ネットでは「誰が言ったか」よりも「何を言ったか」/匿名主義の信条

ブログを始めたとき、匿名で行こうと心に決めた。経歴も肩書きも秘密のまま、どこまで行けるか試すことにした。理由は2つある。まず、ブログは共感と代弁のメディアだからだ。そして、ネットでは「誰が言ったか」よりも「何を言ったか」が大切だと信じているからだ。この2つの信条を証明したくて、私は匿名で書き続けている。

ブログを始めたとき、匿名で行こうと心に決めた。

経歴も肩書きも秘密のまま、どこまで行けるか試すことにした。理由は2つある。まず、ブログは共感と代弁のメディアだからだ。そして、ネットでは「誰が言ったか」よりも「何を言ったか」が大切だと信じているからだ。

この2つの信条を証明したくて、私は匿名で書き続けている。

ブログの面白さは、自分によく似た他人と出会うことにある。

「自分の思ってることを言葉にしてくれる人がいた!」

「自分のモヤモヤをズバッと説明してくれる人がいた!」

そういう書き手に出会うことが、ブログを読むときの喜びだ。だからブログの書き手は、余計な経歴など明かさないほうがいい。どこの誰とも分からない無色透明な存在でいたほうがいい。読者は自分の望む「書き手像」を自由に想像できるからだ。

たとえば年収150万円で生きられると訴える人が、推定年収500万円であることをどう考えるのか。ニートとして生きようと訴える人が、一流大学卒の脳みその持ち主だということをどう考えるのか。若者に発破をかける書き手が、マッキンゼーのOGであることをどう考えるのか。

脱社畜を訴えるブロガーが、東大卒・起業経験ありの人材だと分かったとき、少なくない読者が落胆したはずなのだ。「この人が脱社畜を訴えるのは結局、社畜以外の生き方もできるほど優秀な人だっただけでしょう」と。二流、三流大学卒業の読者はハシゴを外されたような気分になったはずなのだ。

ブログの書き手が背景を明かした瞬間、その人は読者の代弁者ではなくなる。

読者の私とは違う、ほかの誰かになってしまう。「私の想いを言葉にしてくれた」という感動も薄れてしまう。そうなったらブログとしてはおしまいだ。もはや「誰が言ったか」を求める読者しか集まらなくなる。共感のメディアとしてのブログの魅力を捨てて、週刊誌のゴシップと同じになってしまう。

匿名である限り、読者は自由な「書き手像」をイメージできる。良しかれ悪かれ、こうであってほしいと思うRootportの姿を想像できる。だからRootportの書いたものに共感を覚えたとき、スターを付けてくれる。「私の言いたいのはつまりこういうこと」とRTしてくれる。イイネ!を押して、ブックマークに加えてくれる。心のポートを開放してくれる。Rootportがどこの誰でもない匿名の存在だからだ。読者の「私」との違いが、不明瞭だからだ。

なんの背景もない人間。なんの権威付けもない人間。そういう無色透明な人間として文章を書くことで、私は証明したい。ネットでは「誰が言ったか」よりも「何を言ったか」のほうが大切であることを。ほんもののテキストコンテンツのちからを。示してやりたい、挑戦したい。

Facebookを開いてみろ。

Twitterのプロフィール欄を見てみろ。

業界の大物と懇親会で親睦を深めた自分。一流大学卒業の自分。一流企業OBの自分。○○賞受賞の自分。自分、自分、自分。みんな自分を飾り立てることに必死だ。結局、みんな自信がないのだ。過去を盛って、権威付けして......そうしなければ、誰からも注目されないと思っている。取るに足らない自分の言葉なんて、誰にも聞いてもらえないと信じている。無視されることを恐れている。だから、華々しい経歴と目の覚めるような肩書きで、自分を大きく見せようとする。

