いつもスマホで他人と「つながって」いないと安心できないのはなぜか。一人になるのが、そんなに不安なのでしょうか。新著『忘れる力』を出版した臨済宗 全生庵住職の平井正修氏が説く、「孤独」でいることの勧め。
誰かとつながりたい「見て見て症候群」
暇さえあればついスマートフォンをさわり、SNSやニュースを見てしまう。そんな人が増えています。
もちろん仕事は分断されるし、本来やるべきことに集中できていないので、口までぽかんと開いていることも......。
息抜きのレベルならばいいのですが、いつも「何か更新されているかもしれない」「知らない情報が今まさに流れているかもしれない」「知人の動向を自分だけが知らないのでは?」と気にしていたら、効率が悪くなるのは当たり前です。
人の投稿を見て「いいね」と意思表示をして、自分のことを発信する時は「自分を見て」と思う。何となく互いに見守ることで、他人とつながっていると思って安心しているのかもしれません。
子どもはよく、「見て見て!」と言います。誰かとつながりたい「見て見て症候群」の人は、私からすると、まるでそんな子どものように思えてしまいます。
考えてみてください。メールやSNSで常に誰かと接触しているとしても、それで互いをどれだけ理解できているでしょうか。
逆に、多くの人がコミュニケーションツールに頼りすぎて、五感や感性を使って相手を感じることが、おろそかになっているようにさえ思えます。
ひと目会って、「何だかこの人の考え方がわかる」「この雰囲気はとても好ましい」と何かを察知したり、言葉にしなくても理解できたり、共感を覚えたりすることがあるでしょう。それらは実際に会わない限り、何度メールを交わしたとしても伝わってこないものです。
私が住職をつとめる禅寺「全生庵」を開いた山岡鉄舟先生が、将軍・徳川慶喜の命を受け、官軍の西郷隆盛とはじめて会った時は、敵同士でした。
この会談が後の江戸城無血開城につながるのですが、立場は別にして、お互い腹をくくった「胆力」のある者同士、一度会っただけで互いに深く理解し合える仲になったそうです。
そういう「直感」が人間には備わっています。今のようにツールに頼らず、自分の感覚を信じていた昔の人のほうが、直感力に優れていたのでしょう。
感覚を活かせば、余計なことにとらわれず、目の前にあるものを、ありのまま受け入れて的確に判断することができるのです。
友人や知人が多ければそれだけで安心?
人が「誰かとつながっていたい」という気持ちを抱くのは、裏を返せば、「一人になるのに不安がある」ということです。
たとえば、SNSで、「今日は友だちとごはんを食べた」「今週は毎日忘年会がある」という投稿があったとします。それを見た人が、「いつも友だちに囲まれていて楽しそうでいいなあ」と思うのであれば、その人自身が孤独に対して不安を抱いているのでしょう。
発信したほうも、「友だちと一緒にいる」という事実を発信することで、一人ではないことに安心している可能性もあります。
「友だちが多いことはいいことだ」という思い込みにとらわれていると、たくさんの人に好かれている自分に安心しようとします。しかし、友だちが多ければ、それだけで安心なのでしょうか。
孤独に耐えられる人間しかトップにはなれない
私自身は、たくさんの友人が欲しいとか、積極的に増やそうと思ったことは一度もありません。
一人でいることは寂しいのかもしれませんが、先に述べたように、人間は一人で生まれて一人で死んでいくものです。
そもそも人間は孤独なもの。まずはそれを受け入れることができれば、誰が誰と何をしていても、気にならなくなります。
経営者や政治家など、人間は地位が上がれば上がるほど、孤独になっていかざるを得ません。
もちろん知り合いは増えますが、基本はやはり一人です。
自分で判断しなければならない。自分で受け答えしなければならない。相談できないことも多くなってくるでしょう。
だとしたら、そんな孤独に耐えられる人間でないと、トップで居続けることはできないのです。
もちろん誰もがトップを目指す必要はありませんが、この点一つをとっても、「友だちは多いほうがいい」「孤独は悲しいもの」というような常識は崩れると思います。
よく、「人間は一人じゃないんだよ。みんなが見てくれて支え合っているんだよ」と言います。それはそうですが、前提として人間は生まれながらにして孤独な存在だという事実があります。
生きていくうえでは、一人でいることが基本なのです。だからこそ、周囲の人とお互いに支え合い、助け合って生きている。一人の人間同士が、自由に網の目のように関係性を築いているのです。
「みんなが放っておいてくれている」と思えば不安にならない
多くの人が「孤独」を避けたがるのは、きっと「孤独」という言葉に悪いイメージが貼りついているからでしょう。
最近は「孤独死」や「孤食」といった言葉をよく耳にします。誰にも看取られず一人で死んでいく、誰とも会話しないまま一人で食事をとる。一人きりはなんて寂しく、なんて味気ないのだろうと、つい思ってしまいます。
もともと一人でいることは、人間にとってごく普通のことですが、今は、誰かと一緒にいることのほうが当たり前の時代になったということでしょうか。
携帯電話を持っていれば、友人とも仕事関係の知り合いとも、それこそ、海外にいる人とも、いつでも連絡が取れるし、メッセージをやり取りすることができます。家に一人でいたとしても、インターネットに接続すればコミュニティがあり、仲間とコミュニケーションが取れるのです。
携帯電話などを持たずに一人でいる時は「今は一人だ」と割りきっているからいいのですが、誰かとつながっていたり、たくさんの人の中にいるのに孤独を感じるのはつらいものです。
クラスの友人とケンカをしてしまって、一人でいる。会社で窓際に追いやられて、関わる人がほとんどいない。そんな状況に陥ると、はじめは苦痛に感じることでしょう。
それでも、「ああ、今は一人だな。でも、もともと一人だからな」と思えば、不安がふくらんでいくことを避けられます。むしろ、「みんなが放っておいてくれている」と思っていてもいい。
まわりと比べなくていいのです。友人が少なくてもおおいにけっこう。孤独は決して悪いことではありません。
何のために人と一緒にいたいのか、一人が嫌だとしたらなぜなのか――。一度振り返って考えてみてください。
もしかしたら、
「たくさんの人に囲まれているべきだ」
「みんなの人気者でいたい」
という欲にとらわれているだけなのかもしれません。それは妄想です。そんなものは忘れてしまっていい。
さあ、そこにただ坐って、静かに目を閉じましょう。孤独は案外、いいものですよ。
(平井正修:臨済宗 全生庵住職)
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