思想としての予防医学を考える(予防医学研究者・石川善樹『〈思想〉としての予防医学』第1回)

健康に良いから煙草を吸ってください、と言う医者がいたら、みなさんはどう思われるでしょうか? あまりの非常識さに驚くのではないかと思います。ですが、ほんの最近までそうアドバイスするお医者さんは少なくなかったといいます。
 
PLANETSチャンネルで5月より配信を開始した予防医学研究者・石川善樹さんの連載『〈思想〉としての予防医学』。SNS上でも大反響となったこの連載の初回を、ハフィントン・ポストで無料公開します。 この連載の最新第3回「予防医学が考える『幸福論』」はPLANETSチャンネルにて公開中です!
 
健康に良いから煙草を吸ってください、と言う医者がいたら、みなさんはどう思われるでしょうか? あまりの非常識さに驚くのではないかと思います。ですが、ほんの最近までそうアドバイスするお医者さんは少なくなかったといいます。煙草を吸っている人よりも吸っていない人のほうが死亡率が低いという常識は、喫煙者と非喫煙者の死亡率というマクロな統計――いまでいう「ビッグデータ」――によって初めて明らかになりました。
生理学的な手法だけに頼らず、社会統計的な手法を用いて病気を「未然に」予防するのが、〈予防医学〉です。
この連載では、予防医学研究者の石川善樹さんが、いま注目を浴びつつある「予防医学」を、〈思想〉という観点から解説していきます。
 
▼執筆者プロフィール
石川善樹(いしかわ・よしき)
(株)Campus for H共同創業者。広島県生まれ。医学博士。東京大学医学部卒業後、ハーバード大学公衆衛生大学院修了。「人がより良く生きるとは何か」をテーマとして研究し、常に「最新」かつ「最善」の健康情報を提供している。専門分野は、行動科学、ヘルスコミュニケーション、統計解析等。ビジネスパーソン対象の講演や、雑誌、テレビへの出演も多数。NHK「NEWS WEB」第3期ネットナビゲーター。
6月4日に『最後のダイエット』(マガジンハウス刊)を発売予定。その他の著書に『友だちの数で寿命はきまる(マガジンハウス)』など。
 
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 はじめまして。予防医学という分野の研究をしている、石川善樹です。
 
 いきなりですが、この連載のタイトルにも入っている「予防医学」という言葉ですが、馴染みのある人はどのくらいいるのでしょうか――「予防医学が21世紀の医学の主流になるだろう」なんて言われているのを、聞いたことがある人もいそうです。しかし、そういう人であっても、予防医学について具体的な話を聞いたことは少なそうです。
 
 そこで、まずはイメージをつかむところから始めたいと思います。
 
 

■ かつて「運動は健康に悪い」と言われていた

 
 例えば、予防医学による発見の一つが、「運動は健康に良い」ということです。
 
 ――え、それって常識じゃないの? と思う人もいそうです。
 
 確かに、今となっては、あまりこの話を疑う人はいなさそうです。しかし、19世紀までの人類は、むしろ「運動こそが健康に悪い」と思っていたのです。ですから、例えば郵便局の内勤の人と外勤の配達員とでは、あくせく外歩きをする配達員の方が「早死するんだな、かわいそうに」というくらいに思われていたのでした。
 
 この常識を最初に覆したのは、英国の疫学研究者ジェリー・モーリスでした。彼は1953年に発表した論文で、2階建てバスの乗務員を調べて、運転手と、1階と2階を行き来する乗務員のどちらが健康的なのかを比較したのでした。すると、1階と2階のあいだをせわしなく動きまわる仕事をしている方が健康的で、座り仕事の運転手の方こそが不健康であるというデータが出てしまったのです。
 余談ですが、このモーリスは後に、ロンドンで健康のためのジョギングをした初めての人間となりました。当時の人々は、彼のことを"頭のおかしい人"を見るような目で見ていたそうです。彼の業績は長らく、予防医学の世界でのみ、ささやかに讃えられてきましたが、ついに先日のロンドン・オリンピックで彼の功績が大々的に讃えられることになりました。それは、彼がスポーツ文化に新しい価値を付け加えたことを賞賛してのものでした。
 
