東京オリンピックを真に有意義な機会とするには

2020年の東京オリンピックについては、国立競技場の建設問題でケチがついただけでは終わらず、オリンピックのロゴのデザインに盗作疑惑が出てくる等、どうにも締まりがない。
International Olympic Committee Vice President John Coates, second right, and Tokyo 2020 Summer Olympic Organizing Committee President Yoshiro Mori third right, pose for photographers in front of official emblems of the Tokyo 2020 Olympic Games at Tokyo Metropolitan Plaza in Tokyo, Friday, July 24, 2015. (AP Photo/Shizuo Kambayashi)
International Olympic Committee Vice President John Coates, second right, and Tokyo 2020 Summer Olympic Organizing Committee President Yoshiro Mori third right, pose for photographers in front of official emblems of the Tokyo 2020 Olympic Games at Tokyo Metropolitan Plaza in Tokyo, Friday, July 24, 2015. (AP Photo/Shizuo Kambayashi)
ASSOCIATED PRESS

本当にやる気はある?

2020年の東京オリンピックについては、国立競技場の建設問題でケチがついただけでは終わらず、オリンピックのロゴのデザインに盗作疑惑が出てくる等、どうにも締まりがない。国立競技場の問題については、今までの案を白紙撤回したのはいいが、その後の展望がほとんど伝わってこない。熱意とビジョンを持ったリーダーがいれば、自ずとその熱気は伝わってくるものだが、ほとんど何も感じられない。しかも、国民の側も、本来もっと熱く怒りをあらわにするなり、強く要望を伝えるなりしても良さそうなものだが、そういう勢いもあまり感じられない。なんだかおかしい。皆、本当にオリンピックをやる気があるのだろうか。

オリンピックの失敗を願う『非リア充』

ロゴの盗作疑惑が出た担当デザイナーの佐野研二郎氏については、その後も本人や事務所の担当作品につき、続々と盗作疑惑が出て来て、問題が収拾するどころかますます拡散しているわけだが、この件については、非常に興味深いブログ記事があって、話題になっていた。東京都議会議員である、おときた駿氏の、『究極の「リア充の祭典」、オリンピックを快く思わない人々のルサンチマン』である。

佐野氏の件が収拾がつかなくなっている理由につき、おときた氏は『オリンピックの失敗』を願っている人たちがけっこうな数いて、その主体は、いわゆる『非リア充』で、失敗を願う理由は、『オリンピックが究極のリア充の祭典』だから、という。『非リア充』は表舞台で華やかに活躍する人(リア充)に怨念を抱き、時に暗黒の業火となって燃え上がって、すさまじいまでの執念とリサーチ力で、佐野氏を燃やし尽くしてしまったとする。そして、特にオリンピックが目の敵にされるのは、参加を強制されない部活のようなW杯のイベントとは違って、オリンピックが全員参加強制な体育の授業のドッヂボール、あるいは体育祭の全員リレーみたいなもので、フィジカルエリートにかつて持っていたコンプレックス、怨念や『一体化を強制されている感じへの抵抗』が強くなっているためだという。

自分が『非リア充』と自覚している人たちは、自分たちが十把一絡げにされたことを不快に感じている人も少なくないようだが、実際、現在も続く『佐野叩き』を見ていると、(すべてこうだと断言はできないかもしれないが)、大筋ではいいところを突いているのではないかと思えてくる。

リア充も信じてはいない?

ただ、この問題、もう一段ねじれているように見える。というのも、『非リア充』が標的にする『リア充』のほうも本当に一体となってオリンピック開催を願っているのかとなると、どうもそんなに簡単にはわりきれないからだ。

もちろん、直接開催に関わっているスポンサー企業や、選手や選手関係者、宣伝会社等は何とか盛り上げようと必死だろう。また、特にルサンチマン(怨念)を抱えていない普通の『リア充』は、できればオリンピックを機会に経済的な波及効果が出て、昨今元気のない日本に喝を入れる起爆剤となることを素直に願っているとは思う。

だが、そんな人達でさえオリンピックを成功させることで、国威を発揚できるとか、ナショナルプライドのようなものを取り戻すことができるとか、経済活動が活発になってそれ以降の日本経済はまた上昇軌道に乗るとかいうふうに考えているかといえば、かなり疑わしい。本音のところ、ほとんど誰もそんなことは考えていないだろう。

それは、かつて戦後の日本の復興が成ったことを確認し、世界にもそれを胸を張って宣言することができた、1964年開催の東京オリンピックと比較してみればすぐにわかる。日本人が夢と希望を実感し、世界に日本の発展を見せつけ、オリンピックをバネにして、日本経済はさらなる発展軌道にのることができた。だが、2020年のオリンピックはどうなのか。

希望の時代と不可能性の時代

この点について、社会学者の大澤真幸氏は、非常に容赦のない、しかし、現実を直視した見解を述べている。

あなたは今、タイタニック号に乗っている。もう沈みそうだ。救命ボートももうだめだし、海は凍りつくような冷たさだ。そうして、ずうっと遠くを見ると、何か船があるように見える。ああ、船が見える。助けに来てくれた。これは幽霊船なんです。本当は、あなたの助かりたいという気持ちが見せる幻想なんです。本当は、それはあなたの助かりたいという気持ちが見せる幻想なんです。こういうような状況の、幽霊船にあたるのが東京オリンピックです。つまり、東京オリンピックがあるんだから、東京オリンピックまでは何とかなる。あるいは東京オリンピックで何とかなる。でもそれは幽霊船のようなものだ。

