「"「若作りうつ」社会"を読んだ。」を読んだ。

拙著に早くも感想を頂きました。匿名ダイアリーですが、筆者はid:internusさんとの事です。ありがとうございます。拙著を手に取られる方って、たぶん三十代~五十代ぐらいと想像していたので、二十代からのリアクションは意外でもあり、ワクワクするものでもありました。

拙著に早くも感想を頂きました。匿名ダイアリーですが、筆者はid:internusさんとの事です。ありがとうございます。

拙著を手に取られる方って、たぶん三十代~五十代ぐらいと想像していたので、二十代からのリアクションは意外でもあり、ワクワクするものでもありました。文面から察するに、internusさんは老いや死に触れる場面の多い日常をお過ごしとお見受けしました。そういう意味では、共通項を感じやすい境遇ではないかと思います。

平成以降の大都市圏やファスト風土に生を享け、そのまま生きていると、生・老・病・死に触れる機会って、日常には殆ど顕れてきません。その一方で、若作りの社会平均が嵩上げされたことで、少なくとも見かけ上は、エイジングがスローモーションのようになりました。そうした境遇のなかで、自分の社会的加齢を意識したり、見た目とは裏腹に着々と進行している生物学的加齢を振り返ったりすることは、なかなか難しくなっていると思います。

そうした問題に加えて、自由の問題、コミュニケーション能力の問題が重なりあっている*1ため、自分のエイジングを自己選択し、適切にレギュレートしていくのはなかなか大変です。こんなに個人が自由になれたのに――というより自由になれたからこそ――、その自由を適切に舵取りしていくためには、かなり強い個人でなければなりません。ニーチェの語った"超人"みたいな人には天国かもしれませんけどね。

私は、人間というのはデフォルトではそんなに強くないものだと思っています*2。にも関わらず、誰もが【自由のもと、何でも判断できてコミュニケーション主体としても十分なindividual】たらねばならなくなったのは、結構とんでもない事のはずですが、その良い面ばかりクローズアップされ、ヤバい面、副作用の面は、あまり問題視されてきませんでした。それでも"超人さん"は構わないのでしょう。

でも、"超人"なんて一握りですし、私などは凡夫の部類です。平均的な人間すべてが、一丁前以上にコミュニケーションができ、誰とでも仲良くなれるよう期待され、それが出来ない個人は実質的にも心理的にも困ってしまって当然......などという社会は、これはこれで酷薄じゃないか、という疑問が私にはあります。それが、2013年まで問題提起としてさほど出てこなかったことに、ちょっと苛立ちを覚えていたのでした*3。

ご質問にもあったように、村社会的なものに逆行すれば、それはそれで別の労苦を生み出すだけです。自由を覚えた人間が、もう一度村社会に回帰するのは簡単ではないでしょうし。少なくとも、自由なindividualであるメリットを最大限に生かせる人達にとって、デメリットが大き過ぎるのは間違いありません。だから私は、歴史は繰り返すべきだと思いません。

ただし、歴史が韻を踏むというなら話は別です。温故知新の精神で、過去の良い部分は取り戻し、現代の良いところも残せるよう、バランスとっていくのが適当ではないでしょうか。過去を美化しすぎるのは阿呆な行為ですが、現状を肯定しすぎるのも、それはそれで危険な行為のはずです。

煎じ詰めれば、このへんって【抑圧の文法】【規範意識の文法】の変化の問題だと思うんですよ。フロイト的な家父長的規範意識がはびこっていた時代と、現代では、抑圧される条件も、抑圧される対象も、かなり変わりました。これからも変わっていくでしょう。本心を言えば、私は、この問題について割と悲観的で、拙著に書いたように、ある世代にとっての自由は次の世代の抑圧になり得るものだと思っています。

人類史ってやつは、その堆積ではないでしょうか。それでも、ある規範意識が優勢な時代と、次の規範意識が優勢な時代の変わり目には、両方の良い部分が交じり合える可能性があるんじゃないかな、とは思うんです。ヤン・ウェンリー風に願いを表現するなら、「規範意識の交代劇の合間にうまれた、新旧の規範意識がゆるめな一時代は、永遠ではないとしても、単一の規範意識がタイトな時代よりマシじゃないの?」みたいな感じかもしれません。

もし、individualが自由を享受できる社会が千年、万年と続くなら今のままでも良いかもしれない。でも、たぶんそうじゃないと思うんですよ。何歳になっても自由好き勝手に生きられる状況ってのが、乳幼児期~学齢期の子ども達にとっても選択肢の多い社会と両立しているなら、この限りではないかもしれない。

でも、私の目には、そうなっているようには見えません。上の世代の自由は、今、下の世代の社会半径の狭小化問題、思春期に至るまでの成長過程やインストール過程の難しさの問題と表裏一体の関係にあると思うのです――もちろん、これは現代の居住環境と対応しているもので、拙著の第四章~第五章に書いたようなことを私は考えています。

internusさんの質問のなかには、世代再生産についての意識が書かれていませんでした。もし、今、自由を謳歌している思春期~壮年期の人達が、その自由を謳歌する時間を一日でも長くすることを至上命題とするなら、世代再生産を意識せず、現代の社会状況にも疑問を持たないのが妥当でしょう。