 予防医学では、このような統計的手法によって、人間の健康に影響する要因が何かを調べあげてきました。他の予防医学の有名な成果としては、タバコの健康への悪影響の証明があります。今となっては驚くような話ですが、それまではタバコを「健康に良いから吸った方がいい」と主張する医者まで存在したそうです。
 実は結構な数の健康についての常識を、僕たち予防医学の研究者は見つけてきたのです。
 
 こういう手法を、予防医学の世界では「疫学」と呼んでいます。簡単にいえば、英国のモーリス博士がやったように、沢山の人を集めてきて、病気になった人と病気になっていない人を比較して、何が原因だったのかを探り当てていく手法です。
 これは、いわば医学における最初の"ビッグデータ解析"だったと言えるかもしれません。その意味で、現代のIT分野で話題になっているようなトピックについても、いろいろな示唆が与えられるように思います。
 この連載のタイトルになっている『〈思想〉としての予防医学』というのは、こういう話題を本誌主宰の宇野常寛さんにお話ししたときに、宇野さんから連載のタイトルとして提案されたものです。IT分野でのビッグデータ解析の成果と同様に、予防医学のこういう話題には、従来の人文的な思想に対してインパクトの強い話題が含まれているということで、こういう名前を思いついたとのことです。
 
 

■ カナダが80年代に発表した研究結果の"衝撃"

 
 最初にも述べたように、近年は日本でも予防医学について「21世紀の医学の主流になるだろう」という意見を耳にすることが増えてきました。
 
 そんなふうに予防医学が注目されるキッカケになったのは、アメリカが1980年代に提示した衝撃的なデータです。彼らは、当時の国家的な財政危機の中で、本当に「医療制度」が社会全体での健康維持に効果があるのかを調査したのでした。
 
 その結果はというと――なんと、ほとんど効果がないというものでした。
 
 ここでは具体的な算出の過程は省きますが、彼らは健康に影響を与える要因をリストアップして、医療制度・遺伝・環境・生活習慣の4つに絞り込みました。そして、それぞれの病気との相関関係を調べあげて、各々が健康な生活に寄与する度合いを算出したのです。その結果わかったのは、医療制度はなんと1割程度しか寄与しておらず、むしろ病気の大きな要因は、単なる「生活習慣」の問題であるということでした。
 
 そこで、アメリカは「治療から予防へ」という方向に舵を切り替えて、医療制度の改善よりも生活習慣の改善に注力するようになりました。その後すぐに、他の先進国も続いていくことになります。よくアメリカについて、健康に悪いファストフードばかりを食べているというイメージが語られますが、既にそれは過去の話です。喫煙率についても、この20年ほどで米国は劇的に低下しています。
 
 ひるがえって、日本にこの考え方が入り込んできたのは2000年に入ってからのことです。「分煙」などの言葉が、この頃から使われるようになったのを覚えている人もいるでしょう。
 そんな感じの状態ですから、いまやホワイトカラー同士の比較でいえば、日本人はアメリカ人よりもずっと運動量が少なく、コレステロール摂取量も多いというのが実情です。先進国のホワイトカラーとして見ると、もう日本人は決して健康的な部類の生活をしているとは言えないのです。この差は、まさに予防医学の浸透した時期が遅かったことから来ています。
 
▲男女別喫煙率の国際比較。日本は女性は8.4%なものの男性に限っては32%と、男女ともに10%台の米国よりかなり高い。(出典:社会実情データ図録▽男女別喫煙率の国際比較
 
 

■ 「心」が脚光を浴びる、予防医学の現在

 
 さて、そんな予防医学の世界で、最近になって注目されているのが、人間の「心」にまつわる問題です。
 そもそも、予防医学の歴史は、19世紀に「下水道を整備して、コレラの対策をしよう」だとか、「きちんと靴を履かせて、傷口から寄生虫が入るのを予防しよう」だとかというように、感染症対策を研究したことから始まりました。その後、感染症をめぐるアプローチが一段落すると、今度は先ほど述べたように、生活習慣からくる心臓病のような病への対策に移りました。
 しかし、20世紀の人類は素晴らしい発展を遂げて、経済も医療も大きく進歩させました。その結果、平均寿命は右肩上がりになり、先進国の人々はかつてない長寿の時代を迎えています。そういう中で、健康についての予防医学的なアプローチは、ある意味で転換点を迎えているのです。
 
