「砂時計」のように、スペシャリストからゼネラリストへ転身しよう

人生というのは、砂時計のようなものだ。上部は広く、人生で何をするのかわからない状態。どんなことにも道は開かれている。そしてゆっくり自分の専門、焦点を決めていって、中央の細い部分を猛スピードで駆け抜ける。やがて、うまくいけば、自分の専門からより視野を広げて、ゼネラリストとして活躍する。

 人生というのは、砂時計のようなものだ。

 上部は広く、人生で何をするのかわからない状態。どんなことにも道は開かれている。

 そしてゆっくり自分の専門、焦点を決めていって、中央の細い部分を猛スピードで駆け抜ける。

 やがて、うまくいけば、自分の専門からより視野を広げて、ゼネラリストとして活躍する。

 この比喩は「Hourglass Theory of Life(人生の砂時計理論)」というMediumの記事に紹介されていた。

 とくに目新しい考えではないけれど、砂時計に喩えるところがとてもわかりやすいなと思った。

 これを読んで、僕が会社員時代に大きく失敗したことのひとつに、「スペシャリスト」から「ゼネラリスト」への転換がうまくいかなかったことがあったなと、苦い気持ちで思い出した。

 係長や課長時代が一種の「スペシャリスト」であるとするならば、部長に求められるのはより「ゼネラリスト」的な考え方や行動であり、そのことは、みんなわかっている。

 それでも、僕のように失敗する人間がいる。

 わかっていながら、なぜ僕が、砂時計のように、会社の中で自分の生き方を変えることができなかったのかをシェアしてみたい。

 僕は19年間百貨店にいたわけだが、家庭用品の売場に半分、残りの半分は営業企画部にいた。

 おもにキャリアの前半で家庭用品の小売に関するノウハウとマネジメントを学び、後半には催事企画を担当して思いっきり仕事をさせていただいた。

 百貨店の主力はなんといってもファッションなのだが、ファッションに苦手意識をもつ僕は、食器などの手の仕事を扱える家庭用品での仕事が、居心地がよかった。

 催事企画というのは、百貨店が催事場でやっている「北海道展」とか「大皮革市」とかの企画をする部署で、課長をやらせていただいていた間は、年間を通じてどんな催事をやってどうやって売上をつくっていくのかということをプランニングし、また、自ら動いて新しい企画を考えて実施することもやって、死ぬほど働いた記憶がある。

 さて、僕は与えていただいたそのキャリアパスのなかで仕事をして、「家庭用品」と「催企画」の専門家になった。

 社外に通用するほどの評価だったかどうかは心もとないが、少なくとも自分ではそう思っていた。

 「売上や利益への貢献は少ないとしても、家庭用品部は、お客様の生活を豊かに彩るための提案を、それぞれの百貨店なりの個性を出してお見せできる重要な部門」と思っていたし、「経費のかかる低収益な催事でお客様を集めるのではなく、高収益な元売場でコンスタントに売上を稼ぐのが理想だが、現実には、店の売上の◯分の1を占めている催は日銭を稼ぐなくてはならない部門」と誇りを持っていた。

 しかし、ちょうど僕が催企画課長をやっていた頃、百貨店もこのままでは立ちいかないとして、さまざまな改革が行われた。

 いろいろな改革が行われたが、

・家庭用品などの低収益部門の圧縮

・経費のかかる催事場の大幅な圧縮

・仕入れ機能の本社への集約

 などが僕を直撃した。

 それまでどちらもメインストリームではないとの認識はあったものの、その存在意義を信じて死にもの狂いでやってきた、「家庭用品」と「催」は、切り捨てるべきものに変わってしまった。そうと言われたわけではないが、おまえのやってきたことは、"必要「悪」"だったと、言われたように受け取った。

 また、僕は、百貨店のようなせいぜい10数店舗しかない店舗グループは、現場が仕入れ権限をもつほうが、現場で働く人にとっても、商売上のメリットもあるという思いを強く持っていた。それも、真っ向から否定されたと感じた。

 ちょうどその頃、会社は僕を催企画からはずして、プロパー企画(元売場のディレクションをする)に移して下さった。

 それはどうみても、「ゼネラリストになれ」という厚情であった。「プロパー企画」というまた別のスペシャリストになれということではなく、ゼネラリストとして会社を担えというメッセージだったと思う。

 しかし、それが上手くいかなった。

 どれほど勉強しようにも、もともとオシャレでない僕には、やっぱり、ファッションがわからないと思えて仕方がなかった。

 ファッションがわからなければ、それぞれのシーズンに何を打ち出していくべきか、わかりようがない。

 何かを言っても、自分の言葉にはアンカーがないような気がして、若い連中に否定されるたびに自分の意見を変えた。

 あと何年か頑張ったら、あるいは、もう少しストレスをうまく制御できたらなら、僕はその場を乗り切ってゼネラリストになれたのかもしれない。

 でも、上手くいかないとなると、かって知ったる専門家に戻りたくなった。

 僕が20年近くも積み上げてきたキャリアを無用のものと声高に言っていることに大きな憤りを感じ、自分の会社人生は無駄だったのか、自分はやはりいるべき場所にいないのだ、と感じるようになった。

 そして、結局のところ、僕は会社を辞めてしまった。  

 僕が会社を辞めたとき、最初にやろうとしたのは、催事企画をネットで提案するBtoBであり、たしかに、その時は、自分の専門性を貫くことで身を立てよう、自分の人生を無駄にしないようにしようと思っていたのだ。

  実のところ、僕が最後にやらせたいただいたプロパー企画担当のポストは、花形のポジションだ。

 社長や取締役、店長の多くが、そのポストを経験している。

 しかも、もちろん、そのポストをこなすために「ファッションの専門家であった」ことが必須ではなく、たとえば会社でもっとも重要な地位にいるある先輩は、家庭用品出身で、ファッションの売場経験はないのである。

 僕のこの話に何がしか、役に立つことがあるだろうか。

 こうして振り返ってみると、感じることは多くあるのだが、ちょっと、書くのが辛くなってきたので、これ以上、過去の失敗を書くのはやめることにしたい。

 お前は馬鹿だから、と思える人には無用な体験談だろう。

 でも、何がしか心にひっかかる方は、「スペシャリスト」から「ゼネラリスト」へ変身することは、まさに「脱皮」のような難しさと辛さがあるということは、知っておかれると良いと思う。 

 砂時計のように、

 狭いところを駆け抜ける時は、集中して猛スピードで、

 広いところへ出たら、ペースを落として、充分に周りを見て、

 ゆっくりと広い裾野の山を高くしていこう。

 あなたの健闘を祈る! 

PS 言葉足らずでした。だれもが必ず「ゼネラリスト」を目指すべきということではなく、「スペシャリスト」を極める人生もあると思っています。ただし、「スペシャリスト」で極めたつもりが、世界が変わり、僕のように意味がなくなってしまう危険があることは覚悟しておかなくてはならないかもしれません。

photo by Chris Zúniga