「統計学」がちょっとしたブームになっている。西内啓『統計学が最強の学問である』(ダイヤモンド社)などが話題になったり、ビジネス系雑誌などでも盛んに統計学の特集が取り上げられ、「ビッグデータ」など最近話題の言葉と絡めた紹介も散見される。しかし、この「統計学ブーム」は初めてのものではない。それどころか、この現象は決して新しいものではなく、日本においても近代の始まりとともに「統計学」への注目は一気に高まっており、多くの知識人がその必要性を説いていたのである。
統計学は、具体的な手法それ自体も当然ながら重要であるが、その考え方や「作法」も「科学的な」議論をする上で大いに役に立つ。特に、貧困や生活保護などの社会問題を始めとして、しばしば印象論で語られがちな問題をデータから読み取ることは、この問題の一側面だけを切り取って伝えざるを得ないマスメディアや政治家などの議論と距離を起き、フラットな状態で議論を始めることに役立つはずだ。(もちろん、社会科学における「科学」とは何か? など、議論を始めればきりがないが、それは科学哲学者に任せておこう。また、一口に「統計学」といっても様々だが、便宜上ひとまとめにしていることもお許し頂きたい)
しかし、統計学が周期的にやってくる「ブーム」だとすれば、このブームの終焉とともに統計学者たちは、再び数字を無視した印象論と戦わなくてはならないのかもしれない。その意味で、なぜ私たちが突如として統計学に熱狂し、気がつけばその熱狂が冷めていくのかを考えていく必要もあるだろう。
19世紀日本においてもこうした「統計学ブーム」とでも呼ぶべき時代があった。いまでこそ、経済学や政治学、社会学、心理学など多くの分野で計量的な手法が大いに重視され、これらの諸分野を学ぶ上では必要不可欠な存在になっているが、日本ではじめて「近代統計学」に触れた知識人たちは、その可能性に大いに興奮したのだ。
■「統計」をつくった箕作麟祥
幕末期から明治にかけて翻訳文化が花開く中、明治政府の官僚として活躍する箕作麟祥(みつくり りんしょう)は、フランス人モロー・ド・ジョンネの「Elements de Statisique(統計学原理)」を翻訳したことで知られている。箕作は、幕末期に徳川昭武や渋沢栄一らとともにフランスに渡っており、明治に入ってからはフランスの刑法典や民法典を翻訳していることからも分かる通り、フランス語に堪能だった。
ジョンネは、フランス軍人として活躍していたが、1814年にパリに戻ると統計や地形学を担当する職員となり、後に商業大臣などを歴任している。彼の著作を『統計学』という名前で明治6年に文部省より出版した箕作は、その前文で
「この学原名をスタチスチックといい、その説くところは皆、算数を以て圏内百般のことを表明し治国安民のため最も緊要のものたり。(略)然るに我国末だこの学科の書の世に翻訳の経あるものあらざるが故に今者、改めてこの書を訳し以て官梓に付す」
(モロー・ド・ジョンネ、箕作麟祥訳『統計学』文部省第一巻、凡例、明治七年六月)
と述べている。
この本は、統計の基本的な原理から始まって具体的な人口統計などに言及する上下巻の大著だが、一般的に法学者として知られる箕作が統計学に並々ならぬ関心を持っていたことが伺える。ここで彼が述べている通り、当時は「政表」や「表記」など様々な呼び方をされていた統計学だが、彼はその重要性を説き、現在の我々が目にする訳語を定めたのである。
■福沢諭吉
当時の最も有名な知識人、福沢諭吉も統計学に魅了された1人だった。彼は有名な著作『文明論之概略』において、統計学をこのように紹介している。
この如く、広く実際について詮索するの法を、西洋の語にて「スタチスチク」と名く。(略)凡そ土地人民の多少、物価賃銭の高低、婚する者、病に罹る者、死する者等、一々その数を記して表を作り、これかれ相比較するときは、世間の事情、これを探るに由なきものも、一目して瞭然たることあり。
(福沢諭吉『文明論之概略』明治8年)