でも、次世代の思春期をより豊かに準備するために・次世代の子どもが"社会適応のバリエーションに資するような手札"を沢山手に入れられるようにするためには、拙著の第五章~終章で記述した問題意識は欠かせないように思えるんです。成人の自由を最大限に保証するシステムが、エディプス期や学齢期の社会半径の広がりやインストール過程にどのていど適したシステムなのか、私すごく気になります。

私自身は、親以外にもたくさんの年長者や年少者との接点によって影響を受け、Aという生き方、Bという生き方、Cという生き方を眺め、学びながら育ってきました。"体験版"程度のものとしても、色々プリインストールされていたんですよ。対して、現代居住環境の制約によって世代間コミュニケーションの導線があまり得られない子ども時代ってのは、手札が少なくて大変だなぁ、親が教え示してきた生き方を逸脱して生ようと思い立った際に、コンフリクトがキツそうではみ出すのも難しそうだなぁ、と思ってしまいます*4。

思春期は、特定世代だけの独占物ではないはずです。次の世代も、その次の世代も、子ども時代には子どもをやらせてもらって、思春期には相応にトライアンドエラーや中二病ができるのが適当でしょう。そのために何が必要なのか?乳幼児期の今昔の長所をつまみ食いするためにはどんな条件が必要か?そういう事を私は考えたいし、一定以上の年齢の方には考えて頂きたいと願ってもいます。

internusさんは、まだ思春期の最中とお見受けしますから、拙著後半パートはまだ考えなくてもいいし、煙たがるぐらいのほうが自然かもしれません(これは他の20代の読者さんにも言えます)。でも、今思春期を謳歌している人も、十年後、二十年後には拙著を振り返って、もう一度考えて頂きたい。思春期が終盤に差し掛かり、自分自身の成長の限界がみえてきた時、次世代の思春期のために何を願うのか?思春期という名の"文化祭"や"夏休み"が終わった時に、何を引き受け、何を祈りながら生きていくのか?結婚するか否かや子育てに直接コミットするか否かに関わらず、そういった問いはあってもいいんじゃないかと思うんですよ。

ご共感頂いたとおり、どうしたって私達は有限の時間を生きていて、着実に年を取っていきます。それを前提に生きるためにも、自分の欲求やアイデンティティしか眼中にないようなライフスタイルから、そうでないものにも目配りのあるライフスタイルへと"ずらしていく"ための方法論が、もっと論議されたっていいと思うし、その論議が不思議なほど欠けているから、拙著のような問題提起をしてみた次第です。

長くなってきたので、残りの質問にも簡単に。

Q:メジャーな少年漫画にONE PIECEが入っていない

A:部数だけでまとめようかとも思ったんですが、それをやると版元が偏ってしまうので、ある程度までは、マガジン、サンデー、ジャンプ等の作品がそれぞれ入っているように意識してあります。それと、あの表では、ある程度のヒット性を意識しつつも、その時代の新機軸なヒット作や、後代には間違いなく売れないであろうヒット作を紹介するべく意識してあります。ONE OIECEはとてもジャンプ的な何かだとは思うのですが、90年代デビュー作(作品はデビュー年で区切ってあります)の枠が足りず、どうしようか散々迷ったうえで、外しました。

Q:タイトルの「若作りうつ」は?ほか

A:あとがきに書いてあるとおりです。お察しください。あと、サブカルについての言及は、それこそガンダムやエヴァンゲリオンの名前ぐらいしか知らないような人を想定し、筋金入りのオタク・サブカル狙いの記述は目指しませんでした。そりゃ、もっと詳しくやったほうが、筆者たる私は楽しいでしょう。でも、そんな事をすれば読者層を絞ってしまって、サブカルチャーに詳しくない人達を置いてけぼりにしてしまいます。オタクのマシンガントークにならぬよう、我慢しましたよ、そりゃーもう我慢しましたよ。

個人的には、タイトルの狙い方も、帯にある「オタク出身」という触れ込みも、不要じゃないかと思わなくもありません。ただし、それは私がインターネット育ちのブロガーだからそう思うのであって、不特定多数が新書を手に取ることまで考えたら、ああいうタイトル・ああいうレトリックが良いのかなと想像しています。私は、あの本をオタクやマニア向けに書いたのではなく、できるだけ広範囲に問題提起するために書いたので、ブロガーとしての勘よりも、版元さんとの話し合いによる判断を重んじた、という感じです。

まあでも、「自分が書きたいことを書く」のではなく、「読者に届けたいことだけを書く」「概要の骨幹は絶対に残す」ためのトレーニングにはなりました。サブカル読者さんのサブカル欲を刺激したり、タームに頼った"読者との共犯意識"に期待したりしてはならない本ですから、これで良かったと思っています。

ではまた、インターネットのどこかで。

(2014年2月25日の「シロクマの屑籠」より転載)

注目記事