 
 ここで、「予防医学」とは何かについて、簡単に話したいと思います。
 通常の医学というのは、いわば病気になったマイナスの状態をゼロに回復させるものです。それに対して、予防医学の場合には、目的は「健康を維持すること」です。では、健康とはどういう状態なのでしょうか。
 ここで注目したいのは、WHOが発足した時の憲章です。そこには、
 
「健康とは、完全な肉体的、精神的及び社会的福祉の状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない。到達しうる最高基準の健康を享有することは、人種、宗教、政治的信念又は経済的若しくは社会的条件の差別なしに万人の有する基本的権利の一つである」
 
と書かれています。
 ここでWHOは「健康」の定義を「完全な肉体的、精神的及び社会的福祉の状態」と言っているのですが、これは英語で健康を意味するHealthという言葉の語源から来ています。実は、Healthとは「完全な状態」を意味するHealにthがついて、名詞形になったものなのです。したがって、健康とは「完全な状態になる」ことを維持するものなのです。予防医学が目指すのは、まさにこの状態です。したがって、それはマイナスをゼロにして「事たれり」とする考え方とは発想が違ってきます。
 
 そして、もう一つ注目したいのは、「肉体的」にだけではなくて、「精神的」に、あるいは「社会的福祉」の状態としても完全でなければならないとしている点です。
 実は、既に病気になった人へのアプローチとしてはともかく、病気の予防という観点では、既にかなりの程度まで手法は確立しています。それに対して、「精神的」や「社会的」という意味での健康にまつわる、まさに人間の「心」に関係してくるような分野における予防医学のアプローチは、まだまだ進歩の途上です。
 現在、心の健康については、重要な要因として三つの要素があると考えられています。一つは学歴や収入のようなものから生じてくる「状況」の要素です。そして、二つ目が「遺伝」の要素で、三つ目が「考え、及び行動」の要素です。それがどの程度の比率で影響してくるかも研究が進んでいて、大体、「状況」が1割、「遺伝」が5割、「考え、及び行動」が4割とされています。
 
 皆さんは、これをどう思うでしょうか。少し衝撃の結果かもしれません。
 そもそも「遺伝」が心の健康に影響するとは、一体どういうことなのかと思う人もいると思いますが、これは例えば、「人生にどの程度まで満足しているか」や「どの程度、自分を幸福だと思っているか」に関係する要素だと思ってください。
 実は幸福というのは、相当なところまで遺伝で決まると分かっています。ゴキゲンな性格の人は、その家族もゴキゲンな性格である場合が多いのです。もう少し具体的に言うと、その人間の幸福を感じる能力には、遺伝子の17番染色体が強力に影響していると判明しています。この染色体には、5-HTTという箇所があり、これがセロトニンという物質を運んでいます。このセロトニンという物質は、うつ病の患者では分泌が弱くなることが知られており、この移動能力の強弱は幸せを感じる能力の度合いに大きく影響するのです。これが、遺伝によって大きく左右されてしまうのです。
 
 ちなみに言うと、肉体の健康には、遺伝はほとんど関係ありません。身体の健康に大きく効くような遺伝子については、だいぶ進化の過程で淘汰されてしまっているのです。なので、最近になって、遺伝子検査なんかが話題になっていますが、健康への影響を考える上では、単に生活習慣を見たほうがよほど参考になるというのが、予防医学からの見解です。
 
 

■ 寿命を決めるのは"意志決定"

 
 また、「心」へのアプローチという点では、もう一つの重要なポイントが生じているのも見逃せません。
 
 実は現在、途上国においても、予防医学が大きく注目を集めているのです。
 
 もしかしたら、途上国の人というときに、なんとなく栄養失調や感染症で死んでいるイメージをお持ちの人もいるかもしれません。しかし、それは昔のテレビのチャリティー番組などで作られたイメージでしかありません。
 もちろん、エボラ出血熱のような問題は起きていますが、むしろ深刻なのは、そういう感染症で命を落とすことよりも、不健康な生活習慣をやめられずにいることなのです。途上国にはだいぶファストフードの店が進出しているのですが、先進国のように油だらけの食べ物が身体に良くないという認識が充分に浸透していません。そのため、かつての先進国のように「心臓病」での死亡が増えています。一方で、そのことがわかっている日本のような先進国でも、やはりまだまだ、こういう問題が完全に解消しているとはいえません。
 