そうやって集めた読者は、果たして、その人の「書いたもの」「言ったこと」に面白さを感じているのだろうか。その人の肩書きに価値を見いだしているだけで、文章や発言の内容など二の次ではないのか。経歴を明かしてしまったら、読者の興味を引いたのが記事なのか、それともプロフィール欄なのか、分からなくなる。書いたものの面白さを証明するには、匿名でいるしかない。

「誰が言ったか」よりも「何を言ったか」のほうが大切だ。

これはネットに限らない。

私たちは「誰が言ったか」に影響されやすい生き物だ。発言の内容にきちんと向き合うのではなく、発言者の人となりを気にしがちだ。権威的な人物の言葉であれば安心するし、そうでなければ耳をかさない。

私たちは、そうやって生きてきた。

権威の言葉を信用して、血液製剤は安全だと思っていた。原発の事故などありえないと考えいた。いざ事故が起こったら、今度は放射能汚染の「権威」を探した。一部の人々はヒステリーに陥って、あらゆる権威の発言を全否定するようになった。「科学者の言うことなど信用できない」というあれだ。いずれにせよ「誰が言ったか」を気にするあまり、「何を言ったか」に目を向けていない。

私たちは「誰が言ったか」に振り回されてはいけない。

「何を言ったか」に、きちんと向き合わなければいけない。

知性的な動物として生まれてきた私たちには、自分の頭で考えることが許されている。かけがえのない自由が、許されている。そして自由は、行使しなければ失われてしまうのだ。

「誰が言ったか」よりも「何を言ったか」のほうが大切だ。

私はそれを証明するためにブログを書いている。「匿名」を維持している。しかし匿名だからと言って、なにを書いてもいいわけではない。発言に責任を負うために、掲示板ではなくブログを使っている。

大森貝塚で有名なE.S.モースは、ハーバード大学教授のルイ・アガシーに見いだされなければ、製図工としてさえない生涯を送っただろう。もしも夏目漱石が『鼻』を読んでいなかったら、芥川龍之介はあれほどたくさんの作品を残さなかったかもしれない。

才能は、しばしば他の才能に発見されることで日の目を見る。

他の才能とは、その業界の先駆者であり、権威だ。

ネット以前の世界では、誰か「権威」のお眼鏡にかなったコンテンツだけが消費者に届けられていた。だからニコニコ動画が出たばかりのころ、私たちは熱狂した。権威主義から自由になれると。

最近ではネットに失望する声もよく目にするようになった。

ニコニコ動画もpixivも、旧来のコンテンツ供給のしくみを壊すことはできなかった。結局、えらい人の目にとまるような才能の持ち主だけが「勝ち組」になり、やがてニコニコ動画を卒業していく。ネットが権威主義を終わらせるなんてウソだった、と。

しかし、それは結果を急ぎすぎだ。

長期的には、おそらくコンテンツの権威主義は衰微していく。誰か「えらい人」の選んだコンテンツではなく、「みんな」の選んだコンテンツが好まれるようになっていく。しかし、このパラダイムシフトは短期間では終わらない。ニコニコ動画が始まって6年、そんな短い期間で完了するような変化ではない。

出版、放送、物流......私たちの暮らす社会は19世紀末以降の歴史的蓄積のうえになりたっている。ニコニコ動画が始まった時、「来年にはすべてが変わっている」と信じた人は、人類学的惰性を軽視しすぎていた。私たちの習慣はかんたんには変わらない。少なくとも、一部の習慣は。

また、なかには権威主義の衰退を嘆く人もいるだろう。

造詣の深い専門家がすばらしいコンテンツを発掘するのではなく、大衆化したコンテンツばかりがあふれてしまうと懸念する人もいるだろう。その懸念は、正しい。「みんな」の選んだコンテンツばかりが拡散されるようになれば、大衆に理解されづらい「とがった作品」が注目を集めるのは難しくなる。一時的には、間違いなくそうなる。

