沖縄戦遺品の効果的展示を目指して

体験者不在の社会にも戦争の記憶を感じ継ぐために、私の創意が多少なりとも役立てば良いと思う。

私は2017年4月以降、国吉勇氏から沖縄戦遺品を借り、内地中で展示する活動を続けている。国吉氏は6歳で沖縄戦を体験し、戦後約60年に渡って沖縄の壕から戦没者の遺骨・遺品を収容してこられた方である。

その活動も2年目に突入し、初期の展示の浅はかさ・至らなさが浮き彫りになってきた。そこで今夏、私は展示内容を大幅に刷新した。今回はその改変の内容の紹介を通し、沖縄戦をどのように伝えれば良いか私見を述べたいと思う。

  • 民間人遺品の展示の拡充

展示品の構成を変えたことが最も重要な改善事項である。国吉氏の遺品は(1)食器・タンスの部品・文房具などの民間人の遺品、(2)手榴弾・地雷などの武器や軍人の装備などの軍用品、(3)注射針・薬瓶などの医療用品の3カテゴリーに大別される。ただ、元々民間人が使用していた壕も日本軍に陣地壕・野戦病院壕などとして接収されていったため、大半(数を数えたことはないが、目視では8割程度)の遺品は日本軍の活動に関係するカテゴリー(2)・(3)に属するもので、民間人のものは少ない。当初の展示は国吉氏の資料館で中心的な遺品を満遍なく見せようとしていたため、日本軍関係の遺品が中心的になってしまっていた。

ただそのような展示は靖国神社の遊就館のごとく、軍事賛美に繋がる危険がある。実際軍事品目当てで来場し、「日本軍の持ち物は格好良い」といった感想を残していく人も散見された。このような危険性を理由に、遺品を用いて戦争記憶を継承しようとする試み自体を批判されたこともある。

そこで、今夏から日本軍関連の遺品を大幅に減らし、民間人の遺品の割合を増やした。沖縄戦の最も凄惨な点は壕追い出し・食糧簒奪・強制集団死など日本軍による抑圧によって、現地住民の犠牲がいたずらに増やされたことにある。食器や家財道具など、現在の日用品と大きくは変わらない民間人の遺品は、私たちの日常と本質的に変わらない生活を営んでいた民間人の命を簒奪した地上戦の非人道性を直感させる。軍事賛美は戦争を自分とは関係の無い軍人同士の営み、つまり他人事(エンターテインメントだと捉えている人さえいるだろう)だと見做すところに端を持つ。民間人の遺品には、このような状態を打破することが期待される。

それでもなお日本軍関連の遺品は6割強に上る。内地に持ち出すのに耐えるほど出土状態が良い遺品はそれほど少なく、バラエティに富まないのだ。ただ、民間人の遺品が出土することを強調した上で軍関連の遺品を見せれば、本来地域住民の生活空間であったはずの壕が日本人に奪われたという構図が浮かび上がると考えられる。今年の展示の観覧者の多くは「壕の中で長く暮らそうという人がいたというのが印象的だった」というような感想を伝えてくれているので、概ね私の思惑は汲み取っていただけているようだ。

机1つを埋め尽くすほどに規模を増やした民間人の遺品
机1つを埋め尽くすほどに規模を増やした民間人の遺品
  • 主体的思考の動員

遺品は自ら語り掛けることがない。従って、地上戦の実相をどれほど汲み取ることが出来るかは、それぞれがどれほど遺品に発問し、想像力を発揮できるかに依存する。例えば、タンスの部品や着物を仕立てる道具を展示しても、「なぜそのようなものが出土するのか?」という疑問を持たなければ、住民たちは壕を内地の防空壕のような一時的な避難場所ではなく、長期間生活することを見込んだ「第二の家」だと見做していたことは実感して貰えない。

当初は遺品から読み取ることの出来る事柄を全て解説文に書き込み展示していたが、大量の情報を一方的に与えたとしても、観覧者は情報量に気圧されて、自ら情報を受け止めようとしてくれることは少なかった。そのため、初年度の展示では、既に解説文に書いたことを質問されることが多かった。