(中略)東京オリンピックが決まって、日本人はみんな選ばれて喜んだけれども、客観的に見ると、東京がすばらしかったから勝ったというよりも、マドリッドとイスタンブールがいわば自滅したから勝ったわけです。つまり、東京は客観的にに見るとライバルが消えただけなので、いいと言われたけれども、何がいいのだか自分でもよくわからない。

(中略)このオリンピックで日本人は、もちろん自分のプライドを回復したいんだけれども、自分でも何となく根拠のない勝利だなという感じを持っている。この、根拠のない自信の回復。これは、本当に根拠がない。

『日本の大問題「10年後」を考える 第六回 戦後日本のナショナリズムと東京オリンピック』より

大澤氏は自らの恩師である社会学者の見田宗介氏の分類に自分なりのアレンジを加えて、戦後の日本を四半世紀(25年)ごとに、『理想の時代』『虚構の時代』『不可能性の時代』と分類する。1964年の東京オリンピックは理想の時代のオリンピック、2020年は不可能性の時代のオリンピックということになる。大澤氏の分類のことは以前から知っていたが、正直なところ、『不可能性の時代』というのが、いくら説明されてもよくわからなかった。だが、今回理想の時代のオリンピックとの比較によって、その意味するところがずいぶん腑に落ちた気がする。

大澤氏によれば、不可能性の時代の特徴は、可能性と不可能性が両方とも過剰になることで、プライベートな生活の点では、テクノロジーの凄まじい発展で、人間は不死に近い存在になれるほどの可能性など、可能性はどんどん増えているが、一方、社会全体でみると、この現実を超える別の現実、ユートピアや理想が不可能という感覚、不可能性がせり出している時代だとする。広い意味での革命は不可能で、それどころか、財政は記録的な赤字で『ハイパーインフレ』、『預金封鎖』などという過激な用語がさほど不自然に思えないほど逼迫した状態にあるのに、追い討ちをかけるように少子高齢化は世界に類例のないほどのスピードで進みつつある。ユートピアや理想が不可能なだけではなく、もうこの社会のこの現実さえ破綻するのではないか、この現実さえ不可能ではないか、そういう感覚が流布しているのが不可能性の時代の最終段階である現在の状況ではないか、という。どうしてそうなっているのかは別として、時代の空気、感覚の説明としては、思いあたるところが多い。

暗示と虚勢

2020年のオリンピックが東京に決定したのは、2013年の秋なので、それから2年が経過したことになるが、時代の『不可能性』の感覚はあの頃よりずっと進んだと言わざるをえない。つい先ごろも、『2015年4~6月期の実質GDP成長率は、前期比で3四半期ぶりにマイナスとなった』との報道が出ると、早々にこんなタイトルの記事が出てきた。

東京五輪後の日本経済破綻、現実味高まる GDPマイナスに潜む『重大な事態』

(2ページ目)東京五輪後の日本経済破綻、現実味高まる GDPマイナスに潜む「重大な事態」 | ビジネスジャーナル

そして、ここに来て、中国経済の破綻懸念から世界同時株安だ。いかに楽観的な『リア充』でも、オリンピック一発で何とかなると考えているのはもはや少数派だろう。

大澤氏は言う。『俺は自信があるんだという人が、本当に自信があるとは限らない。自信のない人のほうが、虚勢を張るじゃないですか。本当に自信がある人は、意外と自分の欠点を直視できるものです。』これは本当にそうで、今、オリンピックを全員参加強制な体育の授業のドッヂボール、あるいは体育祭の全員リレーみたいなものにしようとしているリア充がいるとすれば、『自信がなくて虚勢を張っている』と考えられる。『東京オリンピックがあるんだから何とかなる』と自分に暗示をかけて、やる気のない人を見ると、『日本国民全員で取り組むべきなのに、やる気がないとはどういうことだ!!』と怒っているというのが実態ではないか。(ちなみに、この持って行きようのない不安感と鬱屈を、国の外に向けるのは『いつか来た道』だが、すでに嫌韓、嫌中という形で現象化しているように見える。)

現実を直視して構造改革を

このように書いてくると、お前は東京オリンピックに反対なのか、と言われてしまいそうだが、そうではない。決まったからには最大限有意義なオリンピックにするべく努めるべきだと思うし、そういう意味でなら開催を応援したい。だが、本当に問題なのは、東京オリンピック問題を通じて見えてくる、人々の『心理』のほうだ

私は、アベノミクスを無効と言っているのではないし、逆に問題がないと言っているのでもない。ただ、日本企業、特に私もそれなりに関わってきた日本の製造業の現状を見ると、もはや円安になればなんとなかるというようなレベルではなく、ビジネスモデル自体が陳腐化して世界に通用しなくなっている。生き残りたければ構造改革が必須なのだ。どんなに現実を見たくなくても、ちゃんと現実を直視して、真の問題を見つけることからしかもう立ち直るすべはない。だが、逆にそれができれば、従来には考えることができなかったような未来を想定して、策を講じることができるような技術進化や環境変化は起きてきている。今回のような騒動も、そのことに気づく機会にできるのであれば、今からでも本当に有意義なオリンピックの構想を再構築することも可能だと思う。いや、可能にしなければいけないと思う。

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