昨日も会社の会議があったんですが、
「なにか質問や意見ありますか?」
とボクが聞いても、みんなウンともスンとも言わない。
話し手のボクとしては、
ボクのはなしに、何とも思わなかったんだろうか、
そもそも聞いていたんだろうか、と少し不安がよぎります。
けれどまぁ、それは取り越し苦労で、
みんなちゃんと聞いているし、それなりにいろいろと考えてくれているものです。
* *
かつて、ニューヨークに暮らしてたことがある。
お店を始める前ですから、一昔前です。
滞在は2年ほどの短期で、
名目はテレビディレクターとしての駐在です。
かなり意気込んでいった割にですね、
行ってみると特に仕事もない状況で、
宙ぶらりんのまま、毎日、どこかしらのカフェでお茶をしてました。
仕事も友達もなく、英語もちっとも話せませんでしたので、
カフェで一人過ごす時間がボクにとってのニューヨーク生活でした。
帰国してから、そのときのカフェでの時間が芽吹いて、
ボクはカフェを始めたわけですから、
人生というのは、よくよく、わからないものです。
いまでも時間があると、ニューヨークに行きます。
同じ町を定点観察のように訪れることは、
ボクにとってはとても大切なことです。
自分の変化や町の変化、違いに敏感になりますし、
その感じ方で、時間の流れを考えるきっかけになるからです。
これは、先だってのことです。
時差ボケで、枕を抱えたまま眠れず、
仕方がないので暗いうちにホテルを出て、
グランドセントラル駅で、サンドウィッチとカフェオレを買い込み、
一番遠くへ行きそうな電車に乗り込んだとこまでは覚えていて、
列車に乗り込んだ途端、眠くなり、
目が覚めたらサンドイッチの上に寝ていて、
列車が時間調整で止まっていた駅のトイレで、
上着についたサンドウィッチのシミを取ってる間に、
列車は行ってしまい、表に出ると大きな大学がありました。
それはイェール大学という伝統ある名門校でした。
広大な敷地にゴシック建築の校舎が幾棟も連なり、
学校の環境がとても素晴らしく、そのまま入学したくなりました。
そんなことはかなわないので、1日その学生になった気分で、
校舎や校庭をぐるぐると歩き回りました。
その途中、可愛らしい美術館を見つけた。
最上階にたどり着いたとき、大きなついたての裏で、
なにやら大勢がは白熱の議論をしているのです。
そーっと覗いてみると、学芸員が、一枚の宗教画について解説してる。
その迎えに、5,6歳の子供たちが20人ほど、
ペターッとカーペットにしゃがんでいました。
学芸員の解説が終わると、子供たちは一斉に手を挙げます。
指名されると、絵に対する意見を述べていきます。
すると、その子供の意見に対し、別の子供がさらに自分の意見を重ねる。
そうやって学芸員と子供たちの白熱授業が、
1枚ずつ絵の前で延々と繰り広げられていくのでした。
中でも、ひときわ明るく、
ハキハキと意見を述べる6歳の美少女がいたんですけど、
この子をこのまま連れ去って、うちの店長として明日から働いてもらえたら
どんなに素敵かと思いました。
じっと話しを聞くだけ、何一つ意見を述べないのが当たり前。
そんな日本の在り方に慣れていたボクにはショックでした。
そこで見たどんな絵よりも、その光景のほうが印象に残ってしまって、
どんな絵を見たかちっとも覚えていません。
* *
ボクらがやっている小さなカフェを前に進めるためには、
小さなことの積み重ね以外には、なにも意味を持ちません。
そして、小さなことを積み重ねていくには、
自分たちのペースで仕事を見つけ、伸び伸び楽しくやる以外にないわけです。
『 これからのカフェをどう変えていけばよいだろうか 』と
議論を重ねても、一向に前に進まなければ何の意味もないわけです。
そのせいか、できることをひとつずつ、黙々と止めずに続けるヒトを
ボクは信用してしまうところがある。
さきの子供と日本の違いは教育の差なのでしょうか。
国家の力量の差なんでしょうか。
まぁなんであれ、
一人の個人の魅力というのは、コンプレックスを含めて在るものですから、
なにからなにまで矯正すれば良くなるものでもない気がします。
ただ、なにか大きな圧力が、みんなを無口にさせているとしたら、
それはとても困ったことだと思います。