情報を出すだけでは観覧者は思考停止し、畢竟遺品が印象に残ることもないのではないか。その反省を活かし、今年度から解説文に出来るだけ発問や観察のポイントなどを入れ込むようにした。タンスの飾りには「なぜ壕からタンスの部品が出土するのか?」、民間人と軍人のお玉を並べておいたところには「2つのお玉はどのように違うか?軍民はどのように判別出来るか?」、火炎放射で炭化した米には「米だと判断する根拠を探してみてください」などと、観覧者に直接問いかける文を入れ込むことで、観覧者が自分で遺品の調査をするかのように主体的な姿勢で遺品に向き合うようになることを狙っている。このような問いかけを通して初めて、壕が沖縄住民にとってタンスを持ち込むほど長期生活を見込んだ場であったという実状や、脆い調理器具しか使えなかった住民と丈夫で時に意匠を凝らした道具に恵まれた軍人との間の格差などが具体的に認知されるのではないだろうか。実際観覧者が遺品の前で歩みを止める時間は昨年より格段に長くなった実感はあり、それぞれの遺品の持ち主はどのような最期を遂げたのか、などと想像を巡らせながら遺品を見て下さっているように思う。

最初の改善点(民間人遺品の展示の拡充)にも通じることだが、目下の課題は現状の展示手法はこちらの解釈や思い(「民間人の犠牲を強調したい」「軍民の格差を感じて貰いたい」など)を押しつけてしまう危険性を持っていることだ。私が展示を通して訴えているメッセージは、国吉氏をはじめ、私に体験談を話して下さった沖縄戦体験者が強調した事柄であり、私にはその内容を内地の人に伝え継ぐ責任があると考えている。その一方、私の展示が観覧者の思考の自由を完全に奪うものであれば、危険なプロパガンダと同類になってしまう。展示によって観覧者が沖縄を見る視点がどのように変わった(もしくは変えられた)か、などのフィードバックを丁寧に調べることにより、自由な観覧と展示のメッセージ性とを両立する手法を探らねばならない。

観覧者への問いかけなどを含む遺品の解説文
観覧者への問いかけなどを含む遺品の解説文
  • 遺品・史実・体験談の相互作用

沖縄戦遺品展とは言うものの、遺品だけを並べてあるわけではなく、沖縄戦の歴史的事項の概説や、国吉氏をはじめ私が取材した沖縄戦体験者の方々の体験談も併せて展示している。その際意識しているのは、遺品・史実の説明・体験談との間に連関を持たせることである。

まず遺品は可能な限りその遺品を使った人や使われているのを見た人の証言と共に展示している。例えば、ピンセットなどの医療器具には学徒隊として従軍看護業務に従事し切断手術や銃創からウジをとる治療に当たった当時の女学生の証言を、またコンドームには那覇市内の民家に設けられた朝鮮人慰安所の慰安婦と現地住民・日本軍との交流の実態に関する証言を添えている。

また、沖縄戦の概説も独立した時系列の羅列にするのではなく、沖縄戦史の節目(10・10空襲、日本軍の南部撤退、解散命令など)ごとに対応する体験談を織り込んでいる。沖縄県立平和祈念資料館のように戦史の概説を終えてから戦争体験談をまとめて展示するのとは違う手法を選んだのだ。そうすることで、体験者の方々の感情や戦争への関わり方が、沖縄戦が泥沼化するにつれてどのように変容したか、また軍国教育や戦時中の出来事に対する反応がその人の立場・境遇(性別、年齢、居住地、日本軍との関係など)によってどう違うかなどを感じ取っていただけるからだ。例えば、もともと軍国少女だった学徒隊員が、部隊に解散命令が出され自力で生き延びることを命じられた結果、自決を考えるほど追い詰められる様子は、軍国教育を受けているとき・動員されたとき・解散命令が出されたときなど、感情の転換をもたらした出来事そのものの説明と対応させて記述することでより生き生きと描き出すことが出来るし、一般的な沖縄戦史の説明に具体性・個人性を持たせることにも繋がる。また、農家出身の学徒隊員は、公務員を父に持ち(従って軍の活動の内実を知る機会を持つ)体格を理由に鉄血勤皇隊を中途除隊になった男子学生よりも軍国主義へ激しく傾注したというようなことも、同時期の愛国心の強さの比較や、同じ出来事に対する捉え方の差などを読み取れる展示にすることによってこそ、はっきりと示される。

