■作品の厚みよりも分厚い周囲の喧噪
『明日、ママがいない』、予定していた全9話の放送が終了しました。第一話放送終了時点で多くの言及がなされ、その後も毎週のようにこのドラマについて書かれた文章を見ない週はないというほどに大きな騒ぎの中で放送が続きました。
もはや作品そのものが持つ厚みよりも周辺情報の方が分厚いような状況だったと言えるかもしれません。
そういう状況化で作品評を書くというのは、大変に難しいです。できるだけ作品の本質に近づくことが評論の目的だとすれば、この作品は周囲の喧噪があまりにも大きかったので、どんな情報に触れ、どの入り口から入るかで、見え方が全く異なってくるでしょう。
さりとて、児童養護施設や里親制度の実態の専門家でもない僕は、周辺情報まで引っくるめてまとめて論評するだけの知識を持ち合わせていません。せいぜい僕にできるのは僕なりの作品解釈を提示するぐらいですが、理解の一助になれば幸いです。
■描かれたのは子供達の主体性
『明日、ママがいない』は全編を通じて端的なメッセージをわかりやすく発していました。重要なメッセージであればあるほど、台詞によって届きやすくするよう配慮していたように思います。
「可哀想だと思う方が可哀想(1話)」、「心にクッションを持ちなさい(6話)」、「子どもを壊すくらいなら大人が壊れろ(9話)」、「みんなで考えるんだ(9話)」などなど。。。
それは作劇としてはあまり「巧み」なやり方ではありません。わかりやすく作る使命を追ったテレビドラマだからこそ、こういう端的な表現方法を用いたのでしょう。しかし、ともすればクサくなりがちな台詞も役者陣の技量によってカバーしていました。
ただ、台詞に頼らない印象的なシーンも見受けられました。鈴木梨央さん演じるドンキの絡むシーン。2話で里親候補と遊園地に遊びに行った時に、ガラスに映るドンキと2人の里親の「理想的な幸せそうな家族」が写り泣き崩れるシーン。それから8話でドンキが実の母と里親に腕を引っ張られるシーン。
両方から腕を引っ張られるかたちになり、痛がるドンキを見て手を離したのは里親の方で、実の母は引っ張り続けるシチュエーションでは、家族の愛とエゴの違いを台詞に頼らず表現していました。
この作品全体に通底している問題意識は、親と子の関係に唯一の正しい姿はないということです。小ガモの家の4人の女の子の迎えた結末がそれぞれに違うものになっているのが象徴的です。
ピア美は、貧しくなっても実の父親と一緒に暮らすことを選び、ボンビはかつて自分の理想と思っていたが失望と葛藤の果てに双方の歩み寄りと理解で引き取られ、ドンキは実の母が迎えにくるが、里親を選ぶ。そしてポストは魔王こと佐々木施設長という「育ての親」と暮らすことを選択します。
そしてこの選択は全て、大人の都合ではなく子供達の主体的な選択として描かれます。
「子供達が主体的に人生を選択する」、というのはこの物語の主要テーマとなっています。
親は子を選べるが、子は親を選べないという非対称のある現実に対して、この作品はフィクションの形でカウンターを提示した作品と言えると思います。
主要な舞台となった「コガモの家」は、はっきりと言及されていませんが、おそらく無認可の養護施設でしょう。(それを匂わせるようなやり取りは魔王とアイスドールの間にあった)非正規なので、特定のエージェントとだけ独自のシステム「お試し」を実施できているのでしょう。
この「お試し」という制度は、子供が家族を選択する手段として描かれます。ここでの選択の主体性は完全に子供側にあるシステムとなっていました。このようなシステムを実施している理由は、施設長がかつて妻を救うために中絶をさせる、という「大人の都合」で生まれてくる命の芽を摘み取った苦悩からきていることが明かされます。(中絶の是非については踏み込んでいませんでした)
またこのコガモの家という名前にはこういう意味があるとする解釈もあるようです。
子供達の主体性という点では、名前も重要なモチーフとなっていました。本名ではなく、ニックネームで呼びある彼女/彼らはそのニックネームを主体的に選択していました。そして自分の居場所を見つけた時、初めて本名が明かされ、それを持ちいるという運びにしています。
最終話で芦田愛菜さん演じるポストは、事故で子供を失い、心の病となった女性の娘を演じて家族になろうとするのですが、その偽りの名前「あい」では本当の自分ではなく、幸せに繋がらないと諭され、最後に施設長とのプリクラの2ショットで本名が明かされます。
