東京大学医科学研究所教授 河岡義裕氏 ロングインタビュー 後編
インフルエンザウイルス研究で世界をリードする東京大学医科学研究所河岡義裕教授。前編では、Nature Microbiology に掲載された論文2報を中心にお話を伺った。後編では、これまでのインフルエンザウイルス研究、その研究の重要性・有用性と悪用の危険性、社会とのかかわり方について語ってもらった。
―― 河岡先生は、1918年に大流行した「スペイン風邪」の原因ウイルス(H1N1)の強い毒性に関与するタンパク質を特定したり、季節性インフルエンザと鳥インフルエンザが交雑すると病原性が増強されることなどを突き止めたり、多くの成果を挙げてきました。しかし、一方で人工的にウイルスを作る技術を開発し、ウイルスがテロリストの手に渡ると危険であると言われることがありました。
河岡氏:前編でもお話しました、1999年に人工的に感染性を有するウイルスを作製できる「リバースジェネティクス」を開発した時は、米国中央情報局(CIA)が来ました。テロ国家とコンタクトはないか、特定の国のラボに技術を提供していないか、調べに来ました。
―― 2011年には、河岡先生の研究チームがNature に投稿した「鳥インフルエンザウイルスH5N1」に関する論文に対して、米国のバイオセキュリティーに関する国家科学諮問委員会(NSABB)から掲載を見合わせるよう勧告を受けたことがありました。背景、実態は何だったのでしょうか。
河岡氏: 当時は、H5N1鳥インフルエンザウイルスが猛威をふるい、アジア・アフリカを中心に人間にも感染し、多くの人が犠牲になっていました。特徴は、強毒性、致死率が極めて高いということです。6割近くに達し、鳥からヒトへの感染だけでなく、ヒトからヒトへ感染が広がる新型インフルエンザに至るのではないかと騒がれていました。
我々は、このウイルスが、どう変異すればヒトからヒトへ空気感染するのか調べました。驚くことに、鳥インフルエンザウイルスH5N1の遺伝子13,500か所のうちわずか4か所が変異するだけで、哺乳動物のフェレットで空気感染することがわかったのです。つまり新型インフルエンザになりうるということを確認できました。
―― どうしてこうした勧告が出されたのでしょうか。
河岡氏: 実験は非常に安全でセキュリティーの高い環境で行いました。遺伝子操作したウイルスが外に漏れ出ない「バイオセーフティー」の最高水準であるBSL4に近いBSL3施設で行っていましたが、テロリストなどの手に渡らないよう「バイオセキュリティー」の面でも適切に対応していました。カメラ監視のほか訪問者の制限、研究者のFBIによる履歴調査など当局の監視下にあったのです。
しかし、米国国立衛生研究所(NIH)の諮問機関であるNSABBは、我々とオランダの研究チームの2つの論文は「生物テロに悪用される可能性ある」とNIHに答申。NIHは、Nature やScience への掲載を一部見合わせるよう求めてきました。具体的には、伝播力を高めるウイルスの作製法とアミノ酸変位の記述部分です。これに対し、日米欧の科学者39人が60日間(実際には1年間)、ウイルスの研究を停止するとの声明を出しました。
―― しかし、その後、公表されることになりました。
河岡氏: 実際のところ我々研究者は、掲載見合わせは安全面から考えても(後述)、科学の発展からも不適当と思いました。この情報をもとに、有効な治療薬やワクチンが作られるからです。世界保健機関(WHO)は2012年2月17日にジュネーブで専門家会議を開き、論文の発表は将来的に公衆衛生に資するということで、全文公開を勧告することになりました。これを受け、NSABBは翌月の3月30日に、論文の全面公開を勧告したのです。結局、我々の論文は、Nature 6月21日号(オンライン掲載5月2日)に、オランダの研究チームの論文はScience 6月22日号に掲載されました。
図1:NSABBによる河岡教授らの論文の全面公開勧告のサマリー
―― この一連の騒動は科学の両義性「デュアルユース」に関する問題を提起しました。
河岡氏: 科学技術の成果は、このインフルエンザウイルス研究に限らず、公共の福祉にプラスになるものと、テロや軍事への悪用・応用というマイナスの側面を持っています。例えばナイフやダイナマイトは有用ですが、一方で使われ方によって多く犠牲者が出るという悲劇も生み出しています。要は科学研究の成果は、それをどう使うかという問題になります。
科学者、研究者は常にポジティブな面とリスクがある面を自覚し、どうしたらそのリスクを最小限に抑えてベネフィットにつなげられるか考えなくてはいけない。このウイルス問題でいえば、研究によるリスクはゼロではないが、何もせず同じようなウイルスが自然界で拡大してしまうのを待つのか、安全な環境でウイルスを作製し治療法につなげるのか、一般の人がどう思うかということにあります。
そのためには安全な施設で研究しているといった情報を公開するなど、科学者が信頼されること、そのために努力することも大事なわけです。
―― 確かにそのとおりですね。科学者の姿勢が大事ということですね。
河岡氏: 今回の研究の過程でもCIAが我々のラボに訪ねてきました。研究の重要性やセキュリティーが万全であることを説明しました。しかし、我々がそのような説明をする前にCIAは、このウイルスがテロに使われる可能性はないとの判断を下していました。
―― インフルエンザウイルスの作製以外に取り組んでいるテーマはありますか。
河岡氏: 効率よいワクチンを作るには抗原変異を予測することも大事ですが、ワクチン製造の過程ではもう1つ、どうウイルスを増やしていくかもとても重要です。現在は、ワクチン製造のために、人間の細胞内で増えるインフルエンザウイルスを発育鶏卵の中で増やしていますが、この方法では抗原性が変化するという欠点があります。HA(ヘマグルチオン)の構造が変わってしまうのです。