このような展示手法により、遺品・史実・体験談が、同じ戦争を違う側面から切り取るものとして相互に結びつけられる。その結果、教科書的でマクロな戦史の記述に留まらない、遺品の持ち主や語り部個人の視点から見たミクロな戦争の実相を描写することが出来るのである。

史実の解説と体験談とを組み合わせたパネル
史実の解説と体験談とを組み合わせたパネル
  • 国吉氏自身に関する展示の充実

最後の改善点は国吉氏のライフヒストリーを展示の主軸の一つにしたことだ。昨年は遺品そのものに焦点を絞るため、国吉氏に関する直接の言及は最小限に留めていた。今振り返れば、国吉氏のことを遺品の解説文のもととなる情報を教えてくれるデータベースのように扱ってしまっていたことは否めない。

しかし、国吉氏からの聞き取り調査を進め、「戦後すぐ、北部の収容所に埋めた母の遺骨を掘り起こし、那覇の家の墓に埋葬し直した」「戦死した兄の遺骨は見つからず国から珊瑚が送られてくるのみだった」「小学校高学年になり、肝試しで壕に入ったとき、誰に弔われることもなく放置されている遺体の存在を知った」などと繰り返し語られるのを聞くにつれて、60年間遺骨・遺品収容を続けてきたということ自体、氏なりの戦争体験への向き合い方なのだということが判ってきた。国吉氏の戦争体験の中に氏を60年間収容に突き動かし続けた原体験があり、それを探ることで戦争の精神的影響力の強さに迫ることが出来るのではないかと考えたのだ。一般的に戦争体験者の講話で戦後の思い出が語られることは少ないが、国吉氏の体験談は戦後を生きる戦争体験者が自分の記憶にどう対峙したかを考える上で示唆に富む。

国吉氏は「埋まっている遺骨を日の当たるところに出し、遺品を遺族に返したい」という正義感から収容を続けてきたという。その一方、国吉氏は武器に関する熱弁を振るい、時に軍歌を口ずさむこともある。幼稚園の時から軍国教育を受け、軍人の兄を持ち、戦後も米軍の施設のすぐ隣で育った氏にとって、軍用品への興味が動機の一つになっていることは否めない。過酷な疎開と肉親の死を強いられた民間人としての一面、軍国教育に染められ軍人の兄に共感する一面、壕や遺品に興味を引かれる一面、そして純粋な正義感から収容に駆り立てられる一面など、多面性を持つ国吉氏の生身の振る舞いをそのまま受け止め展示に活かすことで、自己矛盾を抱えながら戦争の記憶と格闘する体験者の心の内を垣間見ることが出来るのではないかと考えている。

合計35時間ほどのヒアリングを行った現在の課題は、国吉氏の体験に対する新たな切り口に不足している点だ。ほぼ一人で連続して調査をしていると、質問の傾向が似通ってきて、同じ答えを何度もされることが増えてきた。私がもっと聞き取りの技術を磨くと共に、私とは違う関心を持つ人の協力を得ることが急がれる。さらに、年を重ねるにつれて国吉氏の記憶も朧気になってきた。同じ質問に対する答えが日ごとに変わることもしばしばある。そこで客観的に国吉氏を見てきた人、特に国吉氏と共に収容をしてきた人に対する聞き取りも必要だ。そのための遺骨収容OB/OG会作りなどにも乗り出せれば、と考えている。

全ての改善点に共通している私の狙いは、民間人が巻き込まれたという沖縄戦最大の悲惨さを強調すること、意図せず戦争に組み入れられた方の個人的な視点から戦史を描き出すこと、そして戦争を知らない観覧者が少しでも体験者の心情に寄り添えるようにすることだ。体験者不在の社会にも戦争の記憶を感じ継ぐために、私の創意が多少なりとも役立てば良いと思う。

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