「何かをしなくちゃ」「自分に何ができるだろう」 と、おそらく誰もが感じたあの気持ちを、もう一度。

当時の気持ちを忘れないために、復興支援に駆け抜けた記憶を刻みつけるために、震災から1年後に自分が書いていた記事を再掲載しておきます。

3月11日。

東日本大震災から丸4年。

都庁と都議会議事堂でも14時46分には庁内放送が入り、黙祷が行われました。

2011年4月、初めて被災地である南三陸町に足を踏み入れました。

自分にできることはなんだろうか、自分だからできることはないだろうか...

そう考えた末、当時化粧品ブランドに勤務していた私が思いついたアイディアは、

「化粧水やリップクリーム、手鏡などの準生活必需品をしこたま持っていく」

「現地ではハンドマッサージやメイクアップなどの美容に特化した活動を提供する」

ことでした。

阪神大震災被災者女性の方の、

「生理用品などは届くけど、女性が日常生活に必要とするものは全然被災地に届かない

という意見を思い出したからです。

メイクアップした後の写真を撮ってあげようと思ったポラロイドカメラ『チェキ』が、

以外な活躍をして行政の矛盾を思い知ったのは印象深い想い出です。

【美容救援物資求ム】被災地、南三陸町に行ってきます!

被災地支援:4月9日 南三陸町活動報告(前)

被災地支援:4月9日 南三陸町活動報告(後)

(上記過去ブログより引用)

【行政への憤り】

救援物資が配られないとか、規則ばかりで硬直しているとか

非難の絶えない行政の態度ですが、僕はこんなことを目の当たりにしました。

僕らがメイクやネイルが終わった人の

写真を撮っていると、おじいさんが凄い勢いでやってきて一言。

「おめえらかっ、写真撮ってるのはっ!!」

その剣幕と東北弁から、怒られるのかと思いましたが、

話を聞くと自分の奥さんの写真を撮って欲しいとのこと。

「今回の震災で、奥さんが障害持ちになってしまった。

 障害者登録をするために行政に問い合わせたら、必要な書類と一緒に

 4×3の証明写真を2枚同封して仙台市役所に送れと指示された。

 全部流されて、写真なんかあるわけない。どこで撮れっていうんだ!」

瓦礫の山となった街に、証明写真機なんてあるはずがない。

写真が残っていたとしても、定規がないからサイズなんて測れない。

そういうことにまったく想像力を及ばせず、

こういう指示が出せる行政にはやはり疑問を抱かざる得ません。

ポラロイドで認められるかはわかりませんが、

念のため4枚ほど写真を撮り、iPhoneで定規アプリをダウンロードして

4×3のサイズに切ったものをあげてきました。スマートフォンは神。

役所に無事受理されることを祈るばかりです。

このあたりの体験は、私の行政の「お役所仕事」と闘う姿勢の原点かもしれません。

ここから私の、被災地通いの日々が始まります。

石巻専修大学のキャンパスにテントを張り、土砂や瓦礫を撤去した毎日。

GW被災地支援 -石巻マッドバスターズ前編-

GW被災地支援 -石巻マッドバスターズ後編-

そして「子どもたちに笑顔とカステラを届けるプロジェクト」

復興支援NPOふらいパンダの発起人・副代表として3年の活動を行いました。

春のふらいパンダ東北ツアー -まだ、僕たちにできること-

【ふらいパンダ】真夏の遠野日誌、とイベント告知【政治】

僕らはこれはできないとか決めているだけです。できることはいくらでもあるのです。絶望の底に立たされた被災地の人が前を向いて歩こうとしているのです。すべてをもっている僕らは何でもできるはずです。

上記の記事でも引用している、自分を突き動かしたこの言葉。

いまも色褪せることなく、むしろ今だからこそ、強く刺さるものがあります。

都議会議員の職責は、まず一義的には東京都。

被災地のことを、仲間たちと駆け抜けたあの日々を、決して忘れたことはありません。

それでも多忙な毎日は、残酷なくらい私たちの気持ちと記憶を風化させていきます。

あの当時の気持ちを忘れないために、復興支援に駆け抜けた記憶を刻みつけるために、

震災から1年後に自分が書いていた記事を再掲載しておきます。

当時はまだ、議員になる以前の普通の社会人だったけど、

間違いなくこれも私がこのタイミングで政治家になった理由の一つ。

まだまだ道遠い被災地の復興を心より祈念するとともに、

私の立場からできることを引き続き模索し、取組んで参ります。

それでは、明日。

■以下、過去記事より。

それぞれの1年、それぞれの3.11

昨日で震災から1年。

ゴールデン街のバーで、普段は見ないテレビを見て過ごしました。

テレビ画面に次々と映し出される東北各地が、

「ああ、ここも行った。あそこも行った」

という場所ばかりで、

それぞれの土地に感情移入しながら、

色々な気持ちを思い出しながら、見させていただきました。

微力ながら、少しでも、東北のために何かできていたのかな。

4月に支援物資を届けに行った南三陸。

避難所の志津川中学校で暮らす中学生の女の子が、

家族で一台シェアして使っている携帯電話を握りしめて

「いま、彼氏ができたのっ!」

と、耳を真っ赤にして目の前で喜んでいて。

どんな悲劇の中にも、また小さな幸せが生まれることを目の当たりにしました。

5月にボランティアに行った多賀城市。

まだまだ拙かった巨大カステラを焼きながら、

AKBの話をして仲良くなった女の子が

「ダブってるから、あげる!」

といってくれた板野友美の下敷きは、今でも僕の宝物です。

...なんだか、ハタから見たら誤解を受けてる気がしないでもないが、

沢山のものを失った子どもから、逆に大きなものをもらったように感じました。

この1年間の、様々な活動を振り返って発見したことは、

「この子どもたちに、明るい未来を残したい」

という、単純で、本当にシンプルな自分の気持ちでした。

避難所でも、被災地でも、子どもたちの周りには

いつだって誰かを幸せにする空気が漂っていたから。

大人になった僕は、その責務を果たせているのかな。

あの震災がなければ、そんなことにすら気づかなかった。

テレビを見るのはしばらくいいや。

あの震災も、津波も、様々な悲劇も、

忘れようとしても忘れるものじゃない。

でも本当に忘れてはいけないのは、

「何かをしなくちゃ」

「自分に何ができるだろう」

と、その時おそらく誰もが感じたあの気持ちだと思います。

一人ひとりが、「誰かのためにできること」を真剣に考えて、実行する。

それは、実はとても難しいことなのだけれども。

四方を海に囲まれ、台風の通り道となり、

地震が多い場所に位置した日本を再び災害が襲うのは

避けられないことなのかもしれません。

でも、また近い未来におそらく訪れるその時に、

「国は何をしている!」

「政府はウソばっかりだ!」

「◯◯の陰謀だ!××の圧力だ!」

などと、大人たちが見苦しくいがみ合う場面を、

僕はもう二度と見たくありません。

ふらいパンダのカステラで直接

子どもたちに笑顔を届けることも大切だし、

もちろん続けていくけれど。

僕は、若者や子どもたちを不幸にする間違った国と社会のシステムを、

そしてそれを作ってきた指導者たちの過ちを正すため、

自分の持てる力を費やす1年にしたいと思います。

改めて今回の被害に遭われた方々にご冥福をお祈りするとともに、

いまだに避難生活を続ける30万人を超える人々に

一刻も早く日常が戻ることを願ってやみません。

(2015年3月11日「おときた駿公式ブログ」より転載)

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