ここで伊東先生の建築の流れをおさらいしてみましょうか、
「アルミの家(1971)」---異形、未来デバイス、居住ユニット、反射、ゆらぎ
「中野本町の家(1976)」---都市と個・自然・人工の対峙、永遠時間、抽象空間
「PMTビル(1978)」---街並、ファサード、記号的操作、薄軽金属被覆、膨らみ
「小金井の家(1979)」---工業製品、レディ・メイド、チープインダストリアル
以上が、ここまでの伊東豊雄DNAです。
この時代の伊東DNAをもって独立されたのが
石田敏明先生です。(1973~81年在籍 前橋工科大学大学院教授)
石田敏明先生、見事に屍を越えて行ってます。
石田先生は小品でありながら丁寧な架構計画によりボリュームを一旦分節し、再結合させている。表現にインダストリアルな素材を用いて未来的です。
1980年代の伊東先生はまたまた一大変化を起こすのですが、
その直前に、ここまでの成果をすべて叩き込んだ名作建築を残されています。
それが、「笠間の家(1981)」です。
そして、この物件を担当されていたのが妹島和世さんなのです。
この住宅はですね。
プランが特異なんです。
写真では擂り鉢状の土地に沿った円弧の部分が強調されがちなのですが、配置を見てわかるように、結構尻尾が長いんです。
この建築は、尻尾から円弧に向かって空間が下がりながら連続しています。
その尻尾の付け根に玄関や階段を収めた接続棟が挟まっています。
つまり、この建物は3つのブロックの集合なのです。
通常、建築物のプランは大きな輪郭を設定した後にその中を機能に応じて割っていきます。ところがこの「笠間の家」では中身が必要に応じて外に飛び出し、輪郭を食い破って新たな建築計画におけるディメンジョン(幾何学的手法)を開拓しました。
この形式は当時にしては非常に先進的なもので、その後のスティーブン・ホールとか、マークマック、ターナー・ブルックスなど米国、特に西海岸系の建築家に影響を与えたと思われます。
結果として可能になったのが、断面計画における自由さです。
それぞれのブロックは敷地の形に添うように置くことを可能にしました。
ランドスケープとうまく調和するようにデザインされているため、これまでの伊東さんの建築がいずれの場所でもフィットするものであったのに対し、「ここ、この場所」でなければ成り立たない建築的インスタレーションなのです。
しかしながら、各ブロック内部はおおらかな自然景観をそのままに取り入れるのではなく、一旦間接光に変えたり、壁の裏側に回したり、ドライな内装表現によって、都市的な迷路の趣をもっています。これは建築としては大自然の中に位置するものですが、空間としては都市を内包するものでもあります。
同時に豊かな緑の中で構成されるオブジェクトの仕上げはまことにそっけない、工業製品のモチーフですが、かえってその存在感を増していることに気づくでしょう。
今までの建築で苦肉の策として、建築の( )が創れるか創れないかの、ギリギリの状況下で編み出した伊東さんの各種の手法が、この「笠間の家」に至ってはは積極的に自由自在に駆使されていることがわかるでしょう。
つづいて、伊東豊雄艦隊の旗艦。
「シルバーハット(1984)」についてです。
この建物が発表された時はですね~、建築業界を震撼させましたよ。
正直、僕は未だにこの建築だけは十分咀嚼しきれていません。
まだ呑みこんでいない、まだよく噛んでいる、未だに反芻しています。
そして、僕が呑みこんでいないうちに取り壊されてしまいました。
敷地の空撮があるのですが、、、
真ん中にある銀色のモコモコしたビニールハウスみたいのがそうです。
道路の脇にU型の屋根が見えますよね。
「中野本町の家」の南側隣地に建ちました。
これはですね、、、、建物をなんとか建築( )的価値にまで高めたものではなく、はじめから当時の建築家世界に向かって意図的に放たれた最新鋭艦です。
それまでの、住宅建築の概念を根底から塗り替えたものです。
しかし、どこか懐かしい、そんな建物なんですよ。
これ設計するのは超しんどかったと思うんです。
というのも、これは伊東先生の自邸ですからね。
このモデル図における上位概念。
はじめから、「建築とは何か?」を示すことが、
自ら求められているわけなんですよ。
建築家の自邸というのはホントに大変、僕だったら絶対やりたくないですよ。
毎日家の事で家族と揉めるんですよ、、もしくは家族が協力的であればあるほど逆に追い込まれますよね。
「全譲歩してるけどホントに凄いもんヤれんのかしら、うちの旦那?父?兄?」と
いっそ、誰か信頼できる人に振りたいですよ自分ちだったら。
「予算が、、、」とか、「施主が分からず屋で、、、」とか、「時間がなくて、、、」
とか、逃げれない。
自邸がダメで結局、建築家としての実力馬脚を現した人を何人も見ています。
しかし!伊東先生、やり切りました!それまでの作風のすべてを捨てて。
やっぱ、そこが凄いんだな。
先生の自信の現れなのでしょうか、
「White U」以来の久々のネーミングがあります。
「中野本町の隣の家」じゃありません、「シルバーハット」です。
この直前までの作品で展開していた、住空間の密度とか、光の操作とか、形態の構成とかいった、ある種のまとまりをもった空間の単位が、バラバラに開放されています。
柱がポンポンっと並んだ上に、フワッと丸い軽い屋根というかフレームが掛けられています。屋根も壁も穴だらけ、抜けだらけ。仕上げ材料は特になし、構造を構成する金属のみ。床も内外一体で風も光も平気で通り抜けていく、およそそれまでの現代建築とは相いれない、上下左右に曖昧な領域が広がっています。
これは、、一体どういう意味をもった建築なのか。
これを住宅として許容し得る社会とかってありえるんだろうか、、
と考え込んでしまうわけなんですが、
この建物を俯瞰しているとある絵を思い浮かべたんですよ。
それは、「洛中洛外図」です。
洛中洛外図とは戦国時代に描かれた京都の市街や景観、風俗を描いた屏風です。当時でも既に世界一の大都会でもあった京都の洛中・洛外を数千人の登場人物と数百の建造物で活写した素晴らしい作品であり、人物や職業、生活の様子までを知ることのできる歴史的社会風俗の一級資料です。
通りにさらっとした屋根の吹きっさらしの小屋掛けが中庭をいくつも生み出しながら、開放的な街並みが形成されています。
陣幕を張ったり、竹矢来に莚の簡単な仕切りで、イベントなんかも開かれています。
「シルバーハット」はですね、このようなものではないでしょうか。
コンクリートの土間に柱、そこに工業的に安価につくられた軽い屋根がふわりと乗るだけでも、
家になるじゃないか?街になるじゃないか?都市に発展するじゃないか?
あまりに堅固に領域を囲みこんで人為的に操作した光や風景でなくとも、雑多な都市景観の中に最小限のフレームワークのみで陽炎のようにその存在が曖昧で不定形な、とらえどころのない建築の像を現前させてやろうという試みです。
そして、それはもっとも新しい建築表現に見えて、どこか日本の原風景のようにも感じさせる、懐かしいものでもあるのです。
結果としてこの「シルバーハット」は海外では非常に日本的なものとみなされ、伊東先生は真に日本を代表する建築家として次の大きなステップ、都市的なスケールと消費社会との対峙という難しい課題に軽やかに進まれていきます。
この日本建築学会賞受賞作である「シルバーハット」の作風さへ捨ててしまうんです。
(2014年5月5日「建築エコノミスト 森山のブログ」より転載)