しかし、大衆の審美眼は成長する。

きわめて個人的で主観的な意見だが、私たちの身の回りの製品を見てほしい。あらゆる製品のデザインが、10年前、20年前よりも洗練されているのではないだろうか。大衆はいつまでも愚鈍なままではない。専門家と比べれば牛歩かもしれないが、大衆のセンスは洗練され、成長していくのだ。

日本は19世紀半ばに工業化を果たし、世紀の変わり目ごろには中産階級、すなわち「大衆」が登場した。それから数十年後、大衆文化は成熟期を迎えた。大正ロマンや昭和モダンと呼ばれる、きわめて"センスのいい"文化が花開いた。戦争によって一度は破壊されたものの、大衆の審美眼は日夜、成長を続けてきた。たとえば酒の話をすれば、サントリーの白角は高級ウイスキーから愛すべき日用酒になった。かつてバーのいちばん目立つ棚に鎮座していたジョニーウォーカーは、いまではコンビニの棚に並んでいる。数十年という時間感覚で見れば、大衆の嗜好は確実に成熟していく。

だから権威主義の消失を恐れる必要はない。

権威がいなくなったなら、代わりに私たちが賢くなればいい。一部のえらい人が「面白い」と評したものが、ほんとうに人類にとって普遍的に面白いかどうかは分からない。100万人が「面白い」と感じたもののほうが、面白さの確度は高い。「人類は何を面白いと感じるのか?」この設問に答えるには、1人の意見を聞くよりも、100万人の声に耳を傾けたほうが有益だ。

短期的には、ネットはコンテンツの流通形態を変えなかった。しかし長期的な目で見れば、コンテンツの流通と消費は確実に変わりつつある。権威の選んだものではなく、「みんな」の選んだものが消費されるようになる。私はその日が待ち遠しい。

ブログを始めたとき、私は「匿名」で行くと決めた。ブログは共感と代弁のメディアだと思ったからだ。プロフィール欄ではなく、記事を読んでもらいたいと思ったからだ。権威主義はやがて衰退し、「みんな」の選ぶ時代がくる。みんなに選ばれるものを書きたいと、あの日、私は思ったからだ。

そして何より、「誰が言ったか」よりも「何を言ったか」が大切だと信じている。

だから私は、匿名で書いている。

アクセス数を稼ぐのなら、おそらく経歴や肩書きはあったほうがいい。華々しいキャリアでなくてもいい。ニートや非正規雇用といったネガティブなものであっても、プロフィール欄は充実させたほうがいい。書き手のキャラクターが明確だったほうが、読者の記憶に残りやすい。いわゆる「信者」と呼ばれるような読者層を作りやすい。みんながコンビニ店長のことを愛している。

したがって匿名を貫くのは、一種の「縛りプレイ」なのかもしれない。アクセス数を稼いだり、書籍化してマネタイズしたり......ブログの書き手の「成功事例」からは、あえて遠ざかる選択をしているのかもしれない。

しかし、そうするだけの価値があるのだ。

私は証明したい。「誰が言ったか」よりも「何を言ったか」のほうが大切だということを。ほんとうのテキストコンテンツのちからを。私の名前なんて覚えなくていい。私がどこの誰かなんて気にしなくていい。ただ、私の書いたものを読んでもらいたい。

テレビや新聞では、えらい人しか発言できない。

だけど、ネットは違う。

えらくなくていい。華々しい経歴なんてなくていい。

誰にでも発言の機会が与えられている。

それがネットのすばらしさではないか。

何を恐れているのだろう。どうして自分を大きく見せる必要があるだろう。どこの誰でもない匿名の個人が、世界に向かって声を上げられる。自分の思いを世に問うことができる。短期的なアクセス数に一喜一憂するあまり、与えられたちからのすばらしさを忘れていないか。

ネットは、えらい人のものではない。

私たちのものだ。

(※この記事は2013年9月21日の「デマこいてんじゃねえ!」より転載しました)

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