この欠点を克服するため、培養細胞の中で増やせないか取り組んできました。しかし、ヒトのインフルエンザウイルスは培養細胞ではあまり増殖しません。そこで我々は、ワクチンの効果に影響を及ぼすHAはいじらずに、培養細胞でもよく増殖するウイルスを作製することを試み、成功しました(参考文献1)。
―― どう工夫されたのですか。
河岡氏: 着目したのは、ウイルスのエンジン部分であるRNAポリメラーゼ(RNA合成酵素)です。これを遺伝子操作することでよく増えるようにしました。この研究も実用化に向けて動き出しています。すでにA型のインフルエンザウイルスで成功し、B型ウイルスでも同様の取り組みを行っています。
―― 河岡研究室は、インフルエンザウイルス以外に、エボラウイルスの研究でも多くの成果を挙げていますね。
図2:エボラウイルスの写真
写真提供:京都大学ウイルス研究所 野田岳志教授
河岡氏: エボラ出血熱の原因となるエボラウイルスの研究は1995年から続けています。2014年からエボラ出血熱が西アフリカのギニアから隣国のリベリア、シエラレオネに急速に拡大し、WHOは同年8月に「国際的に懸念される公衆の保健上の緊急事態」を宣言しました。3万人近くが感染し、1万人が亡くなりました。そして1年半が経過した2015年12月29日、WHOは流行終息宣言を出しました。
我々は流行まっただ中の2015年2月から8月にかけて、研究室から常に2人の研究者に現地に滞在してもらい、患者さんの血液を集めて、OMICS(オミックス)研究を続けました。
図3:シエラレオネで研究する河岡教授と現地スタッフ
写真提供:河岡義裕教授
―― オミックスとは何でしょう?
河岡氏: タンパク質の構造や働きを解明する「プロテオミクス(Proteomics)」、遺伝子の働きを解明する「ゲノミクス(genomics)」などの研究のことです。患者さんから採取した血液を解析して、興味深いことがわかってきました。感染して亡くなる人と回復する人がいたのです。両者で何が違うのか研究を進め、回復する人に特有のバイオマーカーがあることを突き止めました。これも近く発表する予定です。
―― しかし、流行中に現地でラボを開くのは大変だったのでは?
河岡氏: はい。とても大変でした。研究員は感染しないように厳重に注意しながら、研究を行いました。私自身も4回現地に行きました。
―― 最後に、若い研究者の育成についてお聞きします。現在、先生のラボには何人ぐらい在籍しているのですか。
河岡氏: 米国のウィスコンシン大学マディソン校にもラボを持っており、日米それぞれ30人ほどの学生、研究員がいます。
―― 研究室のメンバーには何か言っておられるのですか。
河岡氏: 特に何も言っていません。研究をするのは彼らですから。ただ、最初は自由に研究をしてもらっていましたが、だんだんいろいろな規制が厳しくなって、自由にしておくと規則違反を起こす可能性が生じてきてしまい、必ずしもよいとは思わないのですが、今では実験をすべて管理するようになりました。
―― 国際色豊かな研究室ですね。
河岡氏: 中国人の研究者は何十年前かの日本人のようにとても精力的です。ただ、日本人研究者もいい結果を出しています。今後に期待したいですね。
―― ありがとうございました。
聞き手 玉村治(科学ジャーナリスト)。
- Nature Communications Article number: 8148 doi:10.1038/ncomms9148
Nature Microbiology 掲載論文
Article: 季節性インフルエンザウイルスの抗原変異株の予測選定
Selection of antigenically advanced variants of seasonal influenza viruses
Nature Microbiology1 : 16058 doi:10.1038/nmicrobiol.2016.58 | Published online 23 May 2016
Article: 宿主タンパク質CLUHはインフルエンザウイルスのリボ核タンパク質複合体の核内輸送にかかわっている
Nature Microbiology1 : 16062 doi:10.1038/nmicrobiol.2016.62 | Published online 16 May 2016
ウイルスの変異を高精度で予測 −−より有効なワクチン開発に道
Author Profile
河岡 義裕(かわおか よしひろ)
東京大学医科学研究所感染・免疫部門ウイルス感染分野 教授
米国ウィスコンシン大学マディソン校獣医学部 教授
1978年北海道大学獣医学部卒業 獣医師免許取得
1980年同大大学院博士課程修了
鳥取大学農学部獣医微生物学講座 助手
1983年獣医学博士(北海道大学)取得
聖ジュード小児研究病院(米国)にてポスドクとして従事
1985年同病院 助教授研究員
1989年同病院 准教授研究員
1996年同病院 教授研究員
1997年ウィスコンシン大学マディソン校獣医学部 教授(現職)
1999年東京大学医科学研究所細菌感染研究部 教授
2000年同研究所感染・免疫部門ウイルス感染研究分野 教授(現職)
2005年同研究所感染症国際研究センター長
野口英世記念医学賞(2002年)、文科大臣表彰科学技術賞(2006年)、ロベルトコッホ賞(同)、日本農学賞・読売農学賞(2010年)など受賞。2011年紫綬褒章受章。2016年日本学士院賞受賞。2013年には米国科学アカデミー外国人会員となる。