「貧しい」とはどういうことか

身の丈に合った生き方、身のほどをわきまえた夢――。そういう「手本」が、今の世の中には足りないのかもしれない。小さな自分と向き合うための物語が。

「貧乏な人ほどジャンクフードを食べて病気になってますます貧乏になる」という話を耳にする。「自炊すれば安上がりだし健康的なのになぜ?」と。たぶん、「自炊のほうがいい」という発想そのものが、豊かさの証しなのだ。貧困とは、ただカネがないことではない。文化がないことなのだ。

【閲覧注意】俺の幼女ホームレスフォルダが火を噴くぜ

※胸に来るね、これは。

「実用書だけでなく文学を読みなさい」

「音楽を聴きなさい」

「映画を観なさい」

「美術館に行きなさい」etc......。

こういうことを子供に言う大人たちは、それが本当の豊かさだと知っている。すぐにはカネに換金できない「価値」がこの世にあることを、そしてその「価値」がやがてカネになることを知っている。

路上に生まれ、物乞いをする親に育てられたら、物乞いをする以外の生き方を知らないまま大人になる。売春宿に育った子供は、多くが売春婦になるだろう。「生き方」は誰かから教わらなければ身につかない。子供たちの世界は狭い。その狭さを逆手に取っているからこそ、児童労働は卑劣なのだ。

貧困とは、ただ「カネがない」ことをいうのではない。カネがないから文化に触れられない。文化がないから、広い選択肢のなかから生き方を選べない。選べるだけの能力も身につけられない。一言でいえば「自由がない」

たとえ手かせや足かせがなくても、文化を持たないとそれだけで不自由になる。

ただカネを渡すだけではダメなのだろう。リンク先の写真にも「ストリートチルドレンを保護する施設」の画像があったが、絵本を読ませて、読み書きそろばんを教えて......そういう地道な教育がなければどうにもならないのだろう。並みの覚悟では出来ないし、支援に携わっている人には頭が下がる。

宮部みゆきの作品に、『片葉の葦』という短編小説がある。

江戸の町にはストリートチルドレンがたくさんいたという。主人公の青年もかつてその一人だったが、いまは蕎麦屋で働いている。そんな彼のもとに、とある豪商が殺されたといううわさが飛び込んでくる。豪商の娘に疑いがかかっているらしいのだが、主人公の青年は「そんなはずはない」と言う。彼は豪商&娘の親子と面識があった。幼いころ、飢えて死にそうだったところを、娘に握り飯を恵んでもらって命を繋いだのだ。彼女は主人公にカネを恵もうとしたのだが、それを父親に見咎められる。豪商の男は「カネを恵むな」と言った。

宮部みゆきの短編のなかでも、かなり好きな作品だ。初めて読んだ中学生のころは「カネも恵んでやれよ」と思った。が、いまはだいぶ考え方が変わった。自活経験のない人が世間的に半人前として扱われてしまうのは致し方なし、と思っている。「働いていること」しか誇れるものがない――そういう人は多い。

「新しい生き方」を編み出せるのは、ごく一部の天才だけだ。私たちは「生き方」を誰かから教わらなければ生きていけない。貧民窟の娘たちがゴミを拾い、カラダを売るのは、周りの大人たちがそうしているからだ。私たちは「生き方」の手本がなければ生きていけない。誰もが4番バッターになれるわけではないし、誰もが「世界を救う冒険物語」の主人公になれるわけでもない。私たちは平凡な小市民で、小さなしあわせに一喜一憂しながら一生を過ごす。

身の丈に合った生き方、身のほどをわきまえた夢――。そういう「手本」が、今の世の中には足りないのかもしれない。小さな自分と向き合うための物語が。

夢を諦めろと言いたいのではない。人の足を止めるのは、絶望ではなく諦観だ。人の足を進めるのは、希望ではなく意思だ。どんなにちっぽけな存在でも、私たちはこの世界の一部だ。一人ひとりの小さな夢の実現が、やがて世界を変えていく。

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※そもそも「きちんと育ててくれる親がいる」という時点で、すっげー恵まれてんだろうな。

(※この記事は2012年5月31日の「デマこいてんじゃねえ!」より転載しました)

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