「帰国子女なの?えー全然それっぽくない!」
18歳で日本に帰ってきてから、何度も言われた言葉だ。
小柄で、地味な顔立ち、性格もおとなしい。子供時代のほぼ半分を外国で過ごしたので英語は話せるけど、シャイな女の子が日本語で話すときと同じように、小さな声でボソボソしゃべる。
豊かな身振り手振りと表情で語る「アメリカ帰りのバイリンガル」のイメージとは、確かにちがうと思う。つまり私は、英語でも日本語でも、あまりテンションが変わらない。
とはいえ、初対面の飲み会で、職場での何気ない会話で、「ぽくない」を言われるたびに少しだけ、何かが引っかかる。
じゃあ、あなたの思う帰国子女っぽさってなに?逆に「日本」ぽさって、なんですか?
どうでもいいこと気にする人だなあって、思われるかもしれない。その通りだと思います。お嬢様女子校に通う思春期の女の子が「あたしって、お嬢様っぽくないって言われるんだよね〜」とため息を吐きながら、周りの反応をチラチラ見てるような。知らんがな、あなたが思うほど、人はあなたのことなんて気にしてないよ。
でも。
でも、日本と海外を往復する中で、容赦なく投げられる「っぽい」「っぽくない」のジャッジはいつも、私を苦しめるまではいかなくても、混乱させるものであったと思う。
■「視線を気にしない」がこの国では難しい
「帰国っぽくない」と言われた翌日、別の人から「日本人らしくない」、「外国かぶれ」と煙たがられる。かと思えばテンプレな日本批判をしたい人から「だから日本人はダメなの」となぜか日本人代表としておしかりを受けたり。相反するレッテルが飛んでくる。たぶん深く考えずに口先をついて出た、言った方は5秒で忘れるスカスカの言葉だろうけど。
スルーすることにしている。基本的には。でも「レッテル」は実害なさそうな顔で近づいてきて、知らぬ間に私の心に澱を残していった。恐ろしいことに、いつの間にか私自身が、無意識にステレオタイプの通りに行動しちゃってることに気づいたり。レッテルは人を支配する。まるでモンスターだ。
「私は私。人の視線は気にしない」が、この国では時にすごく、難しい。
きっとこれは、ルーツやバックグラウンドの話題に限らない。誰もが「決めつけのまなざし」に苦しんだことがあるでしょう。今もこうして綴りながら、「大したことじゃない」「気にしすぎ」なんて声が聞こえてきそう。「それは個人的な生きづらさだよ」と――。
でも、18歳で日本に戻ってから10年。貼り付けられたレッテルで顔も体も埋め尽くされ、自分の元の姿が分からなくなってきた。私自身がレッテルモンスターになりかけてるのかも。心の澱も、気づけばチリツモでなかなかの量になった。
少し立ち止まって、戦い方を知りたいと思った。たくさんの#真ん中の私たち の語りに触れて、時にしたたかに、時にのらりくらりと、レッテルから逃げたり、理不尽をおちょくったりして生きている人がいると知った。そこに至るまでに苦しみがあったことも。
私も、私が見てきた景色を、書いてみたいと思った。
■「溶け込まなければ死ぬ」と思った中学時代
日本人の両親のもと、関東に生まれた。9歳で東南アジアに引っ越し4年後帰国。地元の公立中学に通った後、アメリカへ。現地の高校を卒業し、大学進学のため再び日本に帰ってきた。
人生で1番つらかったのは中学時代だ。中1で日本に戻ったが、当時東南アジアで流行していたSARSのため、帰国後しばらく自宅待機を命じられた。はじめて登校したGW明けにはもうなんとなくグループができあがっていた。容姿やトークで人を惹き付けるタイプでもなく、1年くらいは孤立していた気がする。
それだけならただの物静かな転校生だが、授業中は手を挙げて発言したり、気になることは質問したりしていた。それは海外の学校では珍しいことではなかったし、社交性がなく運動音痴だが、勉強は好きだったから、自分の中ではごく自然なふるまいだった。
ところが、まわりの子たちはみんな、休み時間は騒々しいけど授業中はシン...とうつむいている。私は休み時間はしゃべる友達がいないのに授業中にいきなりしゃべり出す。
それがあの町の公立中学校では「変」だということに、気づいたのはけっこう時間が経ってからだった。その「変」さを理由(だと思う)に、何人かの男子に、嫌がらせをされた。13歳。異性から嫌がらせを受けるのは、全身を針で刺されるような耐えがたい苦痛だった。
今、あの頃の自分に会えるんだったら、そんな学校なら行かなくていいよと伝えたい。小さな町を飛び出して、好きな人たちと出かければいい。電車でどこにでも行けるのが首都圏のいいところだし、エスタブリッシュな組織を抜け出せば、この国のあちこちで好きに生きてる人がいることを、28歳の私は知っている。でも、当時の自分にその発想はなかったし、勇気もなかった。
