』誌2007年2月号及び、『旅と鉄道』誌2007年冬の号をもって編集長を退任し、社長兼主筆の立場となる。

2007年に入ると、鉄道ジャーナル社は「季刊のペースでは追いつかない」という理由で、『旅と鉄道』誌の月刊化に踏み切り、豊富な連載記事とルポなどの構成による"読みもの雑誌"とした。季刊誌時代に比べ、ビジュアル面を抑えただけではなく、雑誌で重要な特集を組んでいない。

同年9月に月刊化してから、わずか1年4か月後、発行部数の伸び悩みによる収支の悪化により休刊。さらに、『鉄道ジャーナル』誌も2010年3月号(同年1月発売)から発売元が成美堂出版株式会社に変わった(発行所は従来通り鉄道ジャーナル社。以降、同社が編集した雑誌、書籍は、すべて成美堂出版の発売となる)。それを見届けたかの如く、竹島氏は同年1月末をもって勇退した

■読む記録映画

私がこの道を志したきっかけのひとつとして挙げておきたいのは、竹島氏の"読みもの"である。

『鉄道ジャーナル』誌が産声をあげたとき、竹島氏は41歳だった。社長兼編集長という立場でも、一記者として取材活動も行ない、数多くのルポを掲載した。流麗な文章と鉄道に対する熱い想いは、"読む記録映画"といえる。改めて著書や誌面を黙読してみると、頭の中で情景を思い浮かべられ、乗った気分にさせてくれる。心が豊かな人間でなければ、「珠玉の名作」や「渾身の傑作」が生まれない。

合掌。

☆備考

・『旅と鉄道』誌は、2011年秋より天夢人編集、朝日新聞出版発売として復刊しています。

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