まさにこのニックネームが多くの物議をかもしていたのですが、子供達が自立して居場所を見つけるこの物語で名前がとりわけ重要だったためか、最後まで変更されることはありませんでした。
この作品は養護施設の実態を告発する意図などがあったわけでもなく、子供達の選びとる力強さに最初から焦点をあてて作られていたように思います。ただそういう意味では宣伝にミスリードがあった可能性は否定できません。
ドラマ自体は、表現の自由であり、フィクションであることは明らかです。ドラマの中では「児童養護施設」と言う表現はなく「グループホーム」と言う架空の場所を設定しています。
テレビ局の宣伝戦略が間違っているのです。
とこちらの記事は指摘していますが、それは間違いではないと思います。実際にドラマ内ではっきりと児童養護施設だと言及したシーンは記憶にありません。
■1話で提示された逆説
フィクションによる誇張の問題についても少し書いておきます。
この作品はドラマであり、誇張された表現があります。それが実態と解離していることは当然あり得ます。それはこのドラマだけでなく、全ての表現物に対して言えることです。フィクションだけでなく、ニュースでもドキュメンタリーでも同様です。
昨今いろんなコンテンツが世の中にはありますが、誇張やバイアスがあって僕らに提示されています。
それでも題材によっては配慮が必要になるわけですが、その配慮とはなんなのでしょうか。配慮が必要な題材と必要ない題材はどのようにして決定されるのでしょうか。
児童養護施設での職員と子供達の暮らしを描いたドキュメンタリー映画「隣る人」のパンフレットに掲載されていたインタビューで、「光の子どもの家」の理事長菅原哲男氏がこういうことを語っています。
「児童虐待防止法ができあがるころ、いろんなメディアから取材申し込みがあって、私たちはこどもが特定されないように相当な規制をかけて許可した経緯があったんですね。その規制は例えば、子どもの顔にボカシをかけたり、「光の子どもの家」の「ひ」の字も出さないようにしたり。
ニュースの間に挟まれる特集だったのですが、それを子どもたちも見ました。中高生女子がターゲットになっていたので、その子たちがとてもショックを受け、非常に不快だったようでした。「わたしたちは何か悪いことをしたのか」と。悪いことをして、非行少女みたいなことでボカシを入れたのかと、私のところに抗議に来たのです。
そのとき、胸を突かれる思いがしました。守るつもりが差別をしていた。
<中略>
たとえば、私に抗議に来た女の子たちは「甲子園に出る高校球児たちは誰もボカシが入ったりしない」と言うんですね」
出典:隣る人パンフレット 発行日2012年5月12日 編集:大澤一生 ©アジアプレス・インターナショナル
ドラマや漫画などで高校球児たちが誇張されて描かれることはあります。では養護施設の子供達はどうなのでしょうか。ボカシという配慮(という名の差別と菅原さんは解釈しておられます)こそが子どもを傷つけたとしたら、誇張して描かないという配慮は果たしてどう受け止められるものなのか。
菅原さんは「守るつもりが差別をしていた」という言葉は『明日、ママがいない」の提示した逆説「可哀想と思う方が可哀想」にも通じるものがあるかもしれません。
映画のパンフレットのインタビューによれば、その後光の子どもの家では取材に関して子供たちがOKなら親の承諾を得た上で顔出しも認めるということになったそうです。子供達の主体性を尊重した判断です。
このドラマは、第一話の時点でこの逆説に触れていました。第一話の時点で実はきちんと方向性を示していたのではないでしょうか。
『明日、ママがいない』について前回書いた時には、誰も傷つけない表現などない、と書きました。それと真逆のことも言えると思うのです。誰のためにもならない表現もまたないのではないか、と。
このドラマが施設関係者を傷つけた可能性はあります。しかし同時に誰かの心を救っているかもしれない。ネットでは多くの賞賛が寄せられましたが、もし少数でもこのドラマが誰かの心を救っていたのなら、放送された価値はあるのだろうと思います。
誰かを傷つけるかもしれないので、表現は規制がされる必要があり、誰を救うかもわからないから表現の自由は守られる必要もある。表現の自由と受け手の選択の自由の2つをできる限り尊重する以外、このジレンマに対する回答はないのだろうと思います。
陳腐な言い方ではありますが、だから「みんなで考える」しかない。施設長のこの最後の台詞はドラマの締めとして適切だったんじゃないでしょうか。
(2014年3月17日「Film Goes With Net」より転載)