「溶け込まなければ死ぬ」と思い込んだ。周りの子たちの振る舞いを必死に観察しては真似た。楽しくないのにプリクラを撮りに行き、目立ち過ぎず、かつダサ過ぎないように制服を着崩した。先生にあてられた時以外は発言するのはやめた。
■「私は、」の言葉を取り戻したアメリカ
苦労して「ふつー」を身につけた頃、また父の転勤が決まった。わけが分からぬまま、私はアメリカの高校に入り、怒濤のような4年間を過ごした。
悪目立ちしないスキルをせっかく身につけたのに、今度飛び込んだ社会ではいつも「あなたはどう思うの?」と問われた。振り子が元の位置に戻るように、少しずつ、「私は、」と語り始める言葉を、取り戻した時間だったように思う。二度目の異国暮らしを乗り越えた家族とは、特別な絆も生まれた。
高校の卒業式の夜、部屋のベッドに母からの手紙が置いてあった。「外の世界を知った分、日本に戻れば、色んな違和感を抱くことがあると思う。批判するのは簡単です、でも批判だけでは何も変わりません」と書かれていた。そしてこれからが本当の人生の始まりだってこと、母はいつでも私を想ってくれていること――。
なぜか分からないけど、私はアメリカで過ごした高校時代を、長い夢だったように感じている。
あの日、成田空港で目を覚まし、私は日本の大学を出て、就職し、少しずつ大人になっていった。
今は、大手メディアの記者として九州の真ん中らへんで暮らしている。メディアの仕事はレッテルお化けとの戦いだ。こうだと思っていたことが、そうじゃなかった。失敗だらけの日々で「ああ、そうだったのか」を繰り返している。
■「均質で個性がない日本人」もレッテル
報道は1歩間違えれば簡単にレッテルを生み出す側に回る。私も新人の頃は、大きな組織の自転の中で、要求されるテンプレに乗ってしまったことが正直、あると思う。でも今は暴れる。「そうじゃないんです、この人が話してくれたのはそういうことじゃなくて...」。だって誰かを勝手にラベリングして、その通りに動くよう操ることが、残酷だと知っているから。
地方都市での暮らしは、外国を知るのと同じくらい刺激的だ。
よく日本の生きづらさの象徴として「満員電車」が挙げられるが、私の会社員生活は通勤ラッシュとは無縁だし、逆に日本のいいところとして、交通網の発達や利便性の高さが挙げられるけど、コンビニひとつない集落はあるし、被災者が暮らす仮設住宅の近くにバス停がなく、通院手段がなく困っている高齢者もいた。どれも確かな現実。日本という国は驚くほど多様で、重層的なのだと知った。言葉が違い、文化が違う。
日本人は「均質で個性がない」「視野が狭い」とは、なかなかに暴力的なレッテルだと思う。日本で起きているいくつかの問題が「日本的」であることを否定はしない。マイノリティへの配慮が足りないことも。でも、レッテルには支配力があることを思い出したい。問題はもう少し丁寧に、まっすぐに見つめたいと思うんです。
きっと海外に対しても、日本に対しても、こりかたまった「レッテル」があるのだと思う。そして女性、男性に対しても、所属、属性、特徴―――。色んなものにひもづいたイメージが、ぺたぺたとシールみたいに貼られている。私はこのシールをはがすことを仕事としたいと思っている。 もしかしたら、全部はがした先に残るのは透明人間かもしれない。本当の「私」や「あなた」なんてどこにもいなくて、他者から見える姿こそその人の全てなのかもしれない。
でもそのことで生きづらさを感じる人がいるとしたら、やっぱりシールをはがしたい。だから明日も人に会いに行く。あなたのことを聞かせてください。
■集まった「カナリア」の声
最後に、18歳の私がある人に言われた言葉をお伝えしたい。「僕は帰国子女のみなさんのことを、『炭鉱のカナリア』だと思ってます」。
いくつかの文化を垣間見たから、この社会の息苦しさに気づき、警鐘を鳴らすことができる――なんて考えたらおこがましいだろうか。でも、この言葉の「帰国子女」は、生きづらさを抱く全ての名前に言い換えられるはず。
#真ん中の私たち の企画に寄せられたたくさんの語りは、まるで色んなカナリアの声のように聞こえた。ないことにされている生きづらさは、無色無臭の毒ガスのようなもので、言わなければ気づかれず、いつの間にか人間の首も絞めていく。
「炭鉱のカナリア」がその役割を果たせるのは、人間より弱いからだ。耐えるんじゃなくて、誰もが楽に呼吸できる社会を、わたしたちは一緒につくり始めていいはずだ。