また、「一国の人心を一体と為して之を見ればその働に定則あること実に驚くに堪たり」と述べており、イギリスの歴史学者ヘンリー・バックルをひきながら、社会を全体として観察することで、その法則が発見できると感嘆している。
ちなみに福沢は、明治15年に自らのつくった新聞「時事新報」で、「今の民権論の特にかしましきは、とくに不学者流の多きがゆえ」とした上で、
もしも諸方に行わるる政談演説を聴きて、その論勢の寛猛粗密を統計表につくりて見るべきものならば、そのいよいよ粗暴にして言論の無稽なる割合にしたがいて、その演説者もいよいよ不学なりとの事実を発明することあるべし
(1882(明治15)年3月23日発行)
などと皮肉っている。
■西周、津田真道
フランスから影響を受けた箕作や、イギリスの学問を中心に学んだ福沢とは異なり、オランダへ留学した2人の知識人も統計学に強い関心を持ったとされている。明治の学者として知られる西周と津田真道は、オランダのライデン大学へと留学し、サイモン・フィセリングから法理学・国際公法学・国法学・経済学・統計学を学んだ。
津田たちが学んだ統計学についてはこれまであまり研究が進んでこなかったが、大久保健晴『近代日本の政治構想とオランダ』(東京大学出版会)などにより、近年注目が集まっている。津田がフィセリングから学んだ統計学について記した「表紀提綱」には統計学の役割について以下のように記してある。
政府は之を観て、立法政の蹟を考へ、人民は之を観て、開智自勉の道を知るべし。
(サイモン・フィセリング、津田真道訳『表紀提綱』序、明治七年十月)
これは、明治政府の政表課によって付けられた序文だが、政府が統計学を重視していたことが伺える。他にも、百田重明による『統計学大意』が大蔵省から出版されていることも注目に値するだろう。
以上に挙げた、箕作や福沢、そして西と津田らは、いずれも明治初期の知的サークル「明六社」のメンバーだった。ここには、太政官正院政表課大主記(総務省統計局長)として、統計書「日本政表」の編成をおこなった杉亨二なども参加しており、当時の知識人にとって「統計学」が大きな意味を持っていたことが分かる。
統計学について、箕作が「その国を利し民に益ある」と述べているように、明治期の知識人は初めて触れる学問分野に大きな期待を持っていた。しかし、現実には、杉らの悲願であった日本初の国勢調査がおこなわれるまでには、しばらくの時間がかかる。1902年に衆議院議員・内村守三が「国勢調査ニ関スル法律案」を提出したものの、1904年の日露戦争によってその実施は延期されることとなる。実際に、第1回国勢調査が実施されるのは1920年であり、すでに杉は他界していた。
■統計学ブーム?
「統計学ブーム」とでも呼ぶような現象が本当に存在しているのかは、分からない(それこそブームを「実証」するにはデータがなければならないだろうが)が、ミシェル・フーコーやイアン・ハッキングの議論を待たずとも、19世紀以降に「統計」(あるいは測定や推計)という営みが様々な形で注目を集めてきたことは事実だ。
しかし、もし定期的な統計学ブームが存在しているのだとすれば、そのことは統計やデータというものが「よく分からず」、それに距離感を抱いている人々が少なくないということの裏返しなのかもしれない。新たな知の領域に目を輝かせた明六社の面々はまだしも、そこから150年近くが経過した現在でも、われわれが「統計」に過度な期待を抱き、一方でそれを軽視している風潮があるならば、それは興味深いことだ。
19世紀に「夢のテクノロジー」であった鉄道は、イーロン・マスクに言わせれば時代遅れな移動手段だろう。しかし、同じく19世紀に一斉を風靡した「統計学」は、現在でも「最強の学問」として我々の頭上に君臨し続けているのかもしれない。
【執筆者】
石田健 | 1989年生まれ。早稲田大学大学院。専門は日本近代史。 株式会社アトコレ代表取締役。 Twitter : @ishiken_bot
(※この記事は10月30日に掲載された「明治の統計学ブーム?19世紀の知識人が興奮した『最強の学問』」より転載しました)