 とすれば、肉体の健康という点で、最後に残っているのは「不健康な習慣とはなにか」を伝えたり、あるいはそうだとわかっていても止められずにいる人たちの存在をどうするか、という問題になります。感染症などのわかりやすい問題点への対策をひと通り講じてきた21世紀の人類にとって、健康な肉体的生活を行うために最後に残されたのは、「意志決定」の問題なのです。
 
 こういう問題に対して、例えばオリンピックなどのイベントに乗じて、スポーツ施設を整備するなどして環境を整えようとするような発想での対処があります。こういう環境による効果を、予防医学では「レガシー効果」と名づけています。
 しかし、たとえ施設ができて、環境を整えたとしても、ほとんど効果がないというのが判明しています。オリンピックの開催都市では、スポーツ設備が整うのですが、過去のオリンピックを遡って調べると、そこの市民がスポーツに興じるようになったというデータは全く出ていません。もちろん、だからこそ現在、「東京オリンピックはそうならないようにしよう」と関係者が話し合っているわけですが、これまでと同じようなやり方では限定的なものに留まるというのは、重要な論点です。
 
 一方で、意志決定という観点では、もう一つややこしい問題があります。
 20世紀の医学の考え方には、人間は自分の意志を自分だけで決めているというという前提がありました。しかし、21世紀の医学は、ネットワーク理論のような複雑系の視点をそこに取り入れはじめました。その結果、人間が自分の意志で何かを決定しているという前提が揺らぎ始めてしまったのです。
 
 

■ あなたの肥満は友達の友達の友達にまで影響する

 
 例えば、とあるネットワーク科学を用いた研究結果では、ある人が肥満になったとき、それが「友達の友達の友達」まで影響するということがわかってしまいました。
 
 というのも、周囲の人間が太った人を見て、「ちょっと多めに食べてもいいかな」なんて思いだしてしまい、太らないようにするための「規範」が緩んでしまうのです。これ自体がちょっとした驚きではあるのですが、さらに驚くべきことに、その効果は友達3人分まで影響してしまうと判明したのでした。
 ネットワーク科学では、友達6人分のネットワークの繋がりをたどりさえすれば、人類のかなりの人間に到達できるという「6次の隔たり」という話があります。そういう中で、友達3人分、つまり「3次」の人間にまで影響力が及ぶという事実がある――これは、なかなかにややこしい話です。もちろん、影響力は友達のネットワークが遠くになるほど小さくなっていきますが、代わりにその影響する人数は莫大な数になっていきます。
 
 しかも、この効果の怖ろしいところは、近い人から順々に太っていくのではなくて、ある人には太る効果がなかったとしても、その人をスキップして、次の人に影響力が及ぶことがあると判明していることです。
 おそらくは、自分の友人で太った人間の振る舞いを、別の人に話したりすることで、規範の効果が緩んでしまっているのだと思われます。さらに恐ろしい話もあります。それで周囲が肥満するような「規範」になると、今度は自分自身が少し痩せようと努力したところで、またもや周囲の影響を受けてしまい、すぐに太ってしまうという悪循環が起きてしまいます。
 
 現在の予防医学が直面しているのは、こういう問題です。
 もはや、こういう状況で「自由意志」というものを想定することに、どんな意味があるのでしょうか。ネットワーク科学が明らかにしたことを踏まえると、その人の意志決定というのは、顔も知らない友達の友達の友達からの影響をいくつも受けたものだったりするのです。
 そうなると、もはやマクロの問題を考える際に、独立した個人というミクロの集まりが社会というマクロを作っているというような二元論で捉えていては、もう対応できません。むしろ、その間にあるメゾレベル(=中間の領域)ともいえる、人間同士が影響しあうネットワークを見据えて、問題解決を考えていく必要があります。こういう話は、色んな学問分野でも起きていることですが、予防医学でも大きな問題として議論が始まっています。
 
 では、その対応策とは具体的には、どうあるべきなのでしょうか。肥満の問題については、ある意味では驚くような対策が効果的であると判明しました。それは、「社会全体として肥満対策をする際には、太っている人だけを相手にしても意味がない」というものでした。次回は、この話題から始めたいと思います。
 
(次回に続く)
 
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