ヤンキー→とび職→アメリカの名門大学 鈴木琢也さんの逆転人生を支えた「気合」

「バカヤンキーでも死ぬ気でやれば世界の名門大学で戦える。」――。そんなタイトルの本が10月上旬に出版された。著者の鈴木琢也さんはインタビューに「いつからでも人は変われる」と語った。

バカヤンキーでも死ぬ気でやれば世界の名門大学で戦える。 」――。そんなタイトルの本が10月上旬に出版された。世界的に有名なアメリカの公立カリフォルニア大学バークレー校(UCバークレー)を5月に卒業し、現在は東京の会社で働く鈴木琢也さん(29)が、自身の体験を綴ったものだ。鈴木さんはハフポスト日本版とのインタビューで、「いつからでも人は変われる」「そんなの無理だというのを、一度疑ってみることが重要」と語る。

鈴木さんは1986年、川崎市生まれ。中学で不良となり、神奈川の「最低レベル」の県立高校を卒業して「とび職」の職人をしていたが、勉強しようと一念発起、情報処理の専門学校に進んだ。その後、留学を決意し、仕事を辞めてアメリカに渡る。そしてUCバークレーで政治経済を学び、現在は「グロービス経営大学院」で働く。

インタビューに答える鈴木さん=東京都新宿区
インタビューに答える鈴木さん=東京都新宿区

――そもそも、どうしてヤンキーになったんですか。

自然にそうなった感じです。小学生のときは真面目でしたが友達がいなくて、家では家族の仲がよくなかった。どこにも自分の居場所がない感じで、居場所を探していたのだと思います。中学で不良社会に加わり、そこでたばこを吸ってイキがったりしているうちにだんだん入り込んでグレ始め、友達もできました。

――自分で一番「ワルだった」と思うのはいつですか。

一番荒れていたのは中学のときです。人に話もせず、「放っておいてくれ」という感じでした。でも、警察に捕まったとき、父親が身柄引受書にサインしてくれるかどうか、というときがありました。「こんな状態じゃ、サインできない」と言うんです。僕は親元を離れて施設に行った方がいいくらいに思っていたのですが、一方、そうなると自分の居場所である仲間から離れないといけない。それは嫌なので、やっぱり行けないと思いました。だから、「反省しています」と反省したそぶりを見せたりもしました。

中学生のころは家族の仲がよくありませんでした。外資系保険会社の営業マンとして働く父親が、頑張って家族を養っていこうと仕事に集中するが故に、家族とのコミュニケーションが少なくなりました。それが裏目に出て、グレてしまったんですね。

――ちなみに、どうして捕まったんですか。

だれかが盗んで放置したバイクを取りました。捨てられていたようなバイクをヘルメットもかぶらず2人乗りで走り回っていたら、警察に追われて結局、捕まりました。そのときはもう、ワルというか小僧、クソガキという感じで、世間を舐めていましたね。学業にはまったく興味がありませんでした。でも、周りのお母ちゃんたちも「高校くらい卒業しておけば」と言うので、全日制の普通高校に行きました。

高校に入ると、親からは何も言われないようになったという感じで、そこからは警察に捕まるようなことはしませんでした。遅刻をよくしていましたが、高校を卒業さえ出来ればいい、と思って過ごしていました。

ヤンキー時代の鈴木さん(左から7番目)
ヤンキー時代の鈴木さん(左から7番目)

―子供のころの夢は何でしたか。

中学のころ、周りにはヤンパパ(ヤンキーなパパ)やヤンママ(ヤンキーなママ)が多かったので、僕もそんな家族が早くほしいと思っていました。ヤンパパたちはトラックの運転や肉体労働をやっていたので、僕もそういうことをやるのかと漠然と思っていました。

高校を卒業してとび職を選んだのは、単純に、一番稼げそうだと思ったからです。いっこ上の先輩がやっていました。がむしゃらに働き、月収は35万から40万円の間。19歳にしてはそこそこ稼げたと思います。

――中高の友達はいまでもつながっていますか。

中学はつながっていますね。10人くらいのグループですが。いまは、みんなまじめにやっています。ホストになって、いまではホストの店を自分で経営したり、建設業に入って先輩と会社を立ち上げたりとか。僕のようにアメリカに留学したやつはいないですし、そもそも大卒はほかに1人もいないです。


――高校卒業後、勉強しようと思ったんですよね。大きな転機となったことは何ですか。

とび職をやっていた19歳のときです。大きくは二つあって、一つはとび職の仕事をしていたとき、この仕事は長くは続けられないから、ほかの何かを探さないといけないという危機感です。もう一つは、父親です。僕がとび職をやり始めたころから、父の仕事がうまく行き始めたんです。父親が仕事で成功して表彰を受けることになったのですが、ハワイで開かれた表彰式に行くと、父の会社の同僚の人から「お前のオヤジすごいんだぞ」と言われたりもしました。自分の知らなかった「父親の背中」を見ました。

それまで、父親の世界についてよく分かっていませんでした。でも、自分のやっている肉体労働とは違い、付加価値を売り、ものすごいカネを稼いでいる。それに、自信とやり甲斐をもって働いていました。ライフスタイルがまったく違った。それまで自分に夢があったわけではなかったのですが、そのとき自分も父親のように生きたいと思ったんです。

――でも、漢字が読めないから辞書も引けない、新聞は読めない、本を1冊読み通したことすらない、分数は分からない、という状態だったとか。

ええ、とび職は1年やって辞め、専門学校に2年通って猛勉強しました。そして、IT企業の法人営業を2年やりました。

その後、初めは通信制大学に行くつもりだったのですが、父親がそのことを知りました。父親は当時、おカネが入るようになっていて、資産運用をしようと考えていたのです。僕はそのとき24歳でしたが、父親は「本気でやる気があるんだったら、ベストプランを考えてみろ、予算は気にしなくていいから」と言ってくれました。ヒューマンリソースへの投資ということで、学費を支えてくれました。その点、僕は恵まれていました。

父親に言われて考えたのは、一番いいところ、だったら東大に進むことです。でも調べてみたら、合格するのに何年かかるかわからない。いくらなんでも7、8年かかったら30歳を過ぎてしまう。そりゃ問題だから、期限は5年間として予算は無視し、それで、いまの自分が死ぬ気で頑張って入れる大学ってどこだろうと探し、世界中からエリートが集まるカリフォルニア大学バークレー校に行く決意をしました。以前から海外に行きたいとか、留学したいということではありませんでした。


――日本の公立と違って、バークレーは学費が高いですよね。

学費はムチャクチャかかります。でも、2年制のコミュニティーカレッジがカリフォルニア州にたくさんあり、そこからカリフォルニア大学に編入できる仕組みが整っていたんです。この経緯なら、もしかしたらいけるかも、と思いました。

――英語もかなり初歩的なところから始めたんですよね。著書では、「something」の意味も分からないまま渡米したとか。アメリカに渡った直後は大変だったと思いますが。

初めは、本当に中学三年のレベルもないような感じでした。精神的にも大変で、難しくないはずなのに何もできない状態。何か壁にぶち当たるとインターネットで探してやってみる、みたいなのを何回も繰り返しました。コミュニティーカレッジだと、日本の進学高に行っていた人なら英語が上手でなくてもすぐにできるといわれますが、僕は基礎知識もなかったのでとても大変でした。でも、勉強に没頭し、26歳で念願のバークレーに編入できました。

カリフォルニア大学バークレー校の卒業式で。
カリフォルニア大学バークレー校の卒業式で。

――大学卒業後、アメリカで就職せずに日本に戻ってきた理由は。

日本でも外国でもどこでも、場所に対するこだわりはありませんでした。日本のいいところもあるし、アメリカのいいところもある。純粋にやりたいことを優先しました。もともと教育に漠然と興味を持っていたのですが、いま働いている「グロービス経営大学院」は、自分の希望に近いと思いました。

いまでは、大人になってからも勉強することが大切だと思っています。そして、やり直しがきく社会がもっと広がっていけばいいと。あるキャリアでうまくいかなかったら、キャリアチェンジできる場があれば理想的な社会だと考えています。

――アメリカに比べて、日本がつまらないと思ったりはしなかったですか。

いいえ、どっちも好きで、いいものは日本に持って帰りたいということです。自分が貢献したい社会は日本でした。アメリカのいいところは「違いを受け入れる」「違うのが当たり前」という価値観です。競争の仕方では、エッジの掛け方、つまり違いを競っています。一方、日本のいいところは、みんなが頑張るところ。どんな仕事でも丁寧にやります。そうできるのは半端ではないですが、アメリカではなかなか難しいです。でも日本は、いろんな価値観を受け入れる発想にはなりにくいのではないでしょうか。

僕はたまたまある仕組みの中で食い込むことができました。成功かというかと、まだそうではないと思います。とにかく「そんなの無理だ」というのを、一度疑ってみることが重要です。一番の敵は自分。頑張っているのに成績がよくならないとき、できるヤツを見て「あいつやっぱ、地頭いいんだ」と思えば楽じゃないですか。でも、実際は、何らかの方法でうまくやっていたのかもしれません。自分は努力を怠っていたからダメなんじゃなかと自分にドライブをかけて、止まらずに試行錯誤をしていこうと思います。

――いまの仕事はどういうものですか。

受講生にグロービスを正確に知ってもらい、彼らが学び始めることを願って背中を押す業務をしています。まだ働き始めて数カ月、いま必死にやっているところです。

30歳までには、どのフィールドで真剣にやるか決めようと思い、いまの会社に入りました。5年後くらいに大きく動ければいいと思いますし、在籍しながら勉強など何かをやることも考えています。経験を積んである分野のエキスパートとなり、お爺ちゃんになったら大学などの教壇に立てたらいいなとは思っています。

鈴木さんの著書「バカヤンキーでも死ぬ気でやれば世界の名門大学で戦える。」(ポプラ社)は、何かを学ぼうと思っている人や、忙しく働く社会人にも参考になる話がつまった